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怪談師には憑いている(第三章)


第三章 怪談師には憑いている


 
『クッチー朽木が死んだ』
 先輩から電話がかかってきたのは、そろそろ寝ようかと思っていた二十三時過ぎのことだった。
「は? どういうこと?」
『生配信中の事故らしい。ネットニュースを眺めてたら流れてきた。さっきメールでアーカイブ動画のURLを追った。見られるか?』
 スマホをスピーカーにして、すぐにタブレットの電源を入れた。
 メールに貼られているリンクをタップする。

『はーいどーもー。怪談師兼心霊スポット探検家のクッチー朽木です』
 アーカイブの再生が始まると同時に、聞き覚えのある朽木の声が聞こえてきた。
 画面に向かって手を振る朽木の顔がカットインする。
 撮影しているのはスタッフなのだろうか。
 彼は古びたトンネルの入り口にいるようだ。
 頼りないオレンジ色の灯りが、一車線のトンネル内部を申し訳程度に照らしている。
『えー、今日はM県の百人峠トンネルに来ています。時間は、えーっと、二十三時を少し回ったくらいですね。ご覧のように、車通りもまったくありません』
 カメラがトンネル内部をズームするが、出口は見えない。
 ゆるくカーブした壁にそって、ぼんやりした照明が点々と続いている。帆立貝の目のようだ。
『ここをご存じない方のために、このトンネルにまつわる話を少し解説しますね』
 そこで朽木が語ったのはこういう話だった。
 M県のこの辺りは山がちで、古くから人や物の行き来に支障をきたしていた。
 そのため、明治から大正にかけて、山をくり抜いてトンネルを通す計画が立案されたが、岩盤の硬さと地下水の多さから工事は難航。
 作業員の事故死も多発し、その数は百人を軽く超えたという。
 危険な工事であったため、また古い時代でのこともあり、収監されていた犯罪者たちが作業員として多く動員された。
 亡くなった者の多くはこうした者たちであったという。
 彼らは弔われることもなく、人柱としてこのトンネルの壁の中に塗りこめられたのだという。
 それは、この地方の土着の拝み屋が行政に進言したためだったともいわれている。
 百人目が埋められると、拝み屋はトンネルの中ほどに作られた凹み部分に小さな祠を建てた。
 そこで祈りを奉げると、それまで頻発していた事故はぴたりと収まり、それ以降の工事は順調に進んだのだった。
 百人峠の名も、この痛ましい過去に由来するという。
 しかし開通から百年が経とうとしたある日、肝試しに来ていた若者たちが、ふざけて祠を移動させてしまった。
 それ以来、封じられていた百人がさまよい出てきて、通行人に憑き、怪奇現象を引き起こすのだという。
『あっ、今、ちらっと何か見えませんでした?』
 朽木が言ってトンネルの奥を指さす。
 しかしわたしには何も見えない。
『トンネルの中に入ってみましょうか。ここで写真を撮ると画面を埋めつくすほどのオーブが映ったり、画面を横切る白いものが映りこむと言われています。ちょっと撮ってみましょう』
 言いながら、朽木はスマホをトンネルの奥に向けて構えた。
 カシャッと電子音がして、フラッシュで一瞬だけ周囲が明るくなる。
「あれっ」
『どうした?』
 スマホの向こうから、先輩が怪訝そうな声を上げた。
「今、朽木がスマホで写真を撮ったところなんだけど……」
『ああ、あったな。それがどうした?』
「何か長いものが、一瞬画面を横切ったみたいに見えたんだけど」
『そんなもの、あったか?』
「うーん、ほんの一瞬だったから、見間違いかもしれないけど」
『スカイフィッシュかもな』
「そんなわけないでしょ」
 これくらいなら、わたしもテレビのオカルト番組で見たことがあるから知っている。
 スカイフィッシュとは都市伝説の一種で、洞窟の入り口や水辺で多く撮影される、空を飛ぶ長い棒状の体をした怪異のことだ。
