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想像力が世界を変える 馬頭観音

リーディングマスター・まさみちです。見聞きした世界観と、実際に体感した世界観とでは、認識が随分と変わるものです。リーディングという読み解く力に触れてからというもの、それが思考力の延長にあるものでありつつも、より小さい主観と、より大きな主観とが同時に存在しているものだとわかるようになりました。仏像においてもそれが作られた経緯や、伝えようとしているものを読み解くことで物事の本質に触れられるようになりました。(80/88)

四国八十八カ所巡礼の旅を皮切りに、仏教絡みの記事を書いています。

寺が持つ意味や、仏が伝えようとしているものなど、仏教が伝えようとするものとは何か? と考えると、以前は「道徳を伝えるもの」くらいに解釈していましたが、今は「悟っていると気づかせるもの」という解釈に変わりました。

仏が人であり、人の良心が仏性であるなら、仏性そのものとなり振る舞えるようになればいいってことだと感じており、その仏性というもので「生きる姿」というものを具現化している状態を表現しているものが『仏像』というものになります。

故に、祈るものでも、拝むものでもなく、「対話するもの」と位置づける方が理解する上では早いものの、様々な哲学者や関心高い学者の言うことに耳を傾けても『仏性』そのもので表現しているとは感じられないのは、人と人との間にあるエゴを尊重しているとわかり、その脅威に「恐れ」を抱いているに他ならないと解るものです。

わたしは宗教をしたいとも思わず、仏教について書いているものの、仏教を勧めているつもりもありません。宗教徒になると、どうやらその教えに束縛されてしまい、その教えを基準にして物事を考えている情報リテラシー(活用する能力のこと)の低さ、無さのように見えてならないのです。

このように「情報リテラシー(活用する能力)の低さがある」と表現し、畜生道の救済に当たるのが馬頭観音であります。宗教など特定のジャンルに入ることの方が「情報リテラシー(活用する能力)の弱者や程度の低さ」に埋没しまうことを指すのです。「馬の頭」について考える必要があり、情報が偏るのは危険だと教えるものですが、愛するが故に「いいこと」しか教えなかったり、「安全な所だけ」で関わらせたりするには、結果的に「畜生=家畜のような知識の乏しい生き方」に直結してしまう恐れがあるということです。

地獄道 - 聖観音 
餓鬼道 - 千手観音
畜生道 - 馬頭観音
修羅道 - 十一面観音
人道 - 准胝観音
天道 - 如意輪観音

与えられた知恵知識だけで、生きている状態のことを「情報リテラシー(活用する能力)の弱者や程度の低さ」を指すもので畜生道を学ぶ人には知っておいて欲しいものです。閃きのない世界は貧しく偏るのです。

実に畜生道という畜生界に迷い込んでいる六道輪廻に閉じ込められている概念形態の人の心というのは、「習ってきたそのものを疑え!」という感性を磨き上げるかによります。

六道輪廻と表現される理由は、無限ループの罠がここにあり、あまり広大なループである為、転生を股にかけて主観する阿摩羅識(あまらしき)などの視座の高さが必要になるものです。

地獄界で、「人が信じられない」とした生き方をして、「自分を信じる」道を貫いている人が転生すると……。

畜生界で、「会社の奴隷だ、社畜だ、もっと良い仕事がしたい」とした生き方をして、「自分磨きをしたい」道を貫いている人が転生すると……。

修羅界で、「資格を取ったけれど自信が持てない……,他の資格も取ろう……」と、際限のない努力を重ね、それが私らしいと自分を言い聞かせ、もっと別の生き方があったはずと、「何ものにも染まらないオンリーワンの生き方」道を突き詰めようとする人が転生すると……。

天界で、「親に逆らえなくて、萎縮してしまい、人生はこういうものだ」と妥協することが当たり前になり、無理して対立するより流れに従って割り切る方が有効的だと解釈する人が、「心の中だけは夢を見ていたいと趣味に没頭する」道をひたむきに走っている人が転生すると……。

餓鬼界で、「欲しいものが多すぎて決められず、貧しい中でやりくりするもの」と言い聞かせと、割り切りと、殺伐とした喧噪の中で切実な気持ちを抱いて頑張る人が「人並みに生きたい」道を歩み出して打算しか持たない人が転生すると……。

人界で、「良くも悪くも自分次第と感じるしかなく、努力すれば報われるはず」と頑張り抜く世界を生き抜いていくこととなります。それでもふと気づくと、「足を引っ張る地獄界の人に苦しめられ」、「足下を見られる餓鬼界の人に嫌がらせを受け」、「足並みを揃えようとしてくれない畜生界の人に惑わされ」、「足を引っかけられては転落するしかない修羅界の人にあざ笑われ」、「足をすくわれて全てを持って行かれてしまう天界の人に騙されて」、気持ちを切り替えて「地獄界の人と手を組み楽しく遊び」、「餓鬼界の人と手を取り許して学び」、「畜生界の人と手を合わせて意気投合して窮地を乗り越え」、「修羅界の人と手を繋いで諍いをやめて笑い合い」、「天界の人に手を貸して喜んでもらい」、その悲喜交々となる中でも、「許せないものは許せないと正義感に呑まれ、人を裁く」道をみんなに伝えて悪人が存在すると指を差す生き方を少しでもすると地獄界に墜ちてやり直します。

