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54.与えられた自由(1)-かしもの・かりもの-

『かしもの・かりもの』
先輩の先生から聞いて、印象の残っている話に、
「ある時、『教祖、これからおたすけに出させていただきとうございます』とご挨拶に出られた方がいました。教祖は、『この道はなあ、かしもの・かりものの理より外にないで。かしもの・かりものということがしっかり子心に治まるように、取り次いであげておくれ』とおっしゃいました。また、『かしもの・かりものという理が心に治まったら、どんな病でもご守護くださるのやから、人間心を使わないで、ただありがたい、もったいない、結構やと思って、しっかりとかしもの・かりものの理を取り次ぎなされ』ともお教えくだされたそうです」というのがあります。
三代真柱様は、「天理教を信仰しているものと、天理教を信仰していないものとはどう違うのか。それは、かしもの・かりものの理がわかっているか、わからないかというだけの違いなのだ」とおっしゃいました。
そのかしもの・かりものを知らない人に、かしもの・かりもののお話を取り次ぐのが、においがけというわけです。

陽気779号「加藤道義『かしもの・かりもの』」より


2014年、10月に入った頃から急に咳が止まらなくなり、苦しんでいた。
キッカケは、ある方のおたすけで水垢離をしてからだった(情けない話だ)。

かかりつけ(ほとんど顔を出さないので、悪化して通う度に先生に叱られる)の病院で診てもらうと、「肺にアレルギー症状が出ている」とのこと。

「あなたのお父さんも診ているからはっきり言えるけど、あなたは呼吸器が弱い遺伝体質なんだから、ちゃんと病院に通って治療しなくちゃ、このまま放置し続けるならそのうち短命で終わるよ」

言葉のきつい先生なのではっきりそう言われる。

放っておくと咳で肺にまた穴があくよ、よ。

いいだけ叱られ倒され、それで大人しく指示に従い、暫くのうちは病院に通っていた。
やがて症状は改善に向かったものの、胸を突き刺すような痛みはなかなか治まらなかった。季節の変化に伴う寒気にもやられ、呼吸がぜーぜー苦しかった。

以前よりも不自由な身体で、細々と毎日を送ることとなる。


運命の分岐点

20代の頃、布教の家で1年を過ごし、3月最後の寮祭は私が祭主をつとめていた。
それが終わるとやれやれと肩の荷が下りたような心地となる。寮の生活の実質はここで終わり、帰り支度にとりかかるムードでいた。

あくる日の朝づとめは私が芯を取る当番だった。
「えー」と歌い出し、拍子木を最初に打った瞬間、


胸に、妙な違和感が始まる。


おつとめが終わってからも、食事の後も、胸の違和感はなくならない。呼吸がしづらい。背中が痛む。実働時間までわずかな間だけでも休もうと思い布団に仰向けになろうとすると、苦しくてなれない。


…おかしい。


私は予感めいたものを感じ、実家教会の母に電話をし、体調の状況を説明する。母から、「気胸かもしれないから、出来る限り身動きせず、寮の最寄りの呼吸器内科が開く時間を見計らって、タクシーで直行しなさい」と指示を受ける。

母の指示は的確だった。
病院でレントゲンを撮ってもらうと、私の右肺は自然気胸を発症し、穴から漏れ出た空気で既に3分の1が潰れていた。

紹介状を用意してもらい大きな病院に向かうことに。

手術だったら嫌だな…。

入院になっちゃったらどうしよう…。

そんな風に不安に駆られていたが、大きな病院の医師の診断で、右胸の横に穴をあけて、管を入れ(胸腔ドレーンというらしい)られる。管の先、外側にビニール上の袋?とプロペラのようなものが覗えた。こうやって身体の内側に漏れた空気を外に逃がすらしい。

「気胸を発症した7割の人はこれで治るから。これで良くならなければ手術ね」

と医者に説明され、ゲ~(゚Д゚;)…って思いながら、ひとまず入院だけは免れたようだった。右脇のすぐ下に変な装置を装着され、気分は最悪だった。

夜になると麻酔が切れて、激痛が走る。胸が疼いてなにもすることができなかった。他の寮生は間もなく卒寮ということもあって、教区の先生方に酒宴を催していただき、賑やかな飲み食いしている中、私は二階の自室にこもり切り、痛みに耐えながら、短い呼吸を繰り返しぜえぜえしていた。
カラカラと、右胸に突き刺さるドレーン中のプロペラがまわっている。空気が外に出ているようだ。それと共に少量の血が流れ出て、袋の中に血が溜まっている。

横になれず、仲の良い同期に布団下に座布団を何枚も重ねてもらい、身体を起こした状態で眠るしかなかった。


あの晩は本当に苦しかった。
切なかった。


そして、仲間の騒ぐ声を遠くでききながら、暗闇の中でじっと自らの運命について深く、小刻みに研ぎ澄まされた時間の中で己と対話し続けていた。


父・会長の信仰の目覚めはこの自然気胸だった。


私は幼い頃から耳にたこができるぐらいそれを聞かされていたし、それが我が家のいんねんなんだと頭ではわかっていたつもりだった。

…頭では。

そのいんねんの身上が、運命の分岐点ともなったそれが、
こともあろうに、布教の家という布教専念まっしぐらの渦中に、私の身に迫ってきたのだ。


続く

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