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天照大御神の眼からは何が見える?

リーディングマスター・まさみちです。目には見えないけれど、そこには存在していて識別の仕方もあれば、それらと繋がり必要なメッセージを降ろして智慧をもたらす事も出来る「不思議なこと」もわかる人です。

 伊勢参り✨ 1/21〜22、2/18〜19の二回に分けての三本の柱立てワーク、無事に終わりました✨✨
 時間が随分と空きましたが、感想を書いてみたいと思います。

三本の柱を立てる

 そのような触れ込みで、伊勢参りを企画しました!
 三本の柱というのは月読命(つくよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)のことです。

 この表現だけで集客して、そしてみんな来てくださる!!
 しかも三貴子(月読、素戔嗚、天照)などの表記もせず!!
 謎過ぎのワークです。

「何するの?」
 って思いますよね。

伊弉冉(いざなみ)の復活が目標

 目的!
 自分の心の中にある「亡くした伊奘冉(いざなみ)」を復活させること!!
 その為に、半身を亡くした伊弉諾(いざなぎ)が三貴子である月読命と素戔嗚尊と天照大御神を生み出したのです。
 三貴子の力を合わせると亡くしてしまった伊奘冉(いざなみ)を黄泉還らせる道が開かれるからです!!
 その黄泉還りの道を開く『能力を高めるワーク』として三つの柱を心の中に立てに来ました。

 説明してみたけれど、もっと謎になったかも?

 そもそも「亡くした伊弉冉(いざなみ)」って何?
 どんな比喩表現なの?
 そう、古事記、日本書紀に書いてあるエピソードは物語を追うようなものじゃない。追いかけてもいいけど、その本質は自分の心を扱い方を整え直す道なんです。

 単純に言えば、『人とのコミュニケーションがうまくいかない時、何が起きているのか知らせること』が古事記や日本書紀に描かれてます。←ホンマに?

 もちろん独断と偏見とリーディングした上での解釈なので持論でしかありません。←だよね
 信じる、信じないは「受け取る側」の主体性で決めていただければよいです。←そう言うしかないよね

その「人とのミスコミュニケーションを正すワークの基礎伝授」をしてきました。

「伊弉冉(いざなみ)」って何?

 夫婦神で知られる「伊弉諾(いざなぎ)」「伊弉冉(いざなみ)」は、色んな捉え方があります(伊邪那岐、伊邪那美って漢字も書きますが、この表現は黄泉の国の人向けの漢字表記なのですよ。なので高天原表記にします)。
 今回のワークにおいては「伊弉諾(いざなぎ)=わたし」で、「伊弉冉(いざなみ)=あなた」という解釈を頭に叩き込んでください。

 人とのコミュニケーションは「わたし」と「あなた」との間におけるものです。
ここでミスコミュニケーションが生まれると何もかも台無しになるようなことになります。

 夫婦の仲、親子の仲、友人との関わり、上司や部下との繋がりにおいて、「わたしとあなた」との間が噛み合わなくなると、コミュニケーションが成立しなくなることを「伊奘冉(いざなみ)を亡くした」と扱うものです。

 面倒くさい表現!
 はい、そうです。
 抽象的表現の塊であるラベリング(名前付け)は、認知がし難いほど様々な要素がぶっ込まれていて解釈を深めることが困難なのです。

ミスコミュニケーションとは

「そんな風に言ってない」
「勝手に決めつけないで」
「そういう話は聞きたくない」
「何度も言わせるな」

 など、言い争いになる時など幾らでもあります。
 思い返せばどの場面でも、楽しくなると問題勃発するなんてよくありませんか?
 出かけるときはルンルンだけれど、途中から喧嘩モードになり、帰り道は誰も口を聴かない状態という体験ありませんか?
 それらどれもが「亡くした伊弉冉(いざなみ)」を抱えていることとなり、誰もその蘇(黄泉還え)らせ方を知らないのです。

 伊弉冉(いざなみ)が不在だと、「機嫌が直らない、不安が拭えない、優しくしてあげられない、一緒にいたくない」など人との関わりが持てなくなります。

 不登校や働けない人たちなど「引きこもり」から抜け出し方がわからない。
というのも「あなた」の部分がどうにもならない燻っているような状態に陥っているのです。
 周りがどれだけ好意的な言葉を投げかけても「動けない」しかなく、遊べたり消費することは出来でも生産的なことや労働といったものは全くダメになることも「亡くした伊弉冉(いざなみ)」と表現しています。