これが六道輪廻の要約であり、人がついついやってしまう「だって人間だもの」と言いながら、他者を正義心で裁く鬼と化し、人界以外の五界を自分ルールに従い裁いたりしてしまうのです。

この自分ルールを盲信して,「否定すれば伝わる」ことを信じて疑わない教育された情報そのものに、疑問を抱かない人のことを「家畜」のようだ「否定する痛みを与え覚えさせること」が普通だと解釈してしまう為、「畜生界に閉ざされる」ことなってしまうのです。

では、馬頭観音はどういったことを導き、救済に関わってくれる仏性なのかお伝えします。

動物の馬は賢く、物事をよく見て友人のように付き合うようにするほど良好なコミュニケーションが持て、信頼によって乗馬などが可能になる生き物です。

「まるで人の心がわかるようだ」

と、表現されるほど、馬は人をよく観察しており、気に入らないと乗せない気位の高い馬もいますし、どの人でも背に乗せる大人しい馬もいます。

人からすると、誰でも乗せる大人しい馬が扱いやすくていいと感じるかも知れませんが、パートナーや家族だと、「誰にでも手を引かれたらついて行ってしまう自分というものがないタイプ……」だと、何とも寂しい感覚が来ます。

気位が高い馬は、背に乗せるパートナーが信頼に値する人かどうか納得行くまで確かめて、気分が害されるなら振り落とすくらいの感覚がある方が、相性が合う相手が見つかった時の良好な関係性は素晴らしいものが出てくるものです。

人を馬に例えるというのは、人を仏に例えるのと変わりないものです。

擬人化は、マンガやアニメの世界でも普通にあり、想像力をかき立ててくれるものです。仏への想像力のたくましさが、普段の言動を「仏ならこう言うだろう」と、自分の気持ちを使わずに表現するようになると、うまく事が進むことがあります。

「馬の頭だったらこんなこと思うだろう」と、想像力を変えてみることで、思いがけないビジョンが想像されることがあるので、馬頭観音という仏性があるのです。

犬の気持ち、猫の気持ちなど、ペットであるなら当たり前に思うかも知れませんが、『馬』の場合は色々と違う感性が働くようです。

馬は人を乗せて移動出来ます。

馬と人との信頼関係がとても重要になります。

馬を自分だと仮説して、馬に成りきってみます。

背に乗せるパートナーを、家族の父親であったり、母親であることをイメージした時、父親や母親が、自分という馬をどのようなイメージで扱っているのかを想像するのです。

このビジョンは強烈です。

大事に扱われている感性が強ければ、背に乗せても労りや慈しみなど、愛情をイメージ出来るかも知れませんが、普段の関わりにおいてコミュニケーションが正常な感覚がないと、馬への仕打ちとして想像されてしまうことがあります。

夫婦や、親友や、仲間や、この間一度だけ会った名前も知らない人など、その人を背中に乗せた時、自分という馬がどう扱われているのかイメージして確かめてください。

それが「あなた自身が、そのように扱われたい願望」だとするなら? 中々、切ないものです。良いイメージなら何も悩まずに済みますが、悪いイメージなら改めなければ成りません。

ワークを教えます。

馬頭観音と自分が重なり、馬化したイメージを持ちます。
馬の背に気にかかる人を乗せるイメージします。
乗せる人と、馬の自分との情報の偏りを感じます。
そのズレがありつつも、それが無くなったことをイメージします。
関係性が改善しきったイメージです。
情報の偏りのズレがあり、それを補えたことを「知らせてくれてありがとう」と、感謝します。
乗せた相手が感謝してくるイメージをした時、情報の欠落が補われます。
何が偏りとして持っていたかの悩みが解消されます。

これは、相手を馬にして、その背に自分が乗っていることをイメージすると、乗せてくれた相手の馬の姿がどのようなイメージかで自分が丁寧に扱っているのか、粗雑に扱っているのか解ります。

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馬頭観音は、「知識の有無に関わらず、気に入らなければその場から飛び出して行く」ことを示しています。「今が気に入らないなら、ここ以外の方が心地よいに違いない」と、立ち止まらない仏性のことです。

馬であるなら、移動することに抵抗する発想はないものです。

これは本来は人も同じ事で、移動することに抵抗する発想は本質的には存在し得ないものです。気持ちよければ留まるものですし、そうでなければ移動するのです。

馬でないなら、自転車でも、バイクでも、車でも考えてみると、移動することに対する抵抗感は下がります。徒歩になると抵抗感が増します。それほど、人は移動は好きでも、徒歩による移動は「馬」や「自動車」という手段を手に入れると、その利便性の良さから手放したくない執着する対象になるのです。

