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忿怒の仏 不動明王⑦

リーディングマスター・まさみちです。見えない心の世界を探求するには、何かしら指標がないと、自分がどこに立っているのかわからなくなります。物事は相対性ですから、基準をどこに設けるかによって、良さも悪さも変わる為、手本となるものが重要になります。私はデイビッド・フォーキング博士の著書のパワーか、フォースかの意識レベルを基準にして、様々な物事を識別するのに役立てていました。それにもデイビッド・フォーキング博士と同じ視座を手にすることが重要であり、普通にキネシオロジー(筋肉反射反応)テストをすれば、計測出来ると思うのは浅はかな発想だと気づかされるもので、様々な要因を取り除いて、はじめて計測出来るように至ると研究していて思うようになりました。(24/88)

この意識レベルにおける計測において、「忿怒した体験」があり、「あーあ、ついに怒ってしまったよ」と落胆したことがありました。しかし、その怒りを計測すると348意識レベルで計測出来る為、ネガティブの157意識レベル辺りの「怒り」とは違うことを発見しました。

体感は怒りであるものの、識別は忿怒という「自分を粗末に扱うな!」といった意味合いなど、「鼓舞すること」などにも通じるものと気づき、失礼な扱いに対して適切な関わりを示す「忿怒」は「憤怒」とは違うと知るようになりました。

天、明王、菩薩、如来という4つの識別の「明王部」の解説に入っていきます。

「天部」は、他者との基本的な関わりにおいて、誰に対しても「手を貸しなさい」というニュアンスのものです。「明王部」は、関わる人に「礼節を持って接しなさい」というニュアンスとなるものです。「菩薩部」は、「誰しも弱さを持つものですから、支えてやりなさい」というニュアンスとなるものです。「如来部」は、「本人さえ気づかぬ素晴らしいものに気づいてやり、それを引き出してやりなさい」といったニュアンスとなるものなので、レベルに応じた人との触れ合い方が変わるものです。

立体曼荼羅はどれも大日如来の化身の姿ですから、それぞれの人のタイプや、関わる環境や状況に応じて、映し出される姿が変わることを示しており、それが順々にあることを知らせているものです。

⑦不動明王
一人では出来ず、相手との協力がなければ成立しない物事において、礼節をわきまえることが大切です。「物をいただく時」「何かを尋ねる時」「教えを請う時」「自分を知りたい時」など、“横柄さ”、“横暴さ”、“横着さ”、“横領さ”など在ってはならない態度や行動に出た人と関わる時、身をもって「良くないこと」として体験させて礼節を教えてくれる存在が必要なのです。人が持つ正義感に溢れる心と誤解し、錯覚してしまうものでもあるものの、「不快さ」の感覚に反射的に反応して「怒り」となって相手を倒す勢いを仕向けてしまうものではないものです。相手の『礼節の無さ』から『礼節を知る』段階に引き上げる関わりのことを指します。あるべき物がない時、人の心は弱り、悪に付け入れられて、非礼をしてしまうのです。礼節を学んだ体験さえないものと心得られるかが大事です。その未熟さを受容し、その上で“反発”、“反抗”、“反対”、“反逆”をさせぬよう囲い込み、逃げ場がない環境下において、未熟さから成熟さへと高める道を示して、手を引くことをいいます。「正しき関わり方」「正しき思いの寄せ方」「正しき振る舞い方」「正しき研鑽の重ね方」を示してくれる人との出会いがなければ、人の心は育たぬことを教えるものです。人は純粋で、美しく、清らかで、面白く、誠実で、聖賢さを持ち、知恵を与え、楽しくし、明るく笑いかける存在である者に惹かれてしまうものなのです。そのような人で在ろうとする思いは、誰の中にもあると気づき、それを引き出す存在なのです。

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忿怒の相を示す仏を生み出した空海は、善良なる心で人を持て成し、心地よさを与えても、それを無下に扱われたり、非礼で返されると、人は忿怒してしまうことを「愛の表れ」と見抜いていたようです。