 だがスカイフィッシュの正体は、ハエなどの羽根の生えた昆虫らしい。そうした昆虫がカメラのすぐ近くを飛んでいて、残像が棒状の生き物であるかのように映りこんだものだという。
『問題のシーンは、そろそろだぞ。心の準備をしろよ』
「ちょっとやめてよ、ジャンプスケアじゃないんだから」
 ジャンプスケアというのは、ホラー映画などでよくある、突然大きな音とともに幽霊や殺人鬼などが飛び出してきたりする、観客を怖がらせるための手法だ。
 しかもこれはフィクションやモキュメンタリーじゃない。
リアルに起こった出来事の記録なのだ。
『どれどれ、何か映ってるかなあ?』
 画面の中の朽木はそんなことを言いながら、スマホ画面をしげしげと眺めている。
 のんびりとした雰囲気だったのは、ここまでだった。
 ずっとへらへらした笑いを貼りつけていた朽木の顔から、すとんと表情が抜けた。
 まるでスイッチをパチンと切り替えるように。
『……』
 画面に沈黙が流れる。
 おそらくはわずか数秒だっただろうその間が、ひどく長く感じられた。
 見ているこちらまで、手のひらにつめたい汗がにじんでくる。
 さすがに様子がおかしいと思ったのか、スタッフらしき人物の声がぼそぼそと入る。
『ちょっと、クッチー。どうしたんだよ』
『……』
『おい、クッチーってば。何が映ってたんだよ』
 その瞬間、朽木は大声を上げて笑いだした。
『あははははっははっははぁ!』
 あまりの大音量にビクッとして、思わずタブレットを取り落としてしまう。
 ガシャンと音を立ててタブレットは床に落ちたが、朽木はずっと笑い続けていた。
 その引きつった顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
『あはははっはああああああ!』
 喉を引きつらせて高笑いしながら、朽木はトンネルの奥へと向かって猛然と駆け出した。
 あまりのことに、スタッフは呆然としたまま、どんどん遠ざかるその背中を見送るしかなかった。
 そのまま、朽木は戻ってはこなかった。
 配信はそこで終わっている。


『……見たか』
「見たわよ。何だったの、あれ」
『おれにもわからん。ただ、朽木はトンネルを突っ切った後、そのままガードレールを乗り越えて崖下に転落しているのが、翌朝に発見されたそうだ。ニュースになってる』
 タブレットを拾い上げて、クッチー朽木で検索してみた。
 先輩の言うとおり、ネットはこの事件でもちきりだった。
 ――心霊スポット探検中の怪談師、幽霊に取り憑かれたか。
 ――死亡直前に撮影されたスマホ画像には、いったい何が映っていたのか。スマホは今も見つかっていないらしい。
 ――配信を見ていたリスナーのうち何人かが、「白くて長い体の動物みたいなものが映っている」と証言しているらしい。しかしアーカイブでは確認できなかったようだ。
『一部のリスナーが言ってる白くて長いものって、おまえがさっき言ってたやつじゃねえ?』
「……わかんない」
『これも単なる偶然だと思うか?』
「……わかんない」
 教団と関わり、行方不明になったり命を落としたりした人々も、こんな体験をしたのだろうか。
「ねえ、先輩」
『何だ?』
「蓮見さんの出身地って、東北のI県T市らしいんだけど――」
『そうらしいな。ちなみにI県とその近隣には、飯綱(いずな)というものを使う一族がいたらしい。飯綱は、白くて長いイタチみたいな体をしているらしいぜ』 
「そこに行ってみない?」

     *
 
 明くる日、わたしは先輩とともに東北新幹線に乗りこみ、北を目指していた。大宮を過ぎてしばらくすると、車窓を流れるのは緑豊かな田園地帯となる。
「なあ」
 車内販売で買った硬いアイスと格闘しながら、先輩が口をひらいた。
「朽木のやつ、紹介した版元と早速連絡取ってたみたいなんだけどさ」
「へえ」
「それが意外なことに、朽木の企画に版元が食いついたみたいなんだよな」 
