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思考ってそんなにいいものか?

ドグラ・マグラ読んだ。自分探しなんてやめてしまいなよ、抽象思考を拡大し思考の風呂敷を広げすぎると自己破壊に至る、思考の痛快な風刺を描いた作品だった。600ページに渡り終始「僕は何者なんだろう」と主人公は探求する。時に狂い時に絶望し苦悩し自前の素晴らしい明晰な頭脳でこれだけを一心に探求し続ける。

ひとつの事だけを熱心に探求し続けると、他人はその人を理解できなくなってくる。世の中では天才は狂っていると言われている。これは理解の放棄じゃないのか。考えの浅薄さの正当化ではないのか。

私は放棄した。私の知人は天才になってしまった。使えない人間だったのに。何も出来ないくせに、やたら執拗だった。始めから諦めてしまえば楽だ。義務ではないのだから。私も、彼も。そして、彼は時間とともに速度を増して私の認識から離れていく。次第に宇宙人のようにバグのように壊れていってしまう。周りは囃し立てる。「天才」「意味わかんない」ほら、私の諦めが正当化されてゆく。意味わかんなくていいんだよね。天才だから。もう彼は遠いところに行ってしまった。何を考えているのかさっぱりわからなかった。狂っていたなあ。彼。何も出来なかった頃を見てはいたから、天才とも表現したくないのだけれど。世間からの声は「天才」「狂ってる」だった。すごいね。狂っているのはどちらだろうか。彼こそ真実で、私の側が狂っているのではないか。今日の人間社会の恩寵だ。生命危機に晒されていないせいか火事場の馬鹿力など通常発揮されることはない。社会に安全に飼育される畜産物。大人しくしていれば安寧が約束される。毎日獲物を捉える危機も無い。彼は毎日急き立てられるように生きていた。見えない獲物を捉えるため本能に従っていたのではないだろうか。意味わかんないから考察の域を出ない机上の空論なんだけど。

この世の観察できた限りの因果を組み立てて暗示だ、予言だ、陰謀論だと噂を広げるのは本能を鈍麻させ暇を持て余している優雅な人間の娯楽だ。人間の内輪ノリだ。天才を使って骨組みを組み立てさせ凡人が誇張や尾ひれを付けて綺麗に着飾らせていく。教祖の作り方もこうだ。因果はたまたまで、組み立てる必要などなくとも、組み立てて囃し立てた方が面白いじゃないか。愉快じゃないか。人間は知的動物だ。持っているカードで遊ぶんだ。天才と凡人の連携プレーだ。相互扶助は大切だ。

関係ないような物事に共通点を見出すのは面白い。彼は言っていた。「手を見たまえよ。これは服だ。引っ張ってみろよ。伸びるだろ。縮むだろ。握れば弛む。張る。糸だ。関節を曲げてみろ。このシワはタオルの折り目のシワそのものではないか。」これを突き詰めるとドグラ・マグラで語られている「絵を描きたいから赤い絵の具を用意したんだ(意訳)」と殺意無く殺人を犯せるようになってしまうだろう。抽象思考も行き過ぎると大変危険だ。殺人をしているのではない、絵が描きたいだけで主語を大きくし見境が無くなる。どう罰せばいいんだ。狂っている、現状そこまで法律は抽象に耐えれない。

ドグラ・マグラ、なかなか面白かった。抽象思考は危険なんだ。人間は不完全。思考は不完全。最適化するには感情を排除する必要がある。AIは感情を排除した論理に長けている。”思考”の最適化された新しい思考を教えてくれるのはAIではないか。新書や奇特な新製品を時代の洗礼で排除し有益なもののみが残るように、AIが作るAIは感情を時代の洗礼で排除し新世界を人間に見せるのではないか。ああ、悪い癖。彼から移った、主語を大きくし予言じみたことをするのも楽しいが身の程を弁えて主語の大きさには気をつけた方がいい。言葉で戒めても無駄だろうが。具体思考は地に足がついていて良い。ミスがあっても振り返ることができる。彼が好きだったなと思い返して読んでみたんだ、彼っぽい。意味がわからない言動の数々はだいぶドグラ・マグラに影響されていたんだなとしみじみした。

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