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36.形ではなく心に宿る

柏木庫治先生の著作を読んでいると、とても気になるエピソードが目についきます。それは「精一杯の御神饌」というタイトルで、ちょっとした衝撃を私に与えるものでした。


麹町中教会長(当時)の久保先生が東中央に御巡教の折、

雑談の格好で、私にとっては一生を左右する道の者の大問題に就いて、魂に銘ずるお話を下さった。
「日々又は祭日にする御神饌は、神様に御目にかけるためではない。元より飾り物でもない。
 神様に召し上がって戴くのですよ。この理が会長に納まっているかどうか、よく思案して下さいよ。
 目の下一尺の鯛を御供えしたら、神様はその心の理をお受け取り下さって、そのまま一尺の鯛をお下げくださる。結構な鯛のご馳走を頂戴出来る。いわしを三疋(びき)御供えするようなケチな者にはお下がりもケチや。いわしを三疋や。
 同じ道を通りながら、グングン伸びて太る道と、何時まで経っても貧しいところをウロウロしている者とがある。この理をよく思案するのやなあー」
 御教理は誠に簡単であった。だが私の心は釘付けされたようであった。この話は私の心に電撃となって響いた。私の御供えに対する気持ちは全くなっていなかったのである。神様に召し上がって戴く、等と全く考えていなかった。

柏木庫治著「晴天の歩む」より



皆さん、このお話を読んで一体どんな風に受け止めたでしょうか?

先述の通りピーナッツは、これに触れてカルチャーショックのようなものを受け、震えていました。
私はこれを次のように解釈したんです。


御供えは、御供えした通りのものに倍返し



“倍返し”とはどういうことか?

ちょっと具体例を挙げてみます。

仮に、千円分の果物を買って神様に御供えします。
手元の千円はなくなりましたが、それは実はなくなったのではなく、目に見える徳(お金)から、目に見えない徳(心の預金通帳)に移行しただけで、それによって本人が持っている徳の総量が減少したわけではないのです。
むしろトントン。

しかし、それによって物理的に御供えした千円分の果物だけはしっかり残り、お下がりとなって戻ってきます。


つまり、

千円相当の物理的お下がり千円分の見えない徳が最終的に残るわけで、御供えする以前より、総量は倍になっている、と私は感じたわけです。


ということは、その御供えが千円ではなく、一万円だったとしたら…?

ここが、柏木先生が回顧するエピソードの中の久保先生が言っている、


“目の下一尺の鯛を御供えしたらお下がりは鯛”

“ケチないわし三疋を御供えしたらお下がりもケチないわし三疋”

“同じ道を通りながらグングン伸びる教会とそうでない教会の違い”

…こういったことと辻褄が合うような気がしました。


「教会ではそうだとしても、信者さんが所属教会にお供え物を持っていった場合、御供えした人の手元に現物が残らない、これをどう解釈するか?」

すぐにそんな疑問が湧いてくるかもしれませんが、これもシンプルに倍返しが発生すると私は考えています。

つまり、手元に現物が残らないので、御供えした現物額分の見えない徳が倍で戻って来る。

そして御供えしていただいた教会は、現物をお下がりとして頂戴できる。

そう思うと、誰も損しない、みんなハッピーな御供え循環論になりませんか?


形ではなく心に宿る

さて、前述の在り方が真理だったと仮定した場合、見落としてはいけないことがあります。

ある布教師が、谷底の道中を歩いていた時期、満足に日々の御供え物を用意することが出来ず、紙に「米」「魚」「野菜」等と書いてそれを御供えしておつとめをしていたという話しを読んだことがあります。(残念ながら引用元を忘れてしまいました💦)
その方は後々栄えていき、現実の米、魚、野菜を神様に御供えできる日を迎えるに至った、そういう話しでした。

このことからも、例え御供え物を用意できなかったとしても、

「神様に御供えしたい!」

という真心があって、それを行動に移していると、神様はその心をしっかり受け取って下さるんだという風に感じました。

逆に言えば、仮に一万円の御供え物だろうが百万円の御供え物だろうが、御供えした人の真心がそこに宿っていなければ、その多寡に何ら影響なく、神様は何も受け取ってはくれないし、見えない徳にも移行しないと私は感じています。