 見える他人との問題なら、悩みとして明確化でき、コミュニケーションを取ればどうにかなるものもあります。
 だから、心の悩みをお金を払ってまで心療内科やカウンセリングを受けるまでもないと、心についてあれこれ指図されたり、主体性を失いかねない体験になるようなことを毛嫌いする人たちもいます。

「わたしは大丈夫」と言ってしまう人たちです。
 でも、「わたしとあなた」という関係性は、他人から見れば他人が「わたし」であり、自分が「あなた」となる為、自分の中にある「あなた」が見えないと困るばかりです。
 自分の中でもどうすることも出来ない他人が起因する「不快感」は、相手のせいにしたいものです。しかし、相手が「わたし」であると、不快感を引き起こしている自分は「あなた」となり、「亡くした伊弉冉(いざなみ)」自身であり、黄泉に墜ちていることになるのです。
 全然「大丈夫じゃない!」のです。

自分の中にある「亡くした伊弉冉(いざなみ)」とは

 他人から見れば自分は「あなた」と呼ばれる対象者です。
だから自分が「心を亡くしている」とは中々信じられないものですし、「わたしは大丈夫」だと言い張ってしまうけれど、他人からは「大丈夫? 大丈夫に見えないのだけれど?」と言われてしまう難題を抱えていることが「わたし」には見えず、相手からしか見える見え方を信じる以外ありません。

 これが厄介なもので、家族や他人から指摘されることほど嫌なことはありません。
「人を変えようとするな!」
 と、反発してしまいます。
 相手からして見れば、大切なあなたを「怒らせたくないし、哀しませたくない」ものです。
 それ故に、かける言葉を無くします。
 すると、自分の中に何か別のサインで「亡くした伊弉冉(いざなみ)」の存在に気づくようサインが届きます。

 それは自分にしか解らない「腰痛」「偏頭痛」「関節の痛み」「しんどさ」などで伝えてくれます。

 病など、身体的な不調は「亡くした伊弉冉(いざなみ)」を亡くしたままにしているからであり、蘇らせる道があるにも関わらず「黄泉の国に言っても醜女(しこめ)に会ってしまい逃げ帰ってしまうから無理」と「わたしである伊弉諾(いざなぎ)」は、自分の中にいる「あなたである伊弉冉(いざなみ)」は死んだものとして扱い、「亡くなった者は還らん」と割り切って生きているのです。

 自分と肉体とのコミュニケーションが成立していないから、「腰痛」など様々な痛みでサインを届けるものの、心の中にある黄泉の国など行ける筈もなく、痛みに堪えて「腰痛の方がマシ」として生きているのです。
 だって、「亡くした伊弉冉(いざなみ)」はおっかないからです。

伊弉冉(いざなみ)の醜女(しこめ)とは

 醜女(しこめ)を簡単に表現するなら『人のせい』にする心です。
 主体性を持たない心です。
 「だって先生が言ってたもん」とか「お父さんが言っていたから」という価値観の根底が誰々の教えに従えばその人のせいにして責任逃れを続けられると信じる心の働きを「醜女(しこめ)」と表現しているのです。
 文句とか不満とかでもよいです。
 これらは「振り返る」ことで発生します。
「あなたが言ったからここまで来たのに」
「あなたが言ったから買ってあげたとのに」
「あなたがやりたいと言うからやらせてあげたのに」
「あなたのことしか考えていないのよ」
 と、
 そうした人との関係性や、自分同士の関係性において「失った(亡くした)何か」があると、ミスコミュニケーションになります。

 そこからの回復のを届ける為のワークをして来ました✨✨✨

 四日間ともそれぞれ違った内容の濃い展開となり、「導く」ことの不思議さを体験しております。
 一人一人、グループ単位でも関わり方や伝え方が全部違います。
 その時、その場、その繋がり、その眼差しに対して三本の柱を立てて行くのです。

相手(あなた)に映し出される自分の鏡を見つめる力

 心の回復の力をどのように持たせてあげられるか?
 その回復に至らせる方法論をどのように体感出来るか?
 会得しなければならないものをどう誘導してあげられるか?

 取り組む前に、前提となる心構えに「曇り」が生まれている限り、気持ちが「晴れる」ことはありません。

 月読命(つくよみのみこと)とは、何なの?
 素戔嗚尊(すさのおのみこと)とは、一体全体何を比喩する抽象表現なの?
 天照大御神(あまてらすおおみかみ)とは、拝む対象、奉る対象ではないの?

 そもそも日本の「神さま」って何のこと?

 などなど、三本の柱を立てること、三貴子と呼ばれる伊弉諾(いざなぎ)から生まれた神々の力を有効的に機能させる準備するワークというものも何となく「そうなのね」ってくらいには受け入れることも出来たけど、ぶっちゃけこの説明でも「何も解りません」って状態なのは変わらないかと思います。

神さまって何なの?

