愛は不公平な物。でも、それが欲しいんだ。

 嫌なことがあったり、ちょっといいことがあったり。やっぱなー外に出なきゃなあって思う。俺は本とか映画とか音楽が好きで、つい家にこもりがちになるけれど、何かの新しい刺激を受けるというのは大事だ。知らない場所、知らない物、知らない人。俺の知らないこと、あり過ぎるんだ。

 ずっと見たかった『ファスビンダーのケレル』を見る。大好きなジャン・ジュネ『ブレストの乱暴者』が原作で、監督のファスビンダーも好きだけど、なんかもったいなくて見られなかったし、レンタルでないし、とか思ったらアマプラで見られるんだね。よい時代っすね……(中年男性感)

 ゲイのジュネの映画をゲイ(バイセクシャル)のファスビンダーが映画化、ということで、いやがおうにも期待は膨らんだ。けどさ、ジュネの文章の魅力って、その奔放で我儘で出鱈目で美しい、そのポエジー、恋文にあって、それを映像化するってのは無理ではないかなって思いも強かった。

 最初はさ、違和感というか、期待値が高い分映画に入り込めない面もあったが、徐々に、ファスビンダーの作り上げた、ゲイの為の怪しい世界の魅力が身体に染みこんでくるのに気づいた。

 不自然な、セットだとすぐに分かるような港町で繰り広げられる、殺人、男色、犯罪。全体の色調はぼやけた明かりの中にあるようで、鮮明ではなく、薄いベールがかかったような印象を受ける。

 映画を見るにつれて、ジュネの描き上げる世界の大きな魅力である、愛と裏切り。自分の愛する対象への過剰な賛美がそこかしこに散見された。犯罪による愛の交換、或いは愛の中の虚妄による、執着。

 ファスビンダーは以前インタヴューで、愛の関係性について、惚れた方が負けで、いびつなものにしかならない、といった身もふたもない趣旨の、しかしながら「愛情の成立」の困難さについて語っていたことがあった。

 愛すること、愛されることは甘美で、大抵残酷だ。そういう感性を持っている人間、俺にとって、この映画はとても魅力的だった。

 この映画の中で愛されない、哀れな中年女性を演じているジャンヌ・モローはさすがの存在感だった。おぞましく、哀れで、どこか陰りのある美をたたえている。

 愛は不公平な物。でも、それが欲しいんだ。被害者でも加害者にもなれない迷い児になってしまうんだ。恐ろしいことに、でも、好きだろ? 恐ろしいこと。

 やっと、小説を書き始めることができた。俺の人生の展望は暗い。靄の中を一人歩いている有様、それも、ずっと。それでも、小説を書ける、何かを作ることができると言うのはとても幸福なことだ。素直になれる、編集できる、手に負えない世界の中を、苦心して編集できるんだから。

 自分について話すと、どうしても明るい話はできないけれど、好きな物について語るのは健康に良い。誰からも必要とされなくても、俺は俺の為に雑文を、小説を書き続けなければならないのだ。

生活費、及び返済に充てます。生活を立て直そうと思っています。