「意外。本人からお礼メールでも来てたの?」
「そう。よりによってあの事件が起こる日の日中にさ」
「彼の遺言みたいなものになってしまったわけね」
 先輩は苦笑いして、ようやくスプーンが差しこめる硬さになったアイスを一口舐めた。
「ちょっと気になったのが、その企画っていうのが、例の団体に関する内情をオカルト的な観点も交えて暴露する――ってやつだったみたいなんだよな」
「ええ?」
 飲みかけのアイスコーヒーを危うくこぼしそうになる。
「てっきり怪談の短編集みたいなものが出したいのかと思ってたのに、そっち?」
「幾つか出したうち、採用になった企画がたまたまこっちだったって可能性もあるけどな」
「エキセントリックだとかで、版元が食いついたのかな」
「かもな。団体の実名は出さずに『某団体』なんかにするつもりだったのかもしれないけど、危ない橋を渡りかけてたのには違いねえ」
 コーヒーの苦みが増したような気がする。ミルクとガムシロップももらってくればよかった。
 やっぱり、あの団体と朽木の死はつながっているのだろうか。
 何かに憑かれたように豹変した朽木の様子は、明らかに異常だった。
 先日のライブやアップしている動画を見る限り、朽木はオーバーリアクションなところがあるが、演技派ではない。
 だから余計にあのときの様子が不気味なのだ。
 おそらくリスナーたちもそうなのだろう。ネット上のざわつきは、一日経っても収まりそうにない。
「『いずなの使徒』って、何なんだろうな」
 わたしは先輩の呟きには答えず、窓枠に頬杖をついて車窓の外へ視線を向けた。



 わたしが生まれ育ったのは、ごく普通の家庭だった。
 父は中規模の企業に勤める営業担当のサラリーマンで、三~四年おきに全国の営業所を渡り歩く転勤族だった。
 母は文系の大学を出た後、大企業の総務課で働いていた。
 父と知り合ったのはその職場らしい。
 結婚を機に、父へついていくために会社を辞めた。
 母はもともと、外で働くことが好きな性格だったから、引っ越し先でも何か仕事を見つけようと思っていたらしい。
 実際、社員として採用してくれそうな企業もあったようだ。
 けれど夫が転勤族と知るや、内定はもらえなかったそうだ。
 それならばと母はパートを探した。
 しかし、やっと仕事の内容にも職場の人間関係にも慣れてうまくいき始めた頃に、また引っ越しとなる。
 わたしを妊娠したことをきっかけに、母は専業主婦となる道を選んだそうだ。
 ここから先は、母の妹である叔母から聞いた話も混じる。
 わたしが生まれても、父は毎日残業で帰りが遅く、休日出勤も当たり前。
 たまの休みも、上司や取引先に付き合って接待ゴルフに飲み会。
 ワンオペで育児に向き合う母の孤独はどんどん深まっていった。
 その隙間にうまく入りこんできたのが、新興宗教だったのだ。
 最初に母がその団体と接触を持ったのは、夕飯の食材を買いに、商店街を歩いているときだったらしい。
 わたしはそのとき既に小学生だったが、家で留守番をしていた。
「あの、失礼ですが……あなた、最近何かよくないことがありませんでしたか」
 そう話しかけてきたのは、やさしそうな雰囲気の中年女性だったそうだ。
 戸惑い言葉を失っている母に、女性はやさしく語りかけた。
 まるで、迷子の子どもにそうするように。
「突然こんなことを言って、びっくりさせてごめんなさいね。でも私、修行を積んだので悲しい気持ちになっている人がわかるんです。私も辛いときに声をかけてもらって、救われたから。もしお時間があったら、少しお話を聞いてみませんか」
 いいことばかりの人生を歩んでいる人などいるだろうか。
 最近ちょっとよくないことがあった程度の人なら、ほとんど全員があてはまるだろう。そういう、誰にでも該当するようなことをもっともらしく伝え、「これは私のことを言っている」と思わせて信用させるのは、占いでもよく使われる手法だ。
 冷静な思考力を失っていた母は、共感してもらえた――やさしくしてもらえたと感じて嬉しかったのだろう。
