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男女の隔たり。

リーディングマスター・まさみちです。心理カウンセラーとして活動しております。ただいま、八十八カ所巡礼の旅、徒歩遍路をしております。本日で三十三番札所、雪蹊寺(せっけいじ)にて区切り打ち終了です。自宅に戻り、機会を見て再開したいと思います。

三十三番札所まで寺を巡り歩きました!

ここまで歩いて感じられたのは、幾つかの封じ込める力があり、それを打ち破る為に、「徒歩の力」を借りる必要があったと解りました。

徒歩のパワーは半端ないものですが、身体ダメージも半端ないもので、「気づきを生み出す」リーディングが追いついていかないほど、毎日の変容が激しいものでした。

タイトルにあるように、「封じ込める力」として、男女を隔てる力が働いています。これは私の顔面に現れており、右半分しか口角が上がらず、左半分は麻痺しているような皮肉めいた表情しか持てない「心の傷」があるのです。

その「私の心の傷」とは、「①.自分の事は後回しにする」「②.傷ついていないことにする」「③.何をしていいのかわからないでいる」といった、分離感というものが残っていたのが見つかり、それをようやく紐解くことが出来たのです。

男女の隔たりというのも、自分一人で表現するなら、右半身と左半身が連携が取れていないようなものです。

半身不随みたいなもので、「男は男で遊ぶこと」、「女は女と連むこと」といったイメージのもので、男女が共に協力し合うことを無意識下で拒絶しているものがあったのです。

長いこと、この左右の分離感に取り組んできました。

多くは母親の呪縛です。

親の「正しさ」が、子には「害悪」として作用することがあります。

母親は我が子に「親に逆らわないこと」を無意識下で要求していました。

「①.親の犠牲になること」「②.人を悲しませぬこと」「③.愛を語らぬこと」といったニュアンスの制限がかかり、私の脳幹は左右の連携においては、機能しなくなっていました。

それでも半身は生きているので、半身ずつ動かし、わかり合える人と共に「自己犠牲を止める道」を模索していました。

それは「否定する心を支えにして生きる世界」からの脱却が答えでした。

使っても成らないし、使わせても成らないマイナス感情・ネガティブ発想は、フィクションの世界には存在していてもよいですが、真実を求める世界には不要です。

否定する概念を止めさせる方法は、全てを理解し受容してみせ、真実の愛に基づいて解説し、慈愛で包み込むことでマイナス感情・ネガティブ発想そのものを消失させることが出来ると体感することでした。

「わかり合えない」という概念も「エゴの心こそ自分だと信じているもので、騙されないように慎重になる為に、否定からコミュニケーションを取り、自分の思惑通りに進めたい気持ちが伝わること」を誤用として持っていました。

「許しが無い」という概念も「証拠に基づいた判断力が重要であり、規則違反には、処罰を有効になする為に、見せしめとして刑罰を与えておくこと」を誤用としたまま気づかずに放置していました。

「愛がない」という概念も「憎しみや恨みを持ち、破壊の限りを尽くすだけの境地が、他人の願いにより支えられているもの」と誤用させたままとは思い到らないものがありました。

「知恵がない」という概念も「環境や社会の成り立ちを否定し文句を言い続けることで、変化を呼び込もうとする関わりがあり、どれだけ相手をコケに堕とし、非道さをねつ造し、新しい発想や、試みをことごとく潰すもの」と誤用が蔓延していることに手を焼いて、直接取り組むことが出来ずにいました。

「心がない」という概念も「親兄弟、家族全員が間違った価値観に染まり上がっている場合、誰が心が在り、誰に心がない働きをしているのか、家族の仲間からは判別不可能なことが周知されていないもの」と誤用とさえわからないものがありました。

それらを無知から智慧に到らせます。

「わかり合えない」というのも、智慧からは「始まりの認知の誤りを正せばわかり合えるもの」なのです。

「許しが無い」というのも、智慧からは「複数の戒めに心が束縛されており、心を偏らせられないこと」が原因である為、戒めを解けば「許し」をもたらすことが出来るものです。

「愛がない」というのも、智慧からは「どんな態度や表現であっても、全てを見失う最悪な事態から取り組むことで、最終的に到達する『愛がある』の始まりのもの」と解釈すれば「愛がないことさえ、愛があるもの」とした意味づけが出来るものとなります。

「知恵がない」というのも、智慧からは「経験もなく、知識も与えられず、否定ばかりされ、関わり合いを断たれ、求めても答えられない状態のこと」を示すもので、怯えを取り除き、安心感を得られるように整え、無償の愛を注ぎ、真理の智慧を与えることで健全化を図るものです。

「心がない」というのも、智慧からは「やることなすことイメージすることさえ、マイナス感情・ネガティブ発想を止めたくても止められず、我欲に従うことで本質を見失い、敵対行為に奔走し、自虐を繰り返し、周りからの愛が見えなくなっているもの」のことを示します。完全受容し、嘘の心で形成された概念は捨て去るだけでよいものです。

こうした解釈の誤用が、心の中心に隠れており、その無意識下で問題を引き寄せてしまい、右脳左脳の連携を阻害していたのです。

親だけでなく、大勢の人たちも見ているのです。

それらの雑念や、邪念、悪想念を祓い清めて、笑い合えるようにお遍路の道行きで整えたのです。

これでやっと「独りで生きていくしかない」という呪縛から逃れられたのです。

左半身という独りで生きる。

右半身という独りで生きるといったイメージです。

陰陽の働きでもある男女間は、協力し合う関係などは当たり前のものです。

その顕在意識で捉える認知の外にある潜在無意識下での概念や悪想念による疲弊は、世界中の負荷を背負う魂としては、思いがけない足枷となっていました。

この左右の脳が繋がると、世界の見え方、感じ方が変わるようなものです。

やっとものを真っ直ぐ見ることが出来るようになれた感があります。

三十三番札所までの道のりが、男女の統合に繋がっていたとは思いも寄りませんでした。封じ込める力がなくなり、自由な発想を得られるようになりました。

一歩前へ、踏み出せる、そんな気持ちです。

ここからの、まさみちを応援してください。

では、また。

リーディングマスター・まさみち。



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