仏の顔も三度までという表現があるように、礼節をわきまえないのも度が過ぎると、仏共々地獄に墜ちてでも、相手を導く為に身を炎の中に焼(く)べることさえすることがあるのです。

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忍耐強く、礼節を重んじ、純粋さを示し続けて邪鬼や愚行に耐えて道を開こうとする者には、不動明王の加護が得られるものです。仏の顔を何度蹴られようが、殴られようが、非道な目に遭わされようが、「必ず気づく」と信じて、歯を食いしばり、善行を続けることで、邪鬼を祓う力も貸してくれます。

繋がり方
不動明王と自分を入れ替えます。不動明王自分が入っている)と、自分不動明王が入っている)という状態となり、自分(不動明王)から、不動明王(自分)に向かって問いかけることで、非礼のまま改善しようとしない問題点を見つけ出すことが出来ます。

参考事例を紹介します。

自分(不動明王)「貧しい自分の問題点は何?」
不動明王(自分)「本音と建て前の嘘でコミュニケーションを取ること」

自分(不動明王)「貧しい自分の問題点は何?」
不動明王(自分)「真剣に取り組まず、どこかで逃げ出せる道を残していること」

自分(不動明王)「貧しい自分の問題点は何?」
不動明王(自分)「余裕がある段階で、自分を高める為の勉強をせぬこと」

自分(不動明王)「貧しい自分の問題点は何?」
不動明王(自分)「羨むことは“停滞して何もせぬ”という事実を知らぬこと」

自分(不動明王)「貧しい自分の問題点は何?」
不動明王(自分)「金を欲しがり、人の願いを叶える人には成らぬこと」

自分(不動明王)「貧しい自分の問題点は何?」
不動明王(自分)「人に尽くさせ、みんなに対して喜びを与えないこと」

自分(不動明王)「貧しい自分の問題点は何?」
不動明王(自分)「自由を望み、不自由を愛さぬ事で、自分を求められないようにして存在を消していること」

自分(不動明王)「貧しい自分の問題点は何?」
不動明王(自分)「卑しく、寄生し、脅し、厄介な存在だと自覚しながら何もしないこと」

自分(不動明王)「貧しい自分の問題点は何?」
不動明王(自分)「自分のせいにして終わらせていること」

自分(不動明王)「貧しい自分の問題点は何?」
不動明王(自分)「証拠ばかりを見て、相手や自分の純粋さを見ようとしないこと」

自分(不動明王)「貧しい自分の問題点は何?」
不動明王(自分)「行動と結果が一体になっていないこと」

自分(不動明王)「貧しい自分の問題点は何?」
不動明王(自分)「心の未熟さに気づいていながら、見ている自分が自分の代わりに舵を取り、人生を歩み出さないこと」

自分(不動明王)「見ている自分が問題だったの?」
不動明王(自分)「自分が不動明王だと気づいたか?」

自分(不動明王)「はい」
不動明王(自分)(微笑んでいる)

といったやり取りが浮かぶかも知れません。

入れ替える方法は、どんな仏像でも手軽に出来て有効さが認められるものです。
不動明王系の厳しめの表情を持つ仏像たちは、手厳しいことを思いつきやすいものです。それでも最後まで対話を続け、「気づき」を得られて納得出来ると、「対話が終わった感」が訪れるので、わかるものです。

心残りがあるかどうかの識別も、積み重ねて識別出来るように研鑽を積むしかないものです。自分の心は、自分が育てていくという解釈を持てるようになると、この不動明王は、とても重要なポジションを占めます。

この不動明王⑦は、明王部の中心的存在です。天部の中心的存在は梵天①です。

その為、この不動明王⑦は梵天①の色合いも強く帯びるものと心得ておくとよいものです。創造(仏)、維持(法)、破壊(僧)などの三位一体から考えると、破壊的ニュアンスを不動明王から感じられると、壊すのではなく、生み出す為にする破壊であることがイメージ付くかと思います。「怒り」ではなく「鼓舞」といったイメージを与えてくれる存在なのです。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。


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