 少し話を聞くだけという言葉を信じて連れていかれたのは、商店街の中にある古い雑居ビルの一室だった。  
 会議室のような部屋に通されると、二十客ほどのパイプ椅子が車座に並べられていた。既に椅子はほぼ満席で、わずかに空いていた席に母は案内された。
 間もなく、一人の女性が音もなく部屋に入ってくる。
 裾を引きずるほどに長い黒のワンピースをまとったその女性は、皆から『瑜伽(よぎ)さま』と呼ばれていた。
「幸せは分け与えあうものです。少しの幸せがあれば、みなさんで分け合いましょう。たくさんの幸せがあれば、より多くのみなさんで分け合いましょう」
 瑜伽は歌うような口調で言った。
「わたくしはいつもみなさんの幸せを願っています。どうぞみなさんが幸せでありますように。そのお手伝いをするために、わたくしはこの世に生を受けたのですから」
 彼女のおだやかな言葉を聞いているうちに、母は涙を流していた。
家庭に閉じこめられ、社会から隔絶されて孤立していた母の話を、瑜伽をはじめとしたその場の仲間たちは真摯に聞き、深い共感を示してくれた。
 ここの人たちなら私のことをわかってくれる。ここが自分の居場所なのだ。母はそう強く感じたらしい。
会社で働き、キャリアを積むことにやりがいを見出していたのにその道を断たれた母の孤独は、それほどに深かったのだ。
 この団体の名称は、『いずなの使徒』といった。
「あなたが持っている幸せを、みなさんにわけてあげましょう。そうするとあなたの元にはより大きな幸せがやってきます。幸せは独り占めするものではありません。分け与えるものです」
 団体の世話人に言われるまま、母は献金にのめりこんだ。
 献金をすると、集会に参加したときに瑜伽が褒めてくれる。みなが拍手で讃えてくれる。
 あなたはなんてすばらしい、あなたこそ使徒の中の使徒だとみなが口を揃えてほめそやした。
 その快感は、母をあっという間に虜にした。
 実家の両親と折り合いが悪く、遠くに暮らす妹と電話かメールで話すくらいで、身近な頼れる人は夫しかいなかったことも、のめりこみに拍車をかけたのだろう。
 最初は独身時代に貯めた自分の貯金から献金を捻出していたらしいが、すぐに底をついた。
 すると今度は、家の貯金に手をつけるようになった。
 それも底をつくと、今度は食費を削ってでも献金をするようになった。
 父が妻の行動に気がついたのは、電気代が引き落とせず停められ、帰宅したときに家が真っ暗だったことがきっかけだった。
 その日、わたしは灯りのない部屋で一人、父の帰りを待っていた。
 母はいつものようにわたしを置いて、教団の集会に参加していた。
 父は激怒し、帰宅した母と大ゲンカになった。
 だが、離婚はしなかった。
 こんな状況になってもまだ、父は会社に対する体面のほうを優先したのだ。
 これ以上献金はしないと父に約束させられた母は、今度は密かに消費者金融に手を出した。
 父の見ていないところでお金を借り、献金を続けた。
しかしそれもやがて父の知るところとなり、今度こそ父の怒りは頂点に達した。
 両親は離婚し、母はわたしを残して家を出て行くことになった。
 しかしある日、わたしが学校から帰ると、なぜか家の前で母が待っていた。
 わたしを迎えに来たという。
 まだ小学生だったわたしは、母が迎えにきてくれたことが嬉しかった。
 母が来ても会ってはいけないと父からきつく言い渡されていたが、そんなことはすっかり頭から消えていた。
 母がわたしを連れていったのは、『いずなの使徒』の施設だった。
そこには長い黒髪に真っ赤な唇をした、とても美人の女性がいたことを覚えている。
 彼女はヨギと名乗り、今日からここがわたしのおうちなのだと言った。
 後から知ったことだが、母はわたし自身を教団に献じたのだ。
 これ以上母が献金することは難しいと知った『いずなの使徒』は、「ならばあなたの娘さんをわれわれの家族にしましょう」と言ったらしい。