 一体全体、神道における「神」の位置づけってどんな風に解釈したらいいの?
そんな風に考えたことはありませんか?
 古事記・日本書紀における神々のお話しも、ギリシャ神話や北欧神話における神さまも「人間ぽい」ところが多分にあり、それでもなんか凄そうだという所もあるけど、ぶっちゃけ「それで何したらいいの?」とか思うわけです。

 伊勢神宮に奉られている「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」とかの柱を立てるって意味不明過ぎるし、コミュニケーション回復など方向性は見えてきたけど現実問題として何がどう変わるものなの? とした思いに至るものです。

 「神」さまって『光の形』と表現出来るものです。
 「光の形」って「様々な色」に分解して捉えることが出来るものとした解釈が含まれていると想像そて欲しいのです。
 あらゆる領域や状況など、少なくとも認識しているのは「わたし」自身しかいないのであり、他人の見て感じている世界は他人のその人(あなた)しか解らないものです。
 同じものを共有出来た時、あなたの認識もわたしの認識に広がり共通の認識になります。この共通認識の状態はコミュニケーションが成立するものです。

 この「様々な色」の捉え方が「伊弉冉(いざなみ)」と「伊弉諾(いざなぎ)」は元々共通認識の状態の「光の形(謎)」を共有していたものの、ある時「火之迦具土神(ひのかぐちのかみ)←これ何?」が産まれたときに伊弉冉(いざなみ)」は死んだとされます。それらの物事の「始まり」から何が起きて、どのように至ったのか「終わり」もあり、それら全ての物事を全部「知っている存在のこと」を神という表現で抽象的にまとめ上げているものです。

 なぜ神社、神宮にて拝むのかといえば、「色んないきさつの始まりから終わりまで知っているなら、今、私は何に気づいてどのようにたち振る舞えばいいのか?」といった日常生活における躓(つまづ)きや悩みごとなどを聴く相手が神だからです。

 ただ拝殿には「鏡」が置かれているのがあるように「自分を見なさい」とばかりに鏡に映し出される自分の姿を見ながら、日常生活における悩み事を言葉にして相談しようとすると、様々なことに気づきやすくなる働きかけがあるのです。

 その鏡との対話の方法、「光の形」としたニュアンスで解説する奥深さが色々とある訳です。

天照大御神って?

 伊勢神宮の内宮に奉られている「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」というものをどう扱えば「自分と対話」して未知なる閃きなどが降ろせるようになるのか?

 そんなことを伊勢参拝イベントでは行いました。

 初回もどのグループも外宮も内宮も入り口のブロック外しで、さまざまな意識の抵抗を取り除くことを行いました。

 鳥居をくぐれないのですよ。

鳥居って?

 真実を明らかにしたくない者は入ってはならないなんですよね。
 嘘(死の穢れ)を持ち込みたい人も拒まれます(争い事を神に祈願して勝利を手にしたい者)。
 変化を拒む者なども、鳥居をくぐらせない力が働きます。

 そんな訳で、私も伊勢神宮参拝にて鳥居の前で足止め食らうのも初めてで、浸らす許可が得られる所まで整えて行きます。

 目的は三本の柱という「月読命」「素戔嗚尊」「天照大御神」と繋がる氣を通すものなので、そこに付随する不必要な否定的想念を取り除いてきます。

 自分と向き合う鏡を一通り修復した一枚は用意するものです。 

天皇が治める国から民が民を治める国へ

 そもそもなぜ、ここに天照大御神さまが祀られるようになったのか?
 第10代崇神天皇の時代に何が起きていたのか?
 その縁の始まりと終わりを見るような伊勢イベントとなりました。
 あまり詳しく話せなかったので要約して霊的な側面をお伝えします。

 第十代、崇神(すじん)天皇の代で、疫病が流行り人口の半分が亡くなったとされているのです。それはもう一大事です。

 どうにか疫病を終わらせる為に、宮中から天照大御神さまが外で祀られる流れに変わったのです。天皇が国民の負を取り扱う世界は限界を迎えていました。
 

この記事にも伊勢イベント参加者には多大な関与があったのでまとめたのです。

 疫病を簡単に表現すると、「死の穢れを忌み嫌い過ぎた結果、死を招き入れた」ことになった現象化でした。
 神道は「死」を忌み嫌います。
 不浄なもの、腐敗するものなど、清らかであることが大事にすることはいいのですが、それによりカルマを生むと本末転倒です。
 浄化して祓い清めて清浄さを保つ神道が、疫病に見舞われ為す術を無くすのです。

 もう大問題です。

 簡単に比喩表現で言うなら、名だたる中央病院の医者も看護師も病人も健常者も疫病にかかってしまう大クラスター発生です。しかも、公家など政治家たちもみんな「死にまくる世界」が来たのです。

 パニックもパニック!

