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70.教話雑感(4)-割に合わない無駄働き-

◆教話「“あまり”の道を求めて」

(肺結核でたすけを求めてきたある 婦人に、旭園分教会初代夫人は、次のようにおさとしされた)

人生は割り切れずに"あまり"の 出るのは算数だけではありません。
"こんなに一生懸命しているのに、どうして幸せにならぬのか"と、割り切れぬ。その割り切れぬ"あまり" が、これ以上、運命が悪い方に傾かないための突っ張り棒なのです。
"あまり"を喜ぶ心になるのです。 "あまり"が積み重ねられて、心の力となるのです。
善い事をして誉められたら、割り切れて、計算が合うのですが、しかし、いつも割り切れる道ばかり求めていると、すべてが割れて、切れてしまう道となるのです。
もっと積極的に"あまり"を求めて、割り切れぬことに精を出す道が信心なのです。善いことをして、ボロクソに叱られてけっこうと喜べる。こんな計算の合わぬ、割り切れぬことはない と思えますが、しかし、割り切れぬ"あまり"の積み重ねを神様が徳としてお返し下さるのです。

理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々余れば返やす、足ら ねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。

と神様がお教え下されてあります。 出した力は、出した真実は、必ずわが 身に返ってくるのですから⋯。

松田武信著「歩いただけが道」より抜粋

雑感

お道を通っていると、本当に割に合わないことばかりだと感じることがある。その中でも布教活動は「割に合わない」最たるもので、生活に必要な収入に繋がることはそれほど多くもないし(最初の頃なんてほぼない)、社会的信用の薄い行為だとつくづく実感している。
「一軒 一軒訪ねて回るよりももっと効率の良いやり方があるんじゃないの?」と誰かからご指摘いただくこともしばしば。 それでもめげずに続けていっても、結果、信仰が伝わるまで行くことはほとんどない。
この割に合わない生き方ができず、信仰を継承すべき若い世代は、道を歩むことに躊躇し、別なルートを辿って生きて行こうとする。本音を漏らせば、その気持ちは常に自分の背後にもへばり付きまとっていて、決して理解できない心境ではない。
「割りに合わない」のは世の中の基準から照らし合わせた上での感覚で、目に見える世界でのみ生きた場合での話である。
お道の基準は「人より多く損をする」「都合の悪い嫌なことを喜んで受け入れる」「他者の苦しみを軽減し、楽しませるために自分の時間と労力と心を尽くす」と世間のそれと真逆をいく。いずれも割りに合わないことばかりで、だけどそれこそが自身の運命を切り換え、救けてくれるのだと教えられている。
道に尽くして被った損は必ず損のままでは終わらない。
神様の帳面についている自分の勘定が少しでも黒字に近づくよう、割りに合わない無駄働きに精を出していけたらと思う。


余談

これが頭でわかっていても、人間なかなか心には治まらないんだな…。
要領よく立ち回りたいし、なるべくなら損はしたくない。人間心の常だ。
私はこの“あまり”を喜び、割に合わないを積み重ねるということに振り切れず、自身の弱さに自己嫌悪し続けて来た。
そして未だに克服し得ない。

達観者・徳人には程遠い。
“里の仙人”は遥か彼方、結局俗に堕してばかりだった。

だけど…。

それでも、生きる。

凡俗な自己から目をそらさず、清濁ともに飲み込んで、

それでも、生きる。
生き続ける。

【2015.9】


ここまで読んでいただきありがとうございました。
意志薄弱な俗人の告白でした。
それではまた(^_^;)


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