 要するに入信させて信者になれということだ。
 そこでわたしは、奇妙な儀式に参加させられたようだ。
 ――ようだ、というのは、そのときの記憶がなぜか靄がかかったように曖昧だからだ。
 わたしが父の元へ帰ることができたのは、放課後に連れ去られてから半年近くも経った後のことだった。
 どうやって教団を抜け出したのかはわからないが、ぼんやりした様子で道を歩いているところを保護されたらしい。
 それ以来、なぜか母がわたしの前に現れることはなかった。
 だから今、母がどこにいるのか。そもそも生きているのかさえも、わたしは知らない。

     *

 朝の七時に東京を発ち、新幹線とレンタカーを乗り継いで、T市に到着した頃には十時を過ぎていた。
座りっぱなしで固まった腰を伸ばすわたしに、先輩がのんびりと言った。
「おー、さすがに東北は涼しいなあ。東京とは大違いだぜ」
 T市は人口三万人ほどの小さな町だ。主要産業は農林業と畜産業。全体的に山がちで、盆地になった一部の地域に人口のほとんどが集中しているらしい。
 先輩が運転するレンタカーが停まったのは、二階建てのコンクリート造りの建物に隣接した駐車場だった。
 カナカナカナカナ……。
 ドアを開けると、駐車場を取り囲む木立から、ヒグラシが鳴く声がする。同じ蝉なのに、アブラゼミの声は煩く感じて、ヒグラシのそれは切なさを呼び起こすのはなぜだろう。それにしても腰が痛い。
「運動不足だな。おれの通っているジムのトレーナー紹介するか?」
「結構です。毎日ヨガやってるもん。屍のポーズとか」
「それ、単に寝てるだけだろ」
「うるさいなあ。ところでここ、どこ?」
「郷土資料館だ」
「資料館?」
「こういう土着の信仰や文化はな、地元の資料館や博物館に一番資料が残ってるんだよ。伝承に詳しい学芸員がいることも多い。オカルトライター目指すなら覚えときな」
「いや、別に目指してないけど」
 軽口をたたきながら、受付カウンターへと向かう。
「大人二枚お願いします」
「二千四百円です」
 チケットを受け取って館内へ。
 ひんやりと空調が効いていて快適だ。
 風土や文化、歴史などについて解説を読みながら、展示物を眺めていく。
 その中でわたしたちが足を止めたのは、地元の信仰について特集したコーナーだった。
 手のひらに乗るくらいの大きさの、白い動物の剥製。その手前には『飯綱の剥製』というプレートが置かれていた。
 ネズミのような顔をしているが、イタチのような細長い体つきでもある。
「ね、ねえ、これ本物かな」
 じっと観察している先輩のTシャツの袖を思わず引っ張った。
「わからん。普通のイタチに見えなくもないけど……よくある人魚のミイラみたいな感じかもしれないな」
「人魚のミイラ?」
「日本各地の寺や神社なんかに伝わっているミイラでさ、牙が生えた人間みたいな頭部と胴体に、魚の下半身を持っていることが多い。大半は猿と魚をつなぎ合わせて作った見世物だけどな」
 解説文によれば、飯綱はごく小さな獣の姿をしたもので、他人の過去や未来のことを教えてくれたり、他人のもとへ送って災いをもたらしたり、欲しいものを盗んでこさせたりできたらしい。
 古くは遠野物語を記した柳田国男の「遠野物語拾遺」にも記載があるという。
 飯綱を使った術には時限のようなものがあって、使い手が寿命を迎える頃には、飯綱によって蓄えた富も失われ、飯綱を手に入れる前の状態か、もっと悪い状態に戻ってしまう性質のものだという。
 だから使役する際には、よくよく注意せねばならないらしい。
「これ、もっと資料がないかな」
「学芸員の人に相談してみるか?」
「突然来てそんなお願いしたら失礼じゃないかなあ」
 そんなことを大きな声で話していたせいか、
「あの、もしよかったら、ご説明しましょうか」
 そう背中に声をかけられたときには驚いて、すくみ上がってしまった。
「びっくりさせてすみません。展示物の入れ替えをしていたら、興味深いお話をされていたのが聞こえたので、つい」
