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嬉しさが溢れる 千手観音坐像・識

心と言葉の研究者 リーディングマスター・まさみちです。心は深淵です。現実と密接に繋がっている為、意識を改めた上で行動に移していかなければ、自分の放った否定的感覚と対峙して、いくらポジティブに語りかけようとしても、自分の放った否定的感覚の存在に気づかなければ、説得など出来るはずもないものです。鏡に「そっちが謝ったら、謝ってやってもいい」という姿勢で関わることの意味の無さを観察出来る状態を「悟り」とでも思っていてください。(78/88)

物事は、遥か太古から「起きた出来事しか存在しない」という理屈で考えるなら「肯定する」しかない事実しかありません。

いったい何があって、どういうメカニズムで「肯定しか無い世界」に「否定」という概念を持ち込んだのでしょう? そんなことをリーディングして天に問いかけてみたら、どんな解答が降ろされるか、ちょっとやってみたいのでやってみます。

Q,否定の概念形成のいきさつについて教えてください。

A,親が物事を伝える時、子が伝えた内容を短絡的な解釈に置き換え内容の要約が「過ちがある」ことを告げる為のもの。一時的に双方のやり取りが不成立であることを、示す意思表示のことであり、行動により習熟を決意する場合に『否定的要素』を含めてならないもの。『否定的要素』を含めて宣言をすることで、孫やひ孫に到るまで、『否定的要素』を含めた宣言になる為、萎縮するしかなくなり、閉塞的な認知の檻に閉じ込められる為、一度閉じ込められると「カルマ(業・行為)」が発生してしまい抜けられなくなるものです。この「カルマ(業・行為)」の恐ろしさを教える為に安易に使う表現となり、解り易く伝えることが出来、同じレベルで解釈を示すことが出来る為、「カルマ(業・行為)」に閉じ込められた方が、同じことの繰り返しで済むため、楽観視出来ることが、『否定』を継続させる現実を支えるものです。

親の伝えたい内容と文脈を、子が早合点した時に、「違う違う! そうじゃない、こうだ」と教え、「こう?」と子が確認しても、「違う違う! こうじゃなくてな、ここんところがこうなっているから、こうしてこうなんだよ」と教え直し、「ああ、こうだね!」と子が確認して「そうだ! それだ!」という双方が合点し合うまでの、一時的なものとして「否定」は存在するものでしかなく、継続的に否定するものではないのです。

世の中が「カルマ(業・行為)」の無限の檻に閉じ込められ、輪廻のパターン化を狙い、統計学的要素で攻略すればいいというイメージで取り組んだら、「うまく行くグループを生成できた」と思う反面、「どうにもならないグループも発生してしまった」という残念なことが起きてしまい、「励まそうが、環境を良くしようが、劣等的なグループが発生する事実」が起きてしまうと解ると、「都合の良いものだけ見て生きよう!」という結論に辿り着いた現実があります。

統計学などで研究し、社会貢献や、人類に対する支援を人生を賭けて取り組んでいる人も「相手を思いやることが大切である」と説くようになります。

心の形成において、歴史を調べてみると「進歩が無い事実だけ」が確認出来ます。

昔から戦争ばかりですし、昔から親子の悩みは尽きないものですし、昔から夫婦の揉め事は絶えることがないものなのです。

Q,何故、争いが無くならないのか?

A,全ての人々が自分を模倣する分身の役割の存在である事実を認めたくないもので、「哀しみ」が最初の認知から過ちによって引き起こされている事実を直視出来ず、「はじめから間違えていました」と全く身に覚えの無い感覚を承諾するところから始めたときのみ、真実に気づくことが出来「哀しみ」は消え去り、「愛されていた事実」のみが残る発見が出来るようになるものです。それを「目覚め」と表現し、「眠っているから争うしか無くなっている夢見状態」だからである。

