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18.日々のメンテナンス

たとえが悪いかもしれないが、私にとって日々の朝夕のおつとめとは「歯磨き」のようなものだと捉えている。

普段どんなに気をつけていても、そして頭ではわかっている筈でも、人と交わりながらこの社会で生きている限り、大なり小なりの様々なほこりを積んでしまことはなかなかにして避けがたい。

そんなついつい積んでしまいがちな心のほこりも、朝に夕にとおつとめをつとめることで神様のほうきで払ってもらえるというのだからありがたい。

どんなに些細で小さなほこりでも、放置しておくとこびりついてとれなくなってしまうような気がしてなんだか気持ちが悪く、このあたりの感覚がどうも歯磨きの生活習慣に似ている気がする。
朝起きてから磨かないのも、夜寝る前に磨かないで床に着くのも、どちらも想像するとやはり気持ちのいいものではない。

歯というものがそうであるように、私達の“心”もまた同様にそういう性質ものだと実感している。
つまり、毎日たくさんつかって、そして毎日汚すように元来出来ている、そういうものなのだと。
それが“生きている”ということそのものなのだと。

仮にもしも全くつかうことがなければ、口の中は汚れることはないのか?

否。それでもやっぱり日々掃除を繰り返し口腔衛生を意識的に心がけなければ、雑菌が繁殖し口内環境は徐々に悪くなっていく。悪臭が漂うにもなる。そしてそんな状態になっていても、周囲には不快な影響を与えてしまうのに関わらず、当人に至ってはそんな自覚がまるで薄かったりもする。
自然に発する“におい”というものに、発散している本人自体は気づきにくいからだ。よくよく気をつけなかればならない。丁寧に、こまめによく磨き続け、清潔にしていることを心せねばなるまい。

それってやっぱり“心”も同じ。
もしもそんな心を全くつかうことなく、何の感情も動かすことなく在ろうと思えば、ほこりも積まずきれいなままの心でいられるのか?
…そんなわけがない。
それどころか、無感情のまま生命維持のみ、それは最早ロボットと何ら変わらないのではないだろうか?

誰かの指示に従って、ただそのまま動く。
そこに何の躊躇もなく、反射反応的に「ハイ、わかりました!」
誰かはそれを“素直の模範”という。
誰かはそれを暗に奨励する。
…動かしたい側からすれば、その方が多分に都合がいいわけだから。

残念なことに私はそうはなれない。
ハイ、という返事に本心がのっていない自分の在り様は好きじゃない。
本音を押し殺したり、私心をなくすことを“素直な姿勢”だとはどうしても思えない。

摩擦は避けがたい。

そうやっていつも心を汚している。
そうやっていつも心をつかい続けている。
そうやって、どうにかこうにか今日も生きている。

その代わり、おつとめをします。
それが完璧じゃなかったとしても、出来得る限りの掃除を心がけます。
朝な夕なに。

ほんのささやかな、日々のメンテナンス。
神様を前に額づいて、胸の内側での静かな自己点検。
隅から隅まできれいさっぱり、とまではいかないだろうけど。

汚れることをためらわず、
汚すことを厭わず、
いつかは、今の自分よりももうほんの少しでも丸みを帯びて柔らかくなっていくことに願いを託しつつ、
ただただ存分につかい続けることを大切にしたい。

【2013.2】




人間生きてりゃ、うまいこと折り合わなかったり、心を汚したり、曇らしたりすることなんて往々にありますよね。
そうはならないようにいっときは我慢や忍耐したとしても、苦しみはどこかに消えてなくなってなどしてくれないような気がします。
悩ましいけど、それって仕方ないですよね。

汚さないように心がけるよりも、
汚すことを厭わないように今を生きる。

汚れても後からちゃんと磨けばいいと思うんでね、ハイ(`・ω・´)

日々、絶えず妻の逆鱗にふれ「お前〇すぞ、^^)ウン ?」を連発浴びながらも明るくひたむきに生きるわたくしピーナッツ。
与えられたこの命と全ての環境と巡り合わせとに感謝です。

ここまで読んで下さりありがとうございました!
それではまた(^O^)


 

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