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全てが私 大日如来㉑

リーディングマスター・まさみちです。心理カウンセラーをしており、その中で“リーディング”という読み解く力によって、原因を解明して心の悩みを解消するお手伝いをしております。肩凝りや偏頭痛や冷え性などの解消にも効果があり、かなり便利な能力です。これは人は誰しも持ち合わせている基本スペックのもので、コツ勘を掴めれば磨き上げていくことが出来るものです。この力は、ポジティブな使い方しか出来ないことが良いところです。(38/88)

空海が伝える東寺・立体曼荼羅についてリーディングをしたら、何が解るのか? と、読み解くことに力を注ぎ、記事を書いております。

リーディングと称していますが、自動書記のようなもので、私自身知っている情報ではなく、それでも私の日本語という言語に束縛されている程度の代物なので、トランス状態になり、知らない外国語などを話すこともありません。その為、言葉の壁に縛られている部分を見つけては、それを解体して「無」に還してからでないと、まともに読み解けないものです。

胎蔵界に、観念や誤解となる雑念が残っていると、金剛界からの遍照とした「全てが見渡せる無の世界」とした感覚に至らない為、それをまず解き明かして消し去り、何もなくなったことを確かめて、閃き降ろしていくイメージです。

金剛界の中心にある「なにか」を大日如来と捉えていて、そこから見つめる世界観を教えているものが仏教であるものです。仏教以前にもバラモン教などさまざまな宗教が存在し、色んな仏さま、神さまが存在しており、人々に智慧をもたらして来ているものです。

けれども、今では「何それ、それ宗教??(怪訝そうに言う)」という程に、何か新しいことや、不可解な感じを受けると、警戒心の言葉とて「忌み嫌われる代表格」として「宗教」という言葉は使われています。

日本における宗教のイメージダウンの理由は、「効果がないこと」「役に立たないと立証された為」と納得する情報が閃き降りてきます。他にも「トラブルしか招かないこと」「論理性の欠落した人が多く、それを組織が放置していること」が挙げられるようです。

信頼回復を阻害する要因は何か? と問うと「即効性のなさ」「理解させなくていいから楽にしてくれないこと」という身も蓋もない理由が届けられます。しかし、とても頷ける理由でもあります。即座に「楽にしてくれる」なら、整体院や精神科医に通わずに「寺」に行きますよね。

この空海が伝える真言宗は、マントラが鍵となり、それを唱えれば即効性が得られたのではないかと当時をリーディングすると「そうだ」とも「驚く変化があった」と返事が来るほどのものだったようです。

では、何が衰退や形骸化の要因に至ったのか? と問いかけると「仕組み化したこと」「不敬を禁じたこと」にあるようです。特に「不敬」とした、失礼な関わりや、暴言など、礼節の欠くような真似は厳しく戒められた為、真理の探究となる修行がどうしても形骸化するしかなかったようです。

それでも、この仕組みなどに疑問を持つ僧侶は、独自に目覚めていくことも出来たのですが、輪廻を越えた物事を見つめる大日如来の観点の獲得は極めて困難だったようです。それについて問いかけると「自他の区別を持っていた」がとても大きく「他者(の悪想念)に操られぬよう律していたこと」が弊害となり、胎蔵界の思い込み観念を揺るがぬレベルで鍛え上げて固定化してしまっていたようです。

私は悟りを開いたという自覚がありますし、自称により信頼に値する根拠にはならないと知っています。それでも云うほかにないので話しております。オーム真理教の事件から考えても「真理」という言葉にまつわるマイナスイメージは大きく、語らない方が評判においてもよいと解釈するべきものです。

