コロナに見る「いじめ」の仕組み②
リーディングマスター・まさみちです。見えない心の仕組みを見える化を果たし、知りたくなかったけど、知らないと対応も出来なければ気づきも起こせないメカニズムを解説しております。
「いじめ」がある。
社会問題でもあり、「いじめは犯罪だ」と声高に叫んで周知したとしても、なくならない。
意識レベルで言うなら、「いじめは犯罪だ」という言葉が持つエネルギーは166で計測される。ネガティヴな言葉であり、いじめを抑制するどころか増長させる言葉でもある。
というレベルは、「見た目だけでも整えろ」「自分一人だけが哀しい訳ではないと知れ、みんな我慢しているからあなたも我慢するべきだ」「被害者振るな。泣いていても何も解決しないのだから立ち上がれ! 立ち上がらなければ鞭で叩いてでも立たせてやる! 叩けば立って歩けるのだからそれでいい」「哀しませた奴を見返してやれ。弱さに屈するな。やり返してやれ。報復合戦でどちらかが倒れるまで続ければいい」というニュアンスが含まれているレベルでもある。
数字や端的な言葉では、内容中身が伝わりにくいが、文章を多面的に解説することを許されれば、短い「意図的な嘘」という抽象的な表現に色々なものが膨れており、「深み」が増してきて、「いじめは犯罪だ」という一見、良識的で確固たる強い意志でいじめの撲滅を願うスローガンのように見えるが、このスローガンが「いじめ」の力そのものであるのだ。
言っている側はいじめの実態はない。
これを「言葉の暴力」だと認識することも難しい。
けれども因果律を辿れば、この多大な「抑止」の圧力は、我慢の限界や破壊的な衝動の源となり164,「みんなが守っている中、一人だけ規律を乱す奴は悪い人だ」という感覚が集団に伝達され、169,「みんなの『悪い人だ』という想念の姿を見せている姿」となり、規律を乱す人となり、「いじめ」をしている人のように見えてしまい本人の無自覚なまま「いじめの当事者」に祭り上げられる証拠が出来上がる場合がある。
この事例は、169の立場を担当している人が犠牲となり、集合無意識の圧力で「いじめた人」に仕立て上げられて、気づかないまま加害者に至るという体験となる。
この体験から学ぶことがあればいいが、学ばないこともあるので「いじめ」はなくならないと言える。
どうしたら? いじめは無くせる?
ここでは、①〜⑫の「コロナいじめ」となる、国民レベルでのいじめを紐解いている。144〜166,というネガティヴな意識レベルは「不毛なやりとりの応酬で疲弊しかしない」ことを物語っている。
①〜⑫もの想念の渦が絡み合って、大きな渦を形成しており、日本がすっぽりハマっている状態である。誰もが加害者として踏みつけ、誰もが被害者として踏みつけられている状態なのだ。
その中でも酷く踏みつけられている人もいれば、コロナ特需で湧く業種や個人事業主もいるなど不公平感ばかりが蔓延する世界にもなっている。
リーディングというものは、超意識から物事を洞察する心眼を持って取り組むことだ。それによれば、「白黒ハッキリさせないことが一番いい解決方法だ」とし、「誰のせいにもしない」「誰も責任を取らなくてもいい」「みんなで笑うには思いの全てを呑み込んで、忘れて水に流してしまおう」「痛み分けで終わらそう」という気概が感じられ、「事なかれ主義」の想念が覆っているのがわかった。
問題は、「解決策がない」ことである。
明確に「これこれをすればいい」と明確な道が見えれば人はその目標に向かって動き出せるが、それが見えないから「見つけられない犯人捜しをするより、耐えて未来に希望を繋ぐための我慢をしよう」と言って「自粛要請をお願いする(と見せかけて意味合いとしては強要されていると感じる為に動けなくなる)」という事態を招く。
リーディングでは、国民総意で「意味の無いまん延防止処置はやめる」としてやめることが出来ればいい。互いが監視し合い、互いに抑制を強いることをし、みんなで我慢するのだから、みんなで我慢を同時にやめてしまえばよいとなる。
「コロナいじめ」の枠組みと「コロナの発生メカニズム」の因果関係がリーディングでは見つけられないからだ。取り組んだから成果があった。取り組まないからコロナが拡大したということが全く因果関係がないのだ。
だから「いじめ」と表現して障りないと、ここでは言うのだ。
国がネガティヴな意思決定を促進しているが、それは当事者たちからすればこの一覧表の意識レベルの解説そのものに対して、「批難するな」「人の意識を数値で測るなど言語道断であり不謹慎だ! 恥を知れ恥を!」「文句なら誰だって言える! みんなの命を懸命に守っている者への扱いか!」「みんな自己犠牲精神でみんなを助けようとしているのだ! その倒れて死んでも、倒れて死んでも、後に続く者たちが思いを繋いでくれて支えるこの美しき世界に異を唱えるな!」と反感されてしまう表現を使っていることになる。
それだけ国も厚生労働省も医療現場にいる人たちも、みんなみんな「自己犠牲精神の鏡」であり、自分が死んでも後に続く者のために「コロナに負けるな!」と怒りを向ける先のない争いを続けているのだ。
144〜166,の意識レベルの全体を言葉に表すなら「不毛なやり取り」と表現出来るものだ。これを「いじめ」と言わずにどう表現すれば良いというのか? 国レベル、国民総出で見えないコロナという敵に抗う「不毛なやり取り」を終わりなく続けなければならないのだ。
「自己犠牲精神の美徳」がどうして始まったのか?