諸悪の根源は、「最初」から認知の間違いを引き起こしているところから、争いや抗うしかない人生が始まっているという残念な事実しかないのです。

「教育」という物事の全てが「肯定」と「否定」という『選択』がさも存在しているかのように教えている根源的なニュアンスが「哀しみを回避する方法論の獲得」です。その発想そのものが「マイナス感情・ネガティブ発想」である以上、それが「最初」の姿勢なら、「最後」には同じ「哀しみに帰結する」しか無くなる事実を認知したがらないのです。

五蘊(ごうん)というものが仏教の概念にあり、「色・受想行識」という単漢字五文字で表現出来るものがあります。

五蘊(ごうん)の意味、定義とは、「現象を統合して解説すると、最大単位としてこれ以上まとめ上げることが出来ないもののこと」「相対性における識別基準のことであり、フラクタル(相似形)要素が加味されており、分解して最小単位にすることも出来、全てが繋がり合って解説出来、『認知していない人に、認知を与えられるように使うもの』のこと」です。

色を認知させるには「 受想行識」を使うのです。
受を認知させるには「色 想行識」を使うのです。
想を認知させるには「色受 行識」を使うのです。
行を認知させるには「色受想 識」を使うのです。
識を認知させるには「色受想行 」を使うのです。

悟りに導くには「空」により「色受想行識」を使い、「無」に到らせることで「気づき」を起こさせて、「わかる」体験を与えるのです。

五蘊(ごうん)の全てを観察状態でなければならないのですが、どれも主体性でなければならなず、「空」でありながら主観性として、関わる相手の「色受想行識」の全部と共感出来ている精神性を宿している必要があります。

「識」のパートを紹介し、「対話」について解説していきます。

仏との対話においても、仏=「大いなる“わたし”」というものであり、とても抽象的なものですが、「小さい私」と「大いなるわたし」がいるというイメージでよいものです。

「小さい私(色)」は、さらに「自分(受)」「自分(想)」「自分(行)」「自分(識)」という「一つの小さい私」に、「四つの精神」という五蘊(ごうん)になっているとイメージするものです。

「大いなるわたし(空と無)」は、「大きいわたし(色受想行識)」+「一つの小さい私」に、「四つの精神」とで、対話していくものです。

何でも知っている全知の「大いなるわたし」は、何でも知っている故に、何も教えたりはせず、「阿(あ)」か「吽(うん)」しか答えてくれないものです。

小さい私が問いかける内容と、導き出した仮説が正しいなら「吽(うん)」と応答してくれるものです。

小さい私が問いかけても、その内容や、導き出す仮説が正しいもので無いなら「阿(あ〜)」と応答され、頷けないものです。首をかしげる感じになり、良い感触が得られないのです。

神との対話でも、仏との対話でも、基本、似たようなもので「全部自分が問いかけ、自分で答える、自分で頷けるもの」を見つけ出す作業です。

うっとうしいほどの確認作業で形成される認知の確認作業の果てに形成されるものが真理であり、悟りです。

1001体の千手観音立像があり、その全てに名前がついており、全ての仏の表情が違い、見れば見るほど個性を感じるようになり、仏像ごとに「思い浮かべる人が変わる」不思議な力があります。これも、一体一体向き合い、そこから想像されるイメージからもたらされるインスピレーションをつぶさに確認し、「無」に消えるまで問いかけ続ける手間暇をかけられる人が悟ります。

悟りとは膨大な好奇心を自己流で埋め合わせることに成功した人のことを指すものです。

その方法論が「仏像」の姿を借りて「意識の在り方」を伝えようとするものです。

それ故に、「仏像と自分を入れ替えて問答してみて」とアドバイスするのです。

相手を思いやるなら、相手の身になって考える必要があります。

仏の気持ちを思いやるなら、仏の身になって考える必要があります。

故に、入れ替えるイメージをすれば、自分に仏像を重ねてイメージし、仏像の方に自分の四つの精神体「受想行識」が重なっているイメージをし、その両方を同時に意識しながら、問答することが「対話」の基本です。