 少し照れくさそうに言ったのは、品のよさそうな中年の女性だった。
 首から『T市郷土資料館 学芸員 柴田』と印字されたネームプレートを提げ、小脇にタブレットPCを抱えている。
 さっきからそこにいたのは知っていたが、作業服姿だったのでてっきり清掃か館内整備の作業員の方かと思いこんでしまっていた。 
「これはありがたい。実はぼくたち、仕事で全国各地の怖い話や不思議な話を集めているんです」
 どこから取り出したのか、先輩は素早く名刺を差し出した。
 わたしはもたもたとスキニーのポケットから名刺入れを引っぱり出す。
こういうときの反応速度は見習いたいものだ。
「飯綱が気になりますか?」
「はい。飯綱はもちろん、憑きもの全般についてもっと知りたいと思いまして」
「憑きものとして広く知られているものには、関東のオサキ狐、四国や九州東南部の犬神がありますね。ほかにも三河地方のオトラ狐、島根の人狐(にんこ)や濃尾・甲信・伊豆のクダ狐に、北部九州のヤコ、中国山間部のゲドウ。それに、ここ東北の飯綱(いずな)があります」
 柴田さんは抱えていたタブレットPCを操作すると、わたしたちに向けて示した。
 表示されているのは、江戸時代頃のものかと思われる、古い日本地図。
 各所にオトラ、オサキなどと片仮名で記されているのを見るに、さきほど説明してもらった憑きものの分布図ということなのだろう。
「実は憑きものの中でも、飯綱に関する資料はほかと比べてとても少ないんです」
「それは、どうしてですか?」
 つい前のめりになる。
 まるで気になる怪談を目の前にしたときの蓮見さんみたいだ。
「民俗学的には、憑きものは民間信仰の一つです。ですが飯綱はとりわけ、特定の術者の家系によって使われてきたがために、情報が少ないのではと言われていますね」
「なるほど、それは興味深い説ですね」
 先輩が隣でしきりにうなずいている。
「クダ狐は白い毛並みをしているものが最も力が強いといわれています。この剥製は飯綱としてとある民家に残されていたものを当館が寄贈いただいたものですが、クダと飯綱が類似のものだとするなら、白い飯綱は力が強いということになりますね」
 朽木の動画で画面を横切った白いもの。
 もしあれが飯綱だったなら――
 想像すると、ぞくりと怖気が足元から這い上がってきた。
「東北で有名なザシキワラシも、広義の憑きものだといわれているって聞いたことがあるんですが、本当でしょうか」
「はい、よくご存じですね」
「えっ、そうなんですか? ザシキワラシは幸せを運ぶ妖怪だと思ってました」
「ザシキワラシは家に憑く存在で、憑いている間は富をもたらすけれど、ザシキワラシが出ていってしまうとその家は没落してしまうといいます」
「遠野物語の中にも、二人の女の子のザシキワラシが出て行ってしまったために、一日で滅んでしまった豪農の話がありましたね」
「はい。民俗学的に考えると、運がついているとかついていないというときの『つく』とは、憑きもののことを指すという説もあります」
 なるほど。憑きものが憑いているから裕福になり、憑きものが離れたから没落するというわけだ。
 だから恵まれている人や家を、「ついている」と言って羨望するのか。
 逆に、不運なときは「ついてない」「つきに見放された」などという。
 ついていなかったから仕方がない。
 ついていたからたまたまだ。
 農村のような閉じた社会の中では、嫉妬も憎悪も「憑きもの」のしわざとすることが、うまく折り合いをつけて生きていく手段だったのかもしれない。
「憑きものは家系によって起こると言われています。憑きものを使役する家は裕福になるので妬まれたり、人に憑きものをつけて不幸にするので忌み嫌われたりします。結果として、集落では孤立していることが多かったといいます」
 蓮見さんと怪談蒐集で訪れた集落の老女を思い出す。
 わたしは思いきって口を開いた。