そもそも論を辿るならば、「子が笑っているなら父さんや母さんは辛くない」と、自分たちがどんな目に遭っているのか、どんな苦痛の中で耐えながら子育てしているのか「見せられない姿を隠している」実態がある。
「職場で納得行かない扱いを受けている」
「同僚から仲間外れにされて居場所がないままである」
「職場では出来ない姿だから、家では立派な姿でいたいと見栄を張る」
「子に嫌われたくないから、どこまでも建前の言葉で子に接してしまう」
などが犠牲精神であり、「子の前くらいは格好つけさせて欲しい」と166,「意図的な嘘」をついて144,「出来の悪い親でごめんな。こんな風にならないように育ってくれ」という、どうにも受け取りようのない願いを託して働かれても、子どもの側からしたら「それは虐待って気づけよ」と言いたいが、構造が見えるくらいに成長した時には老後を迎えていたりする。
死ぬ間際で「もっと自由に何でもすればよかった」「もっと本気でぶつかれば良かった」「もっと遊べば良かった」「もっと我慢(自己犠牲精神)などせず、好きに生きたら良かった」と気づくのだ。
それは「手遅れだ」という時間に入ってから気づくようにしている集合無意識の罠であり、死ぬ前の言葉を著書などで先んじて知識で得ても、その知識が役に立たないとは知らないのだ。
そもそも自分がカルマというループする因果律に呑まれている事実など見えたりはしないから、先人の知恵をいくら蓄えたところで役に立たないとは思いたくもない。知恵(経験による気づきの知識)と智慧(真理からもたらされる今を生きる反射的目覚め続ける知識の結晶)の違いは心を開かなければ識別出来ないからだ。
自己犠牲精神の美徳に酔いしれている「我慢強さ」で耐えた抑圧の想念は、誰かが踏み潰されているとは知らないのである。
⑫陰
受,水,160,親たち,子どもたちに道を示せない。親の信用の失墜。
想,金,167,補助対象外の人,「狙い撃ち差別だ! あんまりだ」
行,土,166,政府,「最悪を想定して、回避する行動に出るしかない」
識,火,164,海外,「ネガティヴ対応をした国を見てああならないようにメディア報道をし、ポジティヴ対応をした国は報道しても真似しないでいる」
色,木,162,補助を受ける人,「旨味のある政策を! 給付金頼み!」
⑫陽
色,木,146,国民,「またか、効果ないだろう?」
識,火,143,顧客,「政府に従わないと、店には悪いけど家にこもる」
行,土,144,商人,「まん延防止処置やロックダウンなどの行動抑制命令はやめてくれ」
想,金,148,学生,「リモート学習でやる気が削がれまくり」←ここにダメージが蓄積
受,水,155,警鐘,「コロナは危険だ!」or「コロナは茶番だ!」の分離情報が錯綜する世界。
細々とした解説などは繰り返し読み込んで欲しい。ここでの問題は「政府が、まん延防止処置をする」と「学生が気力が削がれて生きる道を見失う」という相対的な働きがあるという因果律があるということだ。
これを「コロナいじめ」と言っている。
守るべき子どもたちを、政治に関わる大人たちが加害者(いじめっ子)となり、子どもたちが被害者(いじめられっ子)となっていると読み解けるので、そのように表現しているまでだ。
範囲が広すぎるし、総合データでしか判別もつかないようなもので、明確な因果関係など調査しても「確証は持てない」というように曖昧さに逃げられる類いだ。
子どもたちの自殺者数の増加を数値で判断しても、「明確には断言できない」というところで留まるものだ。
犯人を追えば見つけられなくなるのが、この「いじめ問題」なのだから。
みんなが放つ集合無意識という大きな想念の流れによって、特定の子どもが命を絶つ現実を生んでいる。加害者なき被害者があるのだ。
例え話として、「自然は何があるか解らないから外で遊ばないのよ」と注意を促して安全策を取ったら、子どもは家の中がつまらなすぎて「自室で首を吊る」という最悪を回避したら、最悪に陥った。と、笑えない話がここにある。