ただ「拝む」だけでは、自分の先入観や、自己解釈を強めるだけで、「仏」と対話したことになりません。ただ「仏」に言いつけてやった。ようなものです。

入れ替える方法をここで学んでも、ワークをやりたがらない人がいます。

「諭(さと)される」

という言葉のイメージを想像して「心地よい」と感じられる人は問題ありませんが、「うるせぇ」「それどころじゃない」「あっち行けよ」「関係ないだろ」「お節介なんだよ」「出来が悪いんだよ」「喧嘩売ってるのか」「偉そうに」「見下しやがって」「何様のつもりだ」「どうせ出来ねぇよ」「あーあ、悪うございましたね」「これでも精一杯なんだよ」「悟りたくなんか無いんだよ」といった脳内の雑念が邪魔して、ワークどころじゃない人もいるものです。

どれだけ、「為になった!」と思っても、寺に行ったとしても「やり方忘れた」や、「時間がなかった」などとなり、やらず仕舞いなのです。

Q,どうして有効なものを教わっても、それを次に繋げて使わなくなるのでしょうか?

A,人は助ける側に回るより、助けられる側を欲望という自我を優先させたくなる魔力に魅せられている為、愚図愚図になる姿を見せてしまうものです。この愚図愚図を自分が自分に魅せているのであり、自分の中で「大いなるわたし」を登場させ、直ちに救済に回ればよいのですが、いつも「次」という幻覚に敗れて「今」を見失うからです。「小さい声かけ」で気づき、要求に応えられれば済みます。現実には「大きい声かけ」でもしなければ気づいて貰えず、要求も渋々だったり、嫌嫌だったり、仕方なくやらされ感たっぷりでやる体験しか受けてないので、どうしても「怒鳴り声」でもなければ動いてくれない自分がいるのです。しかし、「怒鳴るほど動かなくなる」という問題に直面してしまい、「何も言わなくなる」為に、何の変化もしなくなるのです。結果、ワークを教えてくれた人がいるときだけ出来て、いなくなると出来なくなるのは、教えてくれた人と、教わった自分は別人として扱っているのが問題です。この記事を書くまさみちと、読んでいる自分が同一人物であると気づけると、どんな場面でも忘れること無く取り組めるようになるのです。

物事は「あの人は出来るけど、私には出来ない」という方が、自分の至らなさ加減を主張しているのです。正しく自分を裁き上げ、断罪出来てます! と、貶めてますと、対外に見せつけて褒めて欲しいのです。

自分を責め上げて、罰して、犠牲に潰しておけば、他人に潰されるよりマシだからです。

何がそんな風に、私たちの心を萎縮させてしまったのでしょうか?

それは、目上の人が恐いからです。

親や先生や先輩など、「物事を知っている人」が恐くなった記憶に縛られているからです。

意識は、転生しても「末那識(まなしき)」「阿頼耶識(あらやしき)」「阿摩羅識(あまらしき)」「乾栗陀耶識(けんりつだやしき)」は、継承されてしまい、継続の人生として生まれ変わります。

続きです。

それでも、真新しくも学び直せる領域が「眼識(がんしき)」「耳識(じしき)」「鼻識(びしき)」「舌識(ぜっしき)」「身識(みしき)」「意識(いしき)」は、新たな記憶庫として機能して、教わることが出来ます。

転生した新しい環境が、愛に恵まれているほど、「辛くなる出来事が多くなる」ものです。「泣ける状態」というのは、そこが「安全地帯であり、平和である」自覚があるから、「泣く」のです。絶体絶命の状態は「必死になるしかない」為、安全を確保することだけに専念するものです。

とはいえ、辛いことは辛いものですし、泣いている状態であるなら、笑える状態に改めたいものの筈です。安全地帯と諭されたところで、信じられるものでもなければ、有効な改善手かがりでもありません。

「こうすると良いよ」

という成功者の体験や、名言集などいくら寄せ集めても「成功者」になれない問題があるのです。

教師と導師の違いがあり、教師は「こうすると良い」と教えますが、導師は「こうするとこうなる。あれするとああなる。このようにしたらこんな風になる。あれとこれとそれをまぜこぜでやるとこうなってしまう。それ以外の道もあるのか、好きにやってみなさい」と伝えます。