 それを治めに関わった人たち等が今回の4回の伊勢イベントの参加者と重なるのです。

 縁の始まりが崇神天皇からです(みんな当時はお偉いさんだったり、巫女さんだったりしていたのです)。
 その縁の結びが今回の伊勢参拝なんです。

 天皇に祓い清める力がなくなり、民間の信仰心に委ねて、。民が互いに負を背負い合う姿になっているのです。

神道のカルマ

 五行でいう「水」という玄武(海)に流して見えなくしてしまっていた流れを伊勢に見出せるもの。
 ただこの結界みたいな張り方は日本全体を悪くしてしまい「島国気質以上の閉塞的な世界に閉じ込めてしまい発展性を見失う」ものなので、この記事で外します。

金(白虎)→水(玄武)

 全てを人のせいにして、人のせいにされた人は神さまのせいにして、神さまがいずれ何とかしてくれるからと、神さまにぶん投げて治めてもらおうとして、ずっと祈り続けることでゴミを神さま(天照大御神)に押しつけることで自らは楽になろうとする魂胆がずっと働いている。
 その天照大御神は自身の最愛の子に流れるものであり、子や孫の輝きのせいにしているのでどんどん引きこもりになる因果と連動しているものです。

木(青龍)→水(玄武)

 真実を見失い現実の利益ばかりを追い求め、物事の循環を見失っている世界がある。「欲しい」と求められているから「冬の季節」でも「春、夏、秋の食べ物」を用意して提供する世界が出来上がっている。
 この季節の逆流とも性質的に異常とするものを気候に合わないものを体内に取り入れることで自然と人との繋がりを寸断してしまい、異常を認識出来ない状態にしている。
 この働きかけの歪みは生命的な危機を排除することでも加速してしまい、「死」を認識出来ないことで生きる力を失わせ精神異常を増長させ、人と人とが強い反発する力で支え合う過緊張の世界を構成している世界になっている。
 「否定する働きかけ」がさまざまな育生を阻み、認知症から発達障害まで人の健康的な意識の流れを寸断している状態にある。

土(麒麟)→水(玄武)

 ルールを破った者は永遠に許さないとした思いによって、「死」という穢れの淵へと追いやっている意識が、「神の世界、常世(とこよ)の世界へでも行って許しを請うてこい」と罪人に送り先までもが天照大御神となっている。
 約束を破る、裏切る行為など、さまざまな不快な出来事は「想定していた結果」と食い違うことでも引き起こされ、責任者に処罰が集まるようにもなる。
 「二度とこのようなミスは致しません」
 と、約束する思いの契りを果たして、その悔いた思いや無惨な目に遭ったさまざまなものを呑み込んで現実で頑張る時の「呑み込んだ先」が天照大御神でもあるのです。

火(朱雀)→水(玄武)

 変化を必要としているものでも「まだ使える」として、物を大事に使おうとする働きが日本では「勿体ない」という言葉で定着している。
 「使える」という理由で、買い換えたり、「捨てて新しいもの」にするとか「譲って、別な物に揃え直す」など変化を取り入れた方が産業が活性化する因果関係がある。それをここでは「変えない」という力がずっと働いている。
 「変えない」は「買えない」思いであり、使い続けることを美徳としてしまい、本当は新しいものなど必要としたいものの「怒られる」から「勿体ない」からという思いが働いている。
 その一方で、大量廃棄の側面もあり、買い換えることをためらう世界と、必要とされないにも関わらず作りすぎる、売れ残ってしまうなど余剰問題をどうすることも出来ない状態になる思いが天照大御神に集まっている。
 思想を植え付けられたくないという思いもあり、根底から意識を変革する道を深く閉ざしている思いも集まっている。

水(玄武)→水(玄武)

 家族の問題は家族で解決するもの。
 他人が口を挟まないで欲しい。
 身内の恥を外にさらすな。
 悪い奴はやっつけろ。
 といった思いが集まり、水という気質の中に中に入り込んで抜け出せないループを形成している。

大きな弊害

 崇神天皇の時は火(朱雀)に国民の気が天皇に集まっていた。
 土→火、平穏に暮らせますように。
 木→火、争いになりませんように。
 金→火、災いが舞い込まないように。
 水→火、豊かでありますように。
 火→火、何も変わりませんように。
 といった願いを火に集めていたので最終的に渡来人が来て、耐性のないストレスが襲いかかり、火に溜め込まれた気の大半が金と土に流れて疫病となったのです。