ワークその2

馬頭観音と自分が同化した上で馬になるイメージを持ちます。
もう一人、自分を分身させ、それを馬の背に乗せます。
「馬頭観音+自分が馬化」と「自分が乗馬」になり、未来を予測します。
このまま仕事を3年続けるとどういう怪我や病気が馬に現れるか? 
このプロジェクトを推進していくとその先どんな困難が乗馬する馬と自分に困難が訪れるのか? 
そういう未来を続けてみていき、困難に直面した馬と自分はどのような展開を想像していくかを見続けていきます。
「最高な結果に辿り着きました」
と3年後をイメージして宣言すると、何が思い浮かぶか見て行きます。
良好な状態になるまでその後の展開を見て行きます。

これは、乗馬にパートナーや、同居する両親、子どもや、友人などで未来図を見に行こうとして「うまく行きました!」と宣言すると、隠していた不安や問題が浮上して見えてくるものです。
その問題を見た後に、そのまま続けてみていくことで改善していく過程をつぶさに見ていくこととなり最後まで見終えると、問題が解決されるものです。
この最後まで見続ける手間暇が重要なポイントです。

諦めないことがポイントになります。

畜生道という、一見マシな状況や環境に落ち着くと、変化することよりも安定することを求めるようになります。想定された範囲で落ち着こうとする安定思考が働くものですが、その発想はより危機を招き入れ混乱して抜け出せない負の連鎖を招き入れることになります。知らない内に飼い慣らされて心が死んでいくものです。

馬頭観音は見ての通り、結構いかつい形相です。

馬にもそれ相応の扱いをしなければ、それ相応の報いがあることを物語っていると表現しても良いものです。

ワークその3

馬頭観音と自分が同化します。
馬に成るイメージをして、その眼差しを通して、見たい人を眺め見たとき、どんな姿を目撃できるか観察してみます。
親や、パートナーや、子や、友人など、牧場にでも遊びに来ているのを、馬になった自分がその姿を見ているイメージです。
その姿を見て元気がない場合や、疲れているなら、馬の背に乗るように誘って、「癒やされる場所を駆け巡る」
とイメージして連れて回ってあげてください。ヒーリングになります。
元気ではしゃいでいる姿を見るなら、その姿を眺め見て、自分が癒やされてください。
ヒーリングになります。

見えなかった愛の繋がりが見えてくると思います。

馬頭観音の仏性は「どこまでも付き添う思いやり」として現れるものです。

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こんな形相で添い遂げられる仏性だとちびりそうですけどね。

このような忿怒の姿は、関わり方の全てが間違っていることを告げているものです。人を家畜のように扱ってはならないことを告げているのです。

人を、同じような扱い、同じように教え、同じように関わるには、同じような基準となる教えに従うしかなくなります。

そんな経典や聖書のようなもので学んで、霊性を高め、仏性を顕現している人を、今の日本で存在を感知出来ないのです。

それ故、末法の時代であり、人が人を同じ教育理論で押さえつけてしまっている故に、偏った価値観に染まり上がり、柔軟性を失っているともいえるものです。

悟っていない人が、悟っていない人と対話しても、対立構造しか生み出さないものです。目安となる知恵知識の情報元が偏っている為、どうにもならないジレンマがあるのです。

それ故、仏教は「まず悟れ」……話はそれからだ。

という雰囲気があるのですが、「話」にならないので、それ以前の段階で停滞しているようなものです。

人と人とが解り合うには、「悟る」ことからでなければ、関われない人たちもたくさんいるのです。故に、私は師となるような人はおらず、「天の導き」が師になり、それを敢えて言うなら「神」や「仏」と言うしかないものです。

このように「馬をイメージする」ことで、その関わりや、触れ合いをイメージした時、人には見せない優しさを馬になら見せる心があるなら、そちらの方が本質であり、人に見せられない優しさは心が病んでそのようになっているに過ぎないというのが解れば、病んでいる部分を治せる道は、優しさを示した馬との触れ合いに答えがあるものです。それを馬から習う気持ちがあれば良いのです。

それが「牛」であることもあれば「鹿」であることもあれば「鯨」であることもあるとするものです。

上記のワークを「牛」「鹿」「鯨」に置き換えて取り組んでみると、不思議なイメージと繋がるかも知れません。常に治し方を馬頭観音は知っているので、「病んでいる」なら「健康になりました」とイメージすれば治る過程を見せてくれるものです。「喧嘩ばかりしている」なら「笑い合えています」と結末をイメージ重ねればそれに到る姿を見せて「気づき」を与えてくれるものです。

馬頭観音のあの形相が、優しそうな馬の心に秘めた仏性だとするなら、どれだけ気を遣って大人しくしているのだろうか? 何か切実に怒らないと伝わらないものを抱えているのだろうか? と、見知らぬ何かがあるのではないかと考える余裕が生まれるものです。

同じように自分も忿怒の形相をひた隠しに隠して、大人しそうな馬の瞳で世界を見ているとしたら? 本当に耐えてここに居残らなければならないのか? 馬頭観音の力を秘めていたら、どこまででも遠くに行ける力があるなら、解放した先々を「到達しました」と宣言してみせると、その見失っていた道を与えてくれるものです。

六道輪廻を越えて行きましょう。

ここから、今からです。

私は弱さを耐え抜く力を秘めた強き人です。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。


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