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44.本日の雑念(6)-背中合わせの搾取-

こどもおぢばがえりの受け入れ準備要員として裏方のひのきしんを詰所でさせていただいているわたくしピーナッツ。
本期間が始まる前に地元に帰っちゃうのでホントに裏方です。
それでも、教区少年会の団体や、直属のKОG団体スタッフ関係者が続々と詰所に結集し、こどもおぢばがえりのムードだけでも堪能しています。


そんな中、入浴時、ある会長さんから湯舟に浸かりながら話しかけられます。
その会長さんは既に少しお酒が入っている様子でした。

「なあピーナッツくん、どう思う?」

と。
それは次のような話でした。


その会長さんは、大教会輸送部という部署の部員で、主に大教会からおぢばがえり送迎車の運転手要員をされています。
しかし彼は大教会所在地域からちょっと離れた他県にある教会の会長さん。なので、大教会から送迎車が出発する前日に大教会までやって来て一泊し、帰りは送迎車が大教会まで戻ってくると夜になってしまうため、その日ももう一泊して翌朝自教会に戻る、というサイクルで毎回、教会-大教会-おぢばの行き来を繰り返しているのだそうです。

「俺は他の人達より二日分もこのおぢば輸送に費やしているんだよ、それなのに…」と会長さんは続けます。

それなのに会長さんの送迎御供(交通費)は、一般の乗せてもらっていく方々と同額徴収されているということ。
また輸送部の責任の所在が非常に曖昧で、誰が明確な主なのか(大教会が主であるにせよ、大教会長なのか、在籍役員なのか、輸送車本体の運転を仕切る現場の人なのか)判然とせず、万が一事故等のトラブルが起こった場合、誰がそれをかぶるのかもよくわからないシステムになっているということ。

その外にも小さな不満の積み重ねで鬱屈が溜まりに溜まって、お酒が入っていることもあってついついあんまりしがらみの薄いピーナッツに愚痴を吐いてしまったようでした。

「俺が気づかれないところで二日間大教会に日を御供えしているということを、それを何だか当たり前のことのように大教会側からは思われているみたいだし、なんだかなぁ…まるでその二日を無駄にしているみたいだ


そうでしたかぁ…とただ黙って頷くしかないピーナッツ。
つい、色々と考えてしまいます。



“寄進”なのか、それとも“搾取”なのか

前述の会長さんは、当初、大教会の御用だと前向きに自分の時間を御供えするつもりでそういうサイクルの生活を続けていました。

それがいつしか、初心のモチベーションがすっかりだだ下がりしてしまっています。

どうしてこうなってしまったのか?

彼なりに精一杯尽くし、奉仕の精神で前向きに心を込めてやれさえすれば、この二日間は立派な“時間や手間のお供え”となり、日の寄進(ひのきしん)として徳積みにもなっていくでしょう。

だけどそれが、受け手の側の誰かにとっては特別な寄進ではなく、いつも通りの当たり前のこととしてどこか軽くされてしまっているとその会長さんは感じてしまっていた。

そうやって奉仕の精神を軽く扱われてしまうと、途端に“寄進”は“搾取”に姿に変えてしまいます。

捧げる側が、その相手に真実を届けようと思うから“寄進”となる。

だけどもしも、捧げる側のやる気が削がれ、真実心を思い浮かべられなくなると、届けている筈のものが、まるで奪われているかのような錯覚に陥り、歪んでいってしまいます。

受けとる側のちょっとの油断が、見える形は同じでも、そこに生じている意味を全く真逆なものに。

そう、“寄進”と“搾取”は常に背中合わせでいつでも簡単に反転しかねないものなのです。

「まるでその二日を無駄にしているみたいだ」
と口をついた言葉がそのまんま全てを物語っています。
そうですよね、御供えしていたつもりが実は奪われていたのだとしたら…。


(おぢばに帰るってのに、搾取されているような気分にさせられるんなら、そりゃやるせないよなぁ…( 一一))

途中で話を遮るわけにもいかず、やや長風呂にのぼせてしまうピーナッツでした。


“寄進と搾取の背中合わせ”って、教会と信者さんとの関係の中でも容易に生じかねない危ういことだなって、どこでも起こり得ることへの戒めのようなものを感じていました。




ここまで読んでいただきありがとうございました!

それではまた(^^)


【2024.7.26】


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