優れた人と触れ合ったことが無い為、どうしていいかわからず、「泣く」しかなくなる問題があるのです。親を見て、師を見て、大人たちを見て育って「今がある」のですが、人類史が「最初」から間違っているオチなど知らされても「困る以外ない」ものです。

それでも、この置かれた今の自分から取り組むしかなく、この「小さい私」の未熟な所や、無知なところを知っているのは、やはりこの「小さい私」しかいないのです。困っているなら、困っていない所を知っていなければ「悩み」にならないものです。解消先があると気づいていなければ「辛い」にもなりません。

物事は相対的です。「幸せ状態」と比較して、「今が辛い」と認識出来るので、「幸せ状態」を「今が幸せ」に無条件に変革してみせる『意識』を使うところから、「仏との対話」は生まれます。

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「識」は「記憶」とも表現出来る「情報群の総称」です。

心はプログラムのようなもので、プログラムに従って生きているものですから、プログラムがエラーがあれば動かなくなるものです。再プログラムすれば動くようになるものなので、情報をの源を改めれば治ります。

しかし、人は「最初」から間違っていたと認めて「哀しみを消し去り」→「歓喜で生きる」という簡単な道を歩もうとせず、「最初」はそのままにして、二番目以降や、三番目以降のプログラムを修正しようとして抜本的な改善に到らない問題から抜け出せないのです。

Q,どうして、科学文明が発達した現代においても「最初」から間違えていたと認められない意識の低さを教えてください。

A,神仏が役に立たない歴史を積み上げてきたからです。人は優秀で出来ている所を認めるよりも、出来ていない所を見つけ出し,吊し上げ、低能扱いすることで安心してきた為、困り切ったからといって自分の生い立ちや、転生の歴史を否定出来ないからです。見たもの、感じたものを信じている執着状態にも関わらず、その認知の歪みを正常だと解釈する執着がある為、自己認識が出来ない魔羅(マーラー)に取り憑かれている状態であり、機能不全に陥っているのです。特に「屈服」や「無条件降伏」など、「愛で支配される」状態などが「恐ろしいイメージがある」為、自ら勇気を持って恐怖に飛び込むことが出来ない限り、無理な問題だからです。悪党や詐欺師のような人にも純粋な心があると信じて疑わず、無条件に信頼する意識まで高めると宣言する意欲が欠落しているからです。

「そこまでする必要あるの?」といった認識が、問題を先送りにしてしまい「今」から逃避してしまい、無限ループの波に呑み込まれて、「大いなるわたし」を見失うのです。

「一人を信じる」か「みんなを信じるか」

この選択を示されたとき、「空」の「大いなるわたし」のみ信じると意識を改められると世界は変わります。

だんだんと出来るようになるというのは間違いです。

「最初」から間違えてきた歴史と伝えているので、「最初から出来ている!」と「今」この瞬間に切り替えられた人の心は「出来ている!」現実を創造して行き、世界が変わり始めるのです。

また、次の瞬間の「今」が来るので、その時「最初から出来ている!」とするだけで、全改訂が可能になるのです。

変革は今起こせるのです!!

「最初から、悟っているとしたら?」

としてしまうと、今現状の自分が「手抜き過ぎるほど、手を抜きまくった生き方」をしている筈です。

「こんなものじゃない!」

が、本来の状態の筈ですが、「あいつが私をこんな風にしたんだ!」と嘆いて、「いかにあいつが酷い奴かを世に知らしめる為に、人生をかけて自分がズタボロになっている姿を示し続ける! 作戦決行中」というのは、そろそろ止めませんか? と声をかけておきます。

「誰も幸せにならないことはしなくていい」

と教えておきます。

嘲笑うのは、マイナス感情・ネガティブ発想なので、「幸せ」ではなく「不幸にしかならない笑い方」です。

自分や誰かを貶めて「笑っている人」など、本質で言うなら存在しないのです。

訂正されることのない人生も、哀しいものです。

被害者として立ち振る舞うことに全力を投じることも、哀しいものです。

エゴはメリットしか働かないものなので、デメリットしか存在しないと気づくと消えてなくなります。

千手観音坐像の目線を借りて、自分の人生を振り返ってみて「メリットだと決めてかかり、その全てがデメリットでしかない事実」を発見しようとしてみるといいのです。

Q,我が子が言うことを聞かずに暴れるのはなぜですか?

