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ここにあるもの 千手観音坐像・行

リーディングマスター・まさみちです。心理カウンセラーとして活動しており、様々な深層心理における難問を「視る」力により、紐解いてお届けしています。(77/88)

千手観音坐像がどんな働きが込められているのか、リーディングで紐解いてお届けしており、五蘊(ごうん)における「色・受想行識」の「行」のパートを紹介しております。

全ては「行動から変わる」という言葉があります。

心の中身も「行動」であることを伝える側面があります。意識を動かし、問題を根源から解消して「気づき」を得てから動くことで変化をもたらすことが出来ます。

心の中身において「哀しみがある」状態で行動に移しても、対立してしまいますが、「哀しみがなくなり、愛されている」状態だと気づいて行動に移すと、衝突することなく問題が解決してしまう場合があります。

私たちは「証拠に基づいて動くこと」を意識しています。

物的証拠は何より重要なものとなり、「結果が全てだ!」とも言うべき程、事実が重大になります。

仏との対話は、結果も重要なものですが、そこに「愛している」気持ちが「最初からあるのか?」「最初からないのか?」それが大切な問題として問いかけるものです。

この問いの解答は、「最初から愛がある」しかない為、仏の対話は、如何にして愛を見失ったのか? といったいきさつを探し出すものとなります。

「思い続ける」

この気持ちも、「行為」「行動」になります。

「カルマ(業・行為)」というものは、「意識を向け続け(識)、常時観察し(受)、気持ちを向け続けること(想)を指し、無意識下でも身についた思考力を指すもの」です。

五蘊(ごうん)における、「受想行識」の取り組む課題において、「行為が続く」ことの意味合いを深く理解するのが賢明なこととなります。

特に、不満や希望など、永続的に願い続ける「思いの行為」が存在しています。

「助けて欲しい」「信じて欲しい」「誰も解ってくれない」など、継続的に思う場合があります。

これら「行為する思い」は、人に届くとどの様な反応を示すのか事例を紹介します。

←「助けて欲しい(行)」→←「人に頼るものではない(行)」→←「もう少し自分で頑張ったら?(行)」→←「今更人に頼るなんておこがましい(行)」→などと思うことがあります。

これらは、それぞれが主張し合い、譲ることがない為「対立」しか生みません。

この「対立」緊張状態で維持されている場合、変化しようとしても「解釈を改めることが出来ない」ものとなり固定化されるのです。

この四つの「行」の全体を捉えるなどすれば、「思いの行為の過ち」に気づき、変革出来ることもありますが、多くの場合は「正面から説得してしまう」行為に出てしまうため、無理解ばかりが感じられる結果になるものです。(互いの主張を譲れない頑固さが双方に出て来てしまうのです)

本来は対人関係においても、「受想行識」と四つの組み合わせで、人と接触するのですが、「行行行行」の四つで組み合わせられるパターンもあります。このような特殊な環境下においては、視野が固定化されてしまう問題があります(「想」のパートと同じように、相対するどこかに「想想想想」「受受受受」「識識識識」があり、固定された価値観から抜け出せないのです)。

この場合、「行為」が絡まり合っている為、価値観の変更が出来なくなるものです。偏屈な人や、狂気な人などが該当し、関わる側まで異常な気持ちにさせられる問題が隠れています。

千手観音坐像において、仏との対話は「救済」が目的になるものです。

変な意識や、おかしな行動など、自分にしかわからない「感覚」というものが存在します。

自分で見聞きし、触れることで五感が刺激され、色々な側面にも顔を利かせられることがある人が、自分の行動や行為に「異常がある」と感じることが大切なポイントとなります。

心について最大の難問は「あれ? 何か変?」「異常」を認識しなければ、改善の道も始まらないのです。

行為への観察は、様々なことを気づかせてくれます。

予定通りに進まない。→危険を知らせるサインかも知れない。

物を忘れてしまう。→人を信用してはならないサインかも知れない。

朝起きられない。→無視している問題があるかも知れない。

このような体験を感じられるなら、そこに「何かがおかしい異常がある」と教えてくれるのです。

多くの場合、誰かに協力を申し出れば、助けてくれるものです。しかし、身内など家族に限っては、助けてくれない場合もあります。「そんなことで怒らなくてもいいのではないか」と感じるような内容も、中立を保とうと関わっても、強制的に縛り付けなければ話さえまともに出来る状態にはならないのです。

異常行動を止めるには、偏屈や、狂気陥る関係者全員の視野を借り受けることが大切なところです。

千手観音の三十三間堂が、1001体も立像があるのは、それだけ多くの眼差しがあることが重要なのです。

一人で仏と、一対一の対話は出来るようになっても、このような偏屈や、狂気陥る心を見るには、一対複数の対話有効なことがあります。

客観視の全ての行為「偏屈」「狂気」であり、それ故(客観視に閉じ込められている為)に、自力では偏りは治せなくなるものです。

本人ではなく、周りにいる人が助けなければならないものとなります。大体は「見捨てて欲しい」などの偏屈さに閉じ込められている為、マイナス発想ばかりを連呼してしまい、関わる側が呆れてしまい、「見捨てられる」体験へと繋がります。

関わっていて、「もの凄く頭が悪いかも?」と、他人に対して感じることがあれば、それは何かに閉じ込められて思考が偏っていることがあります。

「おや?」

と、感じられたなら、助けてあげてください。

ワークを教えます。

千手観音坐像の中に自身を閉じ込めてください。閉じ込められた状態で「閉じ込められた理由を教えてください」と問いかけるとわかります。(千手観音坐像の品質のレベルに応じて紐解ける内容の広大さが変わります)

他にも「嫌われている理由を知らせてください」、「外に出られない理由を教えてください」、「人並みに外に出ようと思わない理由は何ですか?」と問いかけるといいものです。

また「力尽きている理由を知りたいです」と問いかけると、意外な盲点を知らせて貰えることがあります。

自分の「行為する思い(エゴ)」を上回る「行為する思い(愛)」があると、紐解けるようになります。力押しが大事なのです。愛する力が世界を変えるのです。思いが強くなければ、挫けてしまうからです。

「どんな状況下でも、思いを行為から無為に変えられること」です。

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「無為」という思いを動かさないことが、到達目標でもあります。

真理は、教えを消し去る教えであります。

真理に触れると、様々な歪みの価値観などの概念を無に直してくれます。

行為をやめさせてくれる発想が閃いてきます。

それには、仏そのものになりきったイメージを持ち、「どうしてこのようになったんだろう?」と、問いかければそれがイメージされるものです。

「過去世の何が起点で、このトラブルがあるの?」と、問いかけることでも道が開かれることがあります。過去世など見える、見えないなど考えるよりも、取り組み続けたか? 否か? その事実の方が重要です。

過去世も「見えるわけが無い」という行為をやめ、「見えていて当然」とすれば、解るようになるものです。

簡単に考えることが大切です。

知っていて、楽勝なほどに無関心に知り尽くしていることは、「知ろう」とも「知らせたい」とも思わないものです。その境地で仏と取り組むものです。

自分の「行為」している無意識を見つけてみてください。

「無にならないのは何故?」という問いも面白いものです。

自分に話しかけてみてください。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。








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