人に伝えるものとして、一度そっぽを向かれると「二度と信頼を得ることはない」という程に、離れた人が帰ってくることはないものです。故に、欲望に忠実なエゴに気に入られる関わり方をするべきものとなるものです。何より、信頼関係が全てであり、心理カウンセリングを仕事としている以上、「不信から入る人」「信頼から入る人」という二種類の人がいるなら、「信頼から入る人」とだけ、交友関係を築きたいと願うからです。こうした記事もオープンにして、それでいて「まさみちは信頼出来る人」と感じられる人とだけ、仕事の取り引きをしても私は何も失うことはありません。

心を助けたり、救い上げるリーディング心理カウンセリングは、宗教ではありません。特に形骸化した宗教しか知らない人から見向きもされなくても問題ないものです。好かれようとか、認められようとする必要性がそもそも存在しないからしないだけです。「大日如来」を言葉で伝えるなら、そうした「不信で関わる人とは関わらないでおくこと」であり、「信じてみようと感じられた人とは関わっていく」ことであります。

「大日如来」は、様々な姿に変化するので、不信から信頼に切り替えたい体験が訪れれば、耳を傾ける気になったとき、関わればよいと考えるものです。千手観音など、あらゆる手立てを尽くして「不信心」な人の傍らでも寄り添いますが、本人が「もしかして? 菩薩様?」とでも友人や自身の内なる囁きに対して感じなければ何も始まりません。「大日如来」は話しかけさえしませんから、自我となる欲望の心が「もういい止める」と決意するまで続くものです。どこまで苦痛にまみれてでも、変わることはありませんし、変えてもくれません。

「大日如来」はあらゆる姿になり、化身として人々になっているので、「自分自身を知りたい」と自己探求を始めるなら、目に映る人の全てが自分の分身体だと解釈出来れば、「大日如来」の何たるかが触れられるかと思います。

そして、大切なことは「理屈や概念ではなく実践的な法術が使えること」です。

法術とは「他者の苦悩を見つけ出し、解き明かし、消し去る力のこと」であり、「言葉の中に謎を解く全てが含まれていると見抜く力のこと」です。

相談者がいて、相談に答えたら、それが「即効性でもって気が楽になり、助かった」と思ってもらえることです。その相談に乗り答える質があり、レベルが存在しているのです。それが「天、明王、菩薩、如来」といった段階があり、どの程度の悩みまで紐解けるかが法力となるのです。

例えば、アロマテラピーをキネシオロジーを使ってされる人は、相手のストレスに対して明確なアロマを処方して、瞬時に気を整え楽にしてくれます。同じように音叉や、カラーセラピーや、五行や鍼灸などでも即効性が期待されています。その施術に携わる施術士たちは、クライアントさまの苦痛を少しでも多く、瞬時に取り除く為に努力なさっています。

真言宗なら、言霊が鍵となり、その言葉によって救うものの筈です。
大日如来の真言は「オン・バザラ・ダト・バン 」と、Wikipediaを調べると出て来ます。この使い方も、「問いかけるべき課題があり、そこに意識を繋げ、大日如来の根源と結ぶ」ことで唱えるものです。相対性であるのですから、胎蔵界の難題を見つめつつ、金剛界の本質と繋ぎ結びつけておいて、真言を言葉にするものです。

もっとも、この真言である「オン」という一文字取っても、1728の解釈を知っている状態であることです。

オン

例えばこの「オン」とは

「1,秘めることは出来ないと知っている」
「2,打ち明けなくても全ては繋がり伝わっていると知っている」
「3,全てがここにあり、明らかにされていると知っている」
「4,関わり合いの有無に関わらず、解き明かされるものと知っている」
「5,隔てるものなどないものと知っている」
「6,砕かれた元の姿を知っている」
「7,許されない前の状態を知っている」
「8,探さなくても目の前に用意されていることを知っている」
「9,嘘を取り除いた真実を知っている」
「10,苦しむものと苦しまないものとの差がないことを知っている」
「11,見せかけと中身の違いを埋め合わせる術と全てを知っている」
「12,明らかにされていない未知なるものを知っている」
「13,消し去れたものを知っている」
「14,犠牲になっている仕組みの全てを知っている」
「15,混沌さを整理出来ると知っている」
「16,確かめる前に答えの合致があることを知っている」
「17,全てが記録されていると知っている」
「18,無に支えられた在るべきものの全てを知っている」
「19,言葉や文字に込められた世界の全てを知っている」
「20,嘘で隔てられた全てを解体し、真実に作り変える手段を知っている」
「21,笑い合っていた始まりの前を知っている」