遺族からすれば政府を恨もうにも「コロナ」が問題の根幹であるから、誰が悪いわけでもない理屈は解るため、我が子が亡くなる現実だけがリアルであり、「コロナ」という非現実的な情報に躍らされて動いているのが真実なのかどうか、全く現実味を感じられなくなる。
コロナの被害者からは「大変だ」とも「普通だ」とも様々出てくる。
死者が出ているとしても高齢者であり、赤の他人から見るなら「寿命(老衰)でいいんじゃないの?」と思うようなものばかりで、とても子どもの無気力や、自殺へ追いやっているリアルな数字は出ないのでニュースにもならない。
人は理解出来ないことは表現しない(出来ない)のだ。
集合無意識で人が死ぬことや、人の気力が減退し無気力に陥るなど、想像は出来たとしても立証は難しい。立証するくらいなら、問題の構造そのものを解体して見せて「あれ、いつの間にか政府の発表がポジティヴになっている」というような奇跡でも起こして見ろよという思いが普通である。
ジャーナリストが撮影に没頭して、救助できる人を見殺しにしているリアルな映像は共感より反感を抱くことにもなるものと似ている。
ここでの解説は、リーディングによる「コロナいじめ」の解体である。
集合無意識の治療である。
「誰か、何とかしてくれ」
という願いをキャッチして、叶える為に動いている。
みんな辟易しているのだ。
それでいて疲労困憊している。
解決出来る日を信じられるから、「ここで倒れても次の人が思いを繋いで願いを達成してくれる」という連鎖があった。
でも、繋いでいる人たちが加害者であり被害者という両方を担っているとなると「笑えない冗談だ」ということになってしまう。
自己犠牲での助け合いは、消耗しか招かない。
そして「みんな死に絶える」という結末しか連想できないものだ。
この連鎖を断ち切る為に、共通の敵となる「コロナウィルス」に登場してもらっても、国民は一つにまとまらないリアルな現実が起きた。
戦うエンターテインメントをリアルに生み出しても、人類(日本国民)の知恵は「いじめのカルマ(業)」を打ち破ることが出来ずにいる。
自己犠牲という個人の喪失(子どもの自殺)は、そのまま全体の喪失(世界の全滅)を招き入れることだと思い到らせるものでなければならないものだ。
親や政府など上に立つ人たちの裏の姿もアリアリと子どもや国民に知られても、受け入れられ、許され、「そのまま続けて欲しい」と願われている事実があることに気づく必要があるのだ。欠点は隠すものでなく、さらして補い合うものであると、誰よりも自身の姿を通して行動し続ける必要がある。
どれだけ優良で素晴らしいことをしても、欠点一つ、汚点一つで人格の全てを否定されてしまう認知がこの「コロナいじめ」のカラクリの中にある。
過ちを犯したなら、徹底的にその人が批難の的となり冤罪としか思えない謂(いわ)れ無い誹謗中傷さえも受け入れて、全体を救うために生贄となる犠牲という「人柱」になり、「尊い犠牲を忘れない」とみんなに思わせてくれるなら、「許してやっても良い」という集合無意識の「自己犠牲精神の美徳感」は「偽物」でしかない。
自己犠牲を強要するような心が正常である筈がない。
間違いを冒したから、ルールを破ったから、迷惑を顧みなかったから、癪に障ったから、目の前にいる人を批難していい理屈にはならない。
けれども、批難する側も、批難される側も、批難のやり取りを見ている側も、後からそんなやり取りがあったと事後報告受ける側も、みんな加害者であり被害者なのである。
それがカルマ(業)なのだ。
同時に「意味も価値も無い」とわかり、やめることだ。
「誰も恨まない」
それでいいだけだった。
そしてみんな「損した」でいいのだ。
事の発端は「雨乞い」などにさかのぼる。不作の腹いせを誰かのせいにしてしまうことだ。
日本の国民性のような「いじめ」の根源がここにあるのだ。
誰が悪いわけでもない。
