実は僕って幸せ者なんじゃないかという自分語り

自分が何かに興味を持ってそれを深く掘り下げる時、「いずれは自分自身が実行/入手できるようになりたい」という思いがあることに気付いた。


自分のこれまで

小学校高学年ごろから中学卒業時までの間、ある劇団の養成所に通っていたのだが、そのキッカケは自分が当時見た映画だった。『20世紀少年』『インシテミル』等で描かれる極限状態が印象的で、「自分もこういう場に身を投じたい」と感じたのを覚えている。小学生がそんなグロい内容の映画に憧れるのもどうかと思うが。

養成所に通う一方、2013年ごろに音MADの存在を知った。詳細は覚えていないが、とにかく子供心の赴くままに漁っていた気がする。3DSの「うごくメモ帳」で作品を見られる限り見たし、同級生にYahoo!メールアドレスの作り方を聞いてニコニコ動画に会員登録をしたのもこの時期だった。
『キチガイレコード戰慄のメドレー ~お許しくだ祭2013~』を見て、「自分もこういった合作に名を連ねたい」と思ったのが制作の大きなキッカケだった。ほぼそれと同時期に義父がノートPCを買い与えてくれて、音MAD制作にのめりこんでいったのをよく覚えている。
また、この辺りから音MADが生活の基軸となり始め、「音MAD作者が演者として映画に出てたらウケるだろうな」とか、「音MADで音合わせするために音感を鍛える必要がある」とか、そういう事をずっと考えていたのも覚えている。

中学の吹奏楽部は上記の理由で入部した。
ただ担当楽器だったホルンが思うように吹けずノイローゼになり、中学最後の定期演奏会をバックレてしまったので吹奏楽部にあまり良い思い出が無い。(強いて言えば同級生の男子部員が音MADをはじめとしたニコニコ動画のネタを知ってたくらいかな…)

中学の頃から「絵が比較的好きに描けるから、折角なら美大に行きたい(絵が描ける人間であることを分かりやすい形で周囲に知ってほしい)」と考え始め、高校では3年間美術部で活動し、部活動以外でも現代美術の作家を熱心に探しては作品展に赴く生活を過ごしていたと思う。年間で3~40箇所ほど回っていたし、金のない学生にしてはよく動いた方だと感じている。
そこまで傾倒したキッカケは《ヨコハマトリエンナーレ2017》で見たMr.氏のインスタレーション作品にある。いわゆる『萌え』的なキャラクターが空間いっぱいに配置されており、当時の自分のアートに対する価値観をひっくり返された。そこから「スーパーフラット」というムーブメントがあったのを知る。村上隆、奈良美智をはじめとしたキャラクター的要素の強い美術作品を好むようになり、現代美術好きの一面が形成されていった。
その他、同年に豊田市美術館で行われた《奈良美智 for better or worse》、翌年ワタリウムで開催された《HYPER LANDSCAPE 超えてゆく風景展》や、BUCKLE KÔBÔでの《現代美術ヤミ市》、2019年に戸田建設本社ビルで行われた《TOKYO 2021》などが特に印象に残るイベントで、やはりそれらを通じて感じたのは「いずれは自分もこういうことをやってみたい」ということだ。

目標は実現してもいいけどしなくてもいいらしい

さて、こうして書きながら自分の過去を振り返ってみたところ、探求したことの殆どが実を結んでいないことにも気付いたのだ。

芝居の仕事をやっているか?
音MAD合作で錚々たるメンバーに名を連ねられたか?
音感は手に入ったか?
絵が描ける人間だという事を周知できたか?
現代美術作品を積極的に制作しているか?

音MADと音感に関しては、まぁそれなりに実現できたと思う。その節はありがとうございました。とはいっても、それ以外の事については自分の目標を達成出来ていない。絵が描けるかどうかについては各々の観点があるため難しいが、美大に進学したことで逆に「自分ってそんなに絵が描けるほうでもないんだな」と自覚したので目標達成には至っていないことにしている。芝居の仕事は一切してないし、美術作品の発表に関しては大学の課題でしかできていない。

ただ不思議と、そこを振り返った時に後悔の念はあまり湧いてこないし、なんなら「あの時はすげえ熱中していたな」くらいに思っている。

今までは「自分が何か始める時は、他人から承認されたい時だ」と考えていたのだが、実際はどうも違うらしい。

自分が何か始める時は、他人がやっていること/持っているものを自分でもできるようになりたい/手に入れたい時である。
だから、探求してる最中は一人で没頭していても何の問題も無いし、漁っている最中に「早く何かを生産して認めてもらわなければ…」というような焦りが無かったんだと思う。

目標を達成しようと探求する中で、そこに受け手となる他人は介在しておらず、ただ純粋に自分がこうありたいという思いで行動を起こしている。このnoteを書き進めて整理していってそういう考えにたどり着いた。

マズローの五段階欲求説から見る自分の幸福さ

アメリカの心理学者であるアブラハム・マズロー氏が提唱した自己実現理論、いわゆる「マズローの五段階欲求説」はご存知だろうか。

自己実現理論 - Wikipedia

人間の欲求を5段階の階層で理論化したもので、低い所では生理的欲求からはじまり、安全の欲求、社会的欲求、承認の欲求、そして最も高い階層にあるのが自己実現の欲求である。

これまで書いてきた「いずれは自分自身が実行/入手できるようになりたい」という思いから探求していく姿勢は、この中の承認の欲求、なかでも高位の承認欲求に近しい。

上述したWikipediaの解説より、承認(尊重)の欲求に関する内容を引用する。

低いレベルの尊重欲求は、他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たすことができる。
高いレベルの尊重欲求は、自己尊重感、技術や能力の習得、自己信頼感、自立性などを得ることで満たされ、他人からの評価よりも、自分自身の評価が重視される。

Twitterに依存していたこともあり、今までは「他人に認められたい」という低位の承認欲求の解消に努めていると誤解していた。しかし過去の行動を読み解いていくと、実際は「自分が自分に満足したい」という高位の承認欲求の解消に努めていることが分かった。

そしてこのマズローの五段階欲求説において高位の承認欲求はかなり上層にあり、この階層分けは段階的なものであるためそれより下の欲求は既に解消されていることになる。

無意識のうちにそれだけの欲求が解消されていると思うと、なんだか非常に恵まれているような気がしてくる。ていうか多分恵まれているんだと思う。

自分が何かに興味を持ってそれを深く掘り下げる時、「いずれは自分自身が実行/入手できるようになりたい」という思いがある。そしてそういう思いはそれ以前の欲求がきちんと解消されているからこそ持つことが出来るのだと感じた。幸福度の高い生活って良いですよね。

最近は「良い声が出せたらいいなぁ」という動機からアニメや吹替の声優さんについて色々調べたりしていて、養成所に居た時のことを思い出しながら楽しく探求しています。この間レンタルスペースを借りて酸欠になるまで普段以上に声を出したりもしました。10月からカラオケも営業再開するらしいんで嬉しいです。


今日は満足したのでこの辺で終わりです。また意欲が湧いたら書きます。

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