エゴのメリット
A,「親を困らせて笑えるから暴れる(受)」、「親の未熟さを笑う為に暴れる(想)」、「親の思い通りはさせぬと笑ってやるから暴れてやる(行)」、「親に仕返しをしてやる為に笑えるから暴れてやった(識)」と思い込んでいるから。

エゴのデメリット
A,「親を助けに来て、子に従えば救われるのに親が絶対嫌と駄々をこねるから暴れる(受)」、「親自身がかつてされて嫌だったことを自分もやられてこんなに暴れたでしょ? だから今、やり方を閃いて変えたら変わると伝えたくて暴れてしまっている(想)」、「親の世界に言いなりにさせることで喜べていない親自身の真心を伝えたくて暴れている(行)」、「子が暴れるほど哀しんでいる事実を直視して、その哀しみを親である自身が受け止めてあげないと拒絶しているのが辛くてたまらないから暴れている(識)」と、誤解しているから。

エゴは、短絡的であり、被害妄想好きです。敵がいると信じて疑わず、自分の感じ方、見え方、自分自身を信じる傲慢さに溺れている自覚がなく、人のせいにしていることさえ認識出来ない無知さの塊です。

このエゴの盲目さを見抜いて、サポートしてやる発想が「最初」からなければ、仏との対話など機能しないものです。

「仏との対話」は、うまく行くから楽しいのです。問題が解けないなら楽しくないので、投げ出してしまいます。

楽しくする為には、自分の小ささを微笑んで見てあげる優しさを自分に向けてあげることです。

すると、真剣に「哀しくなれる」のです。

仏との対話で必要なのは、事実を受け入れるだけです。

「哀しい」ではなく、「哀しかった」と体感した後にしてしまえるには、既に「歓喜」という嬉しい境地に辿り着いている発想から取り組むことです。

それが道です。

ワークを教えます。

千手観音坐像と自分が背中合わせになります。背中がくっついている密着感があります。でかい千手観音坐像の背中を背中で感じながら、日常を意識してみながら「何をやっているんだろう」と、誰に言うわけでもない「空っぽ」のイメージで吐き出してみます。その時、背中を通して千手観音坐像が何かイメージするかをキャッチします。わからなければ、何度も「何をやっているんだろう」とつぶやきます。大抵は、ツッコミが還ってくるので、滅多くそにツッコまれてください。終わるまで、ツッコまれることです。「最初」の過ちまで辿り着けると楽になります。

レベルを上げたいなら、三十三間堂の1000体の千手観音立像も一緒にイメージします。1001体目は、千手観音坐像の裏にまさに背中合わせに立っていますので、それが自身の姿と重ねます。1体の自分と、1000体の立像と、背中合わせの坐像が背中を通して、繋がり対話しているイメージをして「何をやっているんだろう」とつぶやいては、ハイレベルのツッコミをもらってください。色々な反応が自分から出てくるかと思います。

せっかくある仏像のメカニズムなのですから、有効活用してください。

悟っている人からの解説がつくと、どの仏像にも命が宿ります。

ワークに価値を感じましたら、背中合わせを通して千手観音坐像に「いくら払って応援するのがいいですか?」と問うて、閃いた金額をサポート代金として贈ってくださると助かります。

歓喜という嬉しさは、愛のパワーに直結して、生活を豊かにしてくれます。

哀しみは否定して頑張るものではなく、ひたすら受容して溶かして愛に還していくものです。哀しみはあるものです。本当に安全地帯に辿り着いたなら、泣いて楽に戻れます。自分を泣かしてあげられる私でいてください。

愛の道がここからはじまります。

いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。


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