日照りや干ばつが続いて、不況不作が続けば、人は殺気立ち争いが勃発する。
洪水が続けば、「龍神の怒りを鎮める為に人柱が川に流される」行為がある。
雨乞いの干ばつは、盗みや取り合い奪い合いになり、それが殺傷事件に発展する。
どうしようもない殺伐した世界が発生し、中途半端な仲裁が入る。
「人と人との争いは不毛だから、協力し合おう」
と教え、貯水湖を作ることや、用水路を引くなどすれば争いが鎮まる。堤防を作り、川の流れを制御すれば安心して暮らせるようになる。
事の発端は「自然災害」だ。
不毛でも「自然に向かって、云いたいことを告げればいい」だけだった。
自然に向かって「文句言っても始まらない」という理性を働かせて、心の底から「太陽が恨めしい」「大雨が憎い」と吐き出せるだけ、精一杯に吐き出せば良かったのだ。
不毛だと思った心が自然体で生きることをやめて「人間らしく生きなければ」と賢い振りをするようにしたのだ。感情は自然界に向けて制御するのではなく、思いの限り打ち明けて、スッキリ晴れやかな気持ちで接している方が良かったのだ。
無価値なことはしたくない。
無意味なことはやりたくない。
その無価値や無意味を実践してやってのける行動力があれば、その無価値や無意味さの中から価値や意味が生まれる体験が出来る。
「無」を実践すれば良かったのだ。
自然に思いを打ち明ける。
返事も何もない。
一方的である。
ただ告げるだけだ。
云いたいことを全部云うだけだ。
云いたいことを云わなくなるから魂から「云う」が消え去り人の心に「鬼」が宿るようになるのだ。
そんな先人たちの教えなど、政府など都合の悪い上の立場の人からしたら、教育の場から「教え」を消し去り、権力を手中に収めるようにする。それは我が子、一族の為という自己犠牲精神で「私が罪を被れば良い」と嫌われ者になってでも、守り通さなければならないものがある。と断行するのだ。
そして誰の心の中にも「鬼」を宿してしまい、魂から云いたいことを云えない世界を創り上げて、自己犠牲社会を蔓延してしまったのだ。
不毛を回避しようとして不毛に陥るジレンマだ。
切ない。
救いが無い。
かつて政府機関の中に「陰陽寮」という役職があった。
その時の飢饉や干ばつの対策に乗り出していた機関があったが、どんどん形骸化が進み、価値を失った。無価値の中に価値を見出せる術者が継承されなくなった為だ。問題の本質を見抜けない者が徒党を組んでも、役には立たない。
政府機関から削除されれば、政府の目は盲目となり光を失うことになる。
そして事実を読み分けられない者たちが対応しても、答えを見つけられない。
解き明かせない現状の機関に何の価値があるというのか?
また無意味な政府、無意味な価値しか生み出せない対策から、意味のある流れや価値のある存在が生まれて来る。
そう考えると、無意味なもの、無価値のものなど何もないと見えてくる。
かつての人柱の過ちさえ、次の時代に繋ぐためのものとして確かに「愛ある世界を引き寄せた」と云えるものともなる。
報われたのだ。
思いが成就して、犠牲で繋いでいた世界が終わりを迎え、新しい真実を生み出せる世界が始まるのだ。
大切なことは「コロナにかからない免疫を高める」ことであり、それは「歓喜して生きる」こと他ならない。
次回伝えるが、「歓喜して生きる」「祝福の息吹である」「生命の力そのものである」「真理を礎にした叡智をもたらす」ことを胸にして振る舞えれば、コロナのウィルスに打ち勝てる生命力、免疫力が持てるものである。
愛で生きることなのだ。
自分を愛し、隣人を愛することだ。
笑えるために、まず泣ききって見せる強さを示すことだ。
哀しみは幻想だと気づいた世界を確立していくことである。
そうすればこの「コロナいじめ」のカルマは終わる。
一人ひとりが笑えばいい。
屈託なくね。
「にこっ」て笑おう!
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