結局は形の大小・善し悪しじゃなくて、それに付随する心に力が宿るんですね。

心があって、次に形。

何より先ず、心の持ち方・受け止め方。姿勢。

現象に対し、心がどう反応したか、どんな心をそこに込めるのか。
いつの時も問われるのはそういう目に見えにくいところの真価なのかもしれません。

【2014.1】




おまけ

先日、家族で小さなテーマパークに遊びに行ってきた時のことです。
乗り物の乗るためにチケットを購入します。十一枚綴りを3セット。
こども達がひとつ目の乗り物に乗る為に二枚チケットを使い、残りの三十一枚のチケットの束を妻はポケットに入れて、こども達がはしゃぐ様子を二人で眺めていました。

次の乗り物に向かおうとすると、突然、

「チケットがどこにもない!」

と妻が慌ててポケットをまさぐっています。さっきまであった筈のチケットの束がどこを探しても見当たりません。なくなってしまいました。

知らず知らずのうちにポケットから落ちてしまったのでしょう。
必死にみんなで周囲を探したけれど、とうとう最後まで見つかることはありませんでした。

もう一度チケットを買い直しますが、妻は気落ちしています。
開始直後にほぼ全部失くしたわけですから。
「誰かに拾われて、持っていかれたんだ」と言う妻やこどもに対し、

あれはもう、あげたことにしようよ。ねっ、そうしよ(´ー`)

と彼等に意識の変換を促します。


“失くした”でも、“とられた”でもなく、

“誰かにあげた”“誰かが楽しむ為に使ってもらった”


この世界は心通りの世界です。
不当に奪われたとか、損をしたという感情で物事を捉えていれば、その心通りに作用し、私達の前にそういう現実をもたらします。

だけど、誰かにあげて、楽しませたと思えば、
“出したものは戻って来る”
きっとそうやって、自分達にとっても損のない現実が後からやってくると私は信じています。

妻も気を取り直して、“誰かにあげた”そう思うようにしました。


そのテーマパークの帰りに、走っている高速の渋滞情報が流れ、急遽下道に降りることにしました。
降りた先が、ちょうど県内最大級のモールショッピング街があったので、ついでに立ち寄ってみました。

妻はひとりでゆっくりウインドウショッピングをし、私はこども達とゲームセンターで時間を潰します。こども等二人に百円ずつ渡して1ゲームだけやっていいよと言うと、あら不思議。
百円玉をコイン30枚(この日は特別に通常の倍)に交換すると、こども達はそれを元手に釣りゲームでどんどん手持ちのコイン数を膨らませていきます。

「お父さん、どんどん増えちゃって終わらない~」と娘。

一時は数百枚まで増やし、結局一時間半ぐらいそれで楽しみ尽くしました。
二百円でこれだけ遊べたのでなんだか得した気分のピーナッツ親子。


一方妻は、ちょうど買い替え時期に差し掛かっていたこども達の水筒の特売を見つけ、歓喜。二本買って、正規で買うより三千円ぐらい安く買えてご満悦。


更に、更に。

「あれ、ピーナッツさんじゃないですか(゜o゜)?」

私の名前を呼ぶ声に振り向くと、普段滅多に合わない友人の顔が。
彼は革細工の職人で、そういった自分で加工した財布や小物を連休中にモールの広場で販売していました。

「せっかく会えたんでこれあげます。奥さんにも(^^)」

と言って、売り物の革細工のキーホルダーを私達夫婦にプレゼントしてくれました。
いきなり会ってタダでもらっちゃって恐縮だったけれど、後から値札を見ると私のには「1000円」、妻のには「800円」とついていました。


いやいや、なんだろこの一連の出来事。
やっぱりあれかな、チケット三十一枚(3100円相当)を知らない誰かにプレゼントしたからだろうか…??


ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^O^)

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