「あ、あの……柴田さん。質問してもいいですか」
「はい、何でしょう」
「一度その家系に憑いてしまった飯綱を落とす方法――みたいなものは存在するのでしょうか?」
 柴田さんはあごに手を当てて、考えこむような仕草をした。
「まったくないことはないかと思います。文献の中には、飯綱を落とすには飯綱を憑けた状態で清らかな川の流れに身を浸すと、苦しがった飯綱が出てくるから、編み笠に飯綱を乗せて、そのまま流してしまえばよいと記しているものもあります」
「それ、本当に効く方法でしょうか。笠でなく、お盆とか洗面器とかでも代用できますか」
「おい、ちょっと落ち着けよ」
 先輩に肩へ手を置かれて、はっとした。
「すみません。つい夢中になってしまいました」
「いいえ、お気になさらないでください。でもなぜか本当に、飯綱は文献が少ないんですよ。まるで、わざとそうしたみたいですよね」
 柴田さんは深い意味もなく言ったのだろう。
 だけど、わたしはとっさに先輩と顔を見合わせていた。
 この地の飯綱使いが、自分たちの手の内が知られるおそれがある資料を廃棄させてきたのかもしれない。
「あの……さらにこんな質問を重ねるのは不躾だとわかってはいるのですが」
「いいえ、何でも聞いてくださって結構ですよ」
 柴田さんのやさしそうな笑顔に甘えて、わたしは言った。
「この辺りの地域で、実際に飯綱を使っていた――あるいは使っている一族のことをご存じではないですか?」
 柴田さんはぱちぱちと瞬きした。
 さすがに意外な質問だったのかもしれない。
「残念ですが、お力になれず、すみません」
「そうですか……」
「私も飯綱使いの方とお話してみたいとかねがね思っているのですが、柳田国男も言うように、飯綱使いは非常に希少な存在です。もう現在では、滅びてしまったのかもしれませんね」
「あの、それと最後に一つだけ」
「はい」
 柴田さんの目をじっと見据えて、わたしはその問いを口にした。
「蓮見という苗字に聞き覚えはありますか?」
 
「おまえなあ、あんまりヒヤヒヤさせんなよ」
 レンタカーを停めた駐車場へと向かいながら、先輩はむっつりと言った。
「だって」
「だってもさってもねえ。おまえも取材したことあるなら、もっと駆け引きを覚えろ。何でもかんでもさっきみたいにストレートにぶつけてたら、聞き出せるもんも聞き出せねえぞ」
「だけどあの人、何だか隠し事してるみたいに見えたんだもん。だから――」
「まあ、それに関しちゃおれも同意見だな」
 ロックを解除し、ドアを開ける。
 車内にこもっていた熱気が、むわっと立ちこめた。
 あちいと言いながら、先輩は運転席にどっかりと乗りこむ。
 助手席側のシートも焼けるように熱い。素足だったら火傷するかもと思えるくらいだ。
「いかにも立て板に水って感じでしゃべっちゃいるが、肝心なことは隠してるように見えた」
「あの人、本当に蓮見家のことは知らないんだと思う?」
「どうだろうな。五分五分ってところかな」 
 わたしは質問をぶつけた直後の柴田さんの顔を思い出す。
 目元がわずかに引きつっていた。
「この後はどうするの? せっかくだし、他のとこも行ってみるでしょ」
 資料館に入る前はよく晴れていた空には、灰色の雲が大きくせり出していた。
 天気予報では晴れだったような気がするが、夕立になっても車移動だし、特に問題はないだろう。
「そうだな、後は――」
 言いかけた口の形のまま、先輩の表情が凍りつく。
 どうしたのかと尋ねる前に、わたしの顔の横でコンコンと音がした。
 つられてそちらに顔を向けたわたしの目に真っ先に飛びこんできたのは、喪服のように真っ黒なスーツ。続けて、人並外れて整った顔だった。
 ドッと心臓が跳ねる。
「こんにちは。こんなところでお会いするなんて、奇遇ですね」
 そう言って、怪談王子――蓮見才人は微笑んだ。


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