といった表現が続き、1728まで解説することが可能であるものです。この1728を知っている状態で「オン」と唱えると、この真言の法力が発揮される仕組みなのです。当然のことに胎蔵界における問題点に触れ、金剛界における解答に触れ、繋がり合わせている状態で唱えるものです。

末尾がどれも「知っている」という表現が出てくるので「オン」と唱えることで、真理の扉を開く真言であることは理解出来ます。こうした真言が継承されないのは(読み取る限り見当たらない)、経典などマニュアルが用意されても、そこから学び取るものではないからです。開眼するものと言われたりするように、真理を通して大日如来の遍照金剛とした智慧の光が「わかる」には、独自に見出すしかないからです。

ただ、開眼した師が居ると、弟子は師の振る舞いから察したり、問いかけることで得られる答えの中から、触れられる体験を重ねることが出来るメリットがあります。経典ではどうにもならないものを授かることが口伝は可能なのです。

心の中でも、物理法則が働いているので、その物質として「触れて動かす」という“量子もつれ”とした原理を使う為、師が弟子の心の働きの善し悪しがわかる為、幾らでも修正することが可能であると伝えるものです。「あっさり指導で教えて直してしまい使える状態にしてしまうもの」なのです。

今の時代、YouTubeなどで裏事情や作り方、仕組みなど全部解説しているものです。秘密になんてしないのが現代です。

私は真言は研究していないので、今し方「オン」について閃き降ろして解明しているものですので、「他には?」と問われても、実はあまり答える気持ちにならないものです。継承されない技術を教えたところで、形骸化するのが関の山だと考えている人です。

地道に言葉の意味や解釈について、深めていく方が余程確実性があります。

このようにリーディングという読み解く力があれば、真言宗のマントラも紐解けるものです。そしてこの力を私は宗教とは呼びません。組織化した時点で継承されるものではないからです。けれども組織化してでも継承しなければならないと思う人の気持ちはよく解るものでもあります。

どうにか、この現代において、認知の歪みを正せる流れを生み出せることを切に願っています。

大日如来㉑
「私はわたしである」と、自分を認識する上で「私」という主体を「わたし」によって主体を認識できる為、この「私」こそ本体であるものの、「私です」と認知している「大いなるわたし」がいて、この「大いなるわたし」を「仏」と位置づけているイメージです。この「仏=私」を見ている「更なる大いなるわたし」もいる為、幾らでも「大いなるわたし=仏」拡大化していくものです。見ているレベルが高まる(深まり広がる)のです。「受想行識・色」とした五蘊(ごうん)の働きの全てを同時に捉える「大いなるわたし」を一般に「仏=如来」と扱うものですが、主観性でなければならない課題をクリア出来る人がいないのです。

「肉体とした『色』と一体化」しつつ、「腹に据えた自己認知や知識、波羅蜜多となる森羅万象のメカニズムとした『受』と一体化」しつつ、「胸に感じる様々な気持ちやシチュエーションなど関係性など縁の結びつきや絆の先々や執着しなければならない支えとする『想』と一体化」しつつ、「俯瞰して状況を把握し、多方面に目を向け、不特定多数の人々の認知の仕方や感情の動きや理解の度合いや反抗してしまう心理状態を考えて行動に移せる『行』と一体化」しつつ、「これまでの生い立ちや、家族とのやり取りから、転生の歴史で培われた経験則から様々な情報を一度に全部ここに集約して行動原理の原動力にもする『識』の全て(十識十方)と一体化」することで、『主観性のわたし』そのものでいられる存在のことです。

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ミクロにもなれば、マクロにも至れる存在であり、過去世もどこまででも遡ることも出来れば、未来世にまで見透せるものです。内も外も、その間にあるものとも一体化することで、「無」であり「遍照金剛そのもの」でいることが出来ます。

繋がり方
大日如来を素粒子などのナノレベル以下の微細な光の粒として世界中に満ち満ちているイメージを持ちます。自分もその光の粒となり、その全ての粒から波紋となる光の波長が広がっているイメージを持ちます。それを意識出来た時点で求める救済は果たされます。

参考事例を紹介は出来ません。ご了承ください。

上記の繋がり方を読まれても、出来るイメージが持てないと思います。
修行の果て辿り着く境地とでも思っていただければと思います。

私は悟っていますが、このレベルでの悟りは転生を越えて悟る為、どの時代であっても大体は悟ります。輪廻を超えるレベル悟りは、過去世でも悟っているものですし、この先も転生しても悟るものです。

故に、今、悟れば過去世の全てが救われて楽になれるので、今、悟ってほしいものです。誰でも悟れますし、本来、悟っている状態の方が健康体であり自然体だからです。本来の姿を見失っているのを、見出すことは当然のことなのです。

こうして21体の立体曼荼羅の仏像についてリーディングしてみました。

難しい限りかと感じるかも知れませんが、学ぶほどに有効性や実用性を実践出来るとわかるなら、勉強していただければと願います。

大日如来の『日』という、日本の『日』でもあるのは、太陽と称されるように口と口が繋がり合っている「陰陽」を合わせているものです。太陰暦、太陽暦というように、太陽そのもの単体で陰陽持ち合わせています。その為、ただの太陽と捉えず、とてもとても壮大なるものとして『大』がついているので、滅茶苦茶素晴らしく愛の溢れた「陰陽=男女」が一つになった思いの源が『日』なのです。

「日本」とは、そうした『日』により照らし出された先に映し出されて記された『本』という記録なのです。壮大な歴史によって照らし出された今の「私」最高で最良の姿まで育ち、輝き放っている国と名付けられていると感じ取っていただけると幸いです。

『日=男女=夫婦=両親』であるとすると『本=子』であるとも云えます。

子である、私たちは、必ず両親の間に生まれていて、全ての情報が遍照金剛として受け継がれている最高の存在なのです。ただ、その光が穢れ、見失っている為、何が起きているのかも解らないほどのに眠りこけてしまっているだけです。

穢れを祓い、本来の姿を思い出すことが出来れば幾らでも輝き直せます。

自分の中にある、無限の愛に触れてください。

「おはようございます。」

「お目覚めの気分はいかがでしたでしょうか?」

釈迦の記憶を持っている故に、真理について造詣が深いことを示せたかと思うのですが、どのように感じられるかはみなさまにお任せ致します。

有料の記事でして、サポートして金銭的に応援してくださると助かります。

真理の泉は尽きることがありませんから、幾らでも情報としてお届けする気持ちはあります。

これも、相対的なもので、与えるから受け取れるものでもあります。

「信頼出来る」と感じるなら、そのように現象が変わります。

そうでないなら、そうでない現象を確かめてください。

釈迦も業(カルマ(行為))持ちでした。今世は地獄界に墜ちて、「人を信頼するばかりでは救い出せない人がいる事実に気づきなさい」とした、青天の霹靂のような学びを体験することになりました。

転生の物語、自分史はとても魅力的で臨場感に溢れ、こんなにも面白い世界はないと感じています。毎度、夢中になってしまうものです。今生は時代の転換期として「このタイミングでしか出来ないこと」があるので、それに向けて私と妻は一生懸命頑張らない頑張りをしています(無のまま生命の流れに委ねる)。

良ければ、一緒に生きて行きませんか?


では、また。

リーディングマスター・まさみち。


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