 本来なら、火に集まった国民からの気を「天に還す」ように祓い清めていれば良かったのですが、渡来人によって認識が大きく動いてしまいうまく出来なくなったのです。

 疫病にのし掛かる負の想念は「騙される方が悪い」といった気質があり、渡来人のグループに実権握る人たちが接触して意識が汚染されるようなものとなって、あとは連鎖で負の想念に呑まれて疫病になったという因果が読み取れる。

 祈りの力が反転するものは「崇める」ことで「祟り」を生み出すことも出来るってこと。

 三大怨霊などは「祟りがある」から「崇めて鎮める」といった因果関係になる。
 これも全部「水」に気を集めている。
 金→水、尊敬しています。
 木→水、逢いたいです。
 土→水、慕っています。
 火→水、感謝しています。
 水→水、お供します。
 とした祈願によって、祟りを鎮めるもの。
 もちろんそれによっての弊害も出ている「正義が正しく悪は滅びるべし」とした善悪説オンリーの価値解釈が日本中を覆い尽くして、思考停止しているような価値観を増やしてしまっている事実。こちらも「引きこもり」に直結する問題として出ている。

 これらを力場を正常化する。

二つでない一つの日本

 陰・499,あなたを探しても見つからない世界で生きている。(伊邪那美(いざなみ))
 陽・501,離れていてもいつも君のことだけを思い夢を見る世界で生きている。(伊弉諾(いざなぎ))

 日の本の「日」は太陽を表すものでもあるけれども「太極図」とした口が二つあり、陰と陽の口が合わさる漢字として「日」があると読み解ける。
 「本」は本来「木」という五行の「木」のことを文字にして残すことで正しくないものだが「一」という漢数字に文字に顕わにすることが出来ない全ての思いを汲める国であれとして「本」の文字を当てている。

 陰・500,いつも側にいる。(伊弉諾(いざなぎ))
 陽・500,分かり合えてここにいる。(伊弉冉(いざなみ)

 陰陽で言うなら、太陽は「日」とした漢字だけれど、太陰は「月」とした漢字である。見えないものに「日」という漢字を当て、見えるものに「月」という漢字を当てている。
 男女という二字も日本という二字も、「陰」と「陽」という順で書いてある。
 昼夜というのも本来昼を「陰」とし、夜を「陽」とした発想がある「とんでもない解釈」を披露しておく。
 「日」というものは見えず、「本」というのものは物なので見える。
 「男」というものはよく見えず、「女」というものはよく見せるものとした発想であるなら、こんな「飛んでも解釈」も一つの理が働いていることを踏まえて欲しい。

 さまざまな「教え」という常識が現代においては「真理」からすると反転しているほど入れ替わっているものなのだ。
 それを整えた。
 気の流れとしてね。

 正常化のリーディングの過程を披露しようとして「何をどうしたの?」って思うところが、実際に私も文章に出来るかと思ったが、トライしてみたら「終わらせてしまった」ほど、あっけなく整った。

 世界は反転したと報告はしておく。
 伊勢に溜まっていた気も動いて流れている。

 自我における「否定することから考える力」が消失していく世界が始まる。
 それを伝えておく。

 価値観や解釈がどのように変化して行くかは未知数である。
 感じ取れるのが「パニックの増加」「認知症の増加」「何も出来なくなる人の増加」「キレる人の増加」がありそうである。

 愛で始まった世界なのだから愛で終わる世界に辿り着けたらいいが、それを自我で拒んで歪んだループを創り出すと自滅して終わる因果があるということ。
 その最後の審判的なスイッチが入れようとも思うことなく「入った」という感じがある。

 だから私がどうこうしたというより、世界中の人たちがそれぞれの自由意思で決めた結果がここから創造されていくというものだ。

 男性も女性も等しく「見えない世界を見て」「見える世界を見る」ことが出来たら、新しい世界は平和になるのだと思う。

アマテラス・ワークのオススメ


 伊勢神宮へ参拝イベントに参加出来なかった方々へ。
 zoomでも受け付けてられるように致しました。
 伊勢に行ったと同じように必要な祓い清めと、三貴子となる「月読命」「素戔嗚尊」「天照大御神」の気を通して繋げられるように致します。

 実践ワークをして、実際に天照大御神と繋がって「祈りの力(リーディング)を体験して閃き降ろすことをします。

 体験して繋がれると色々な神社で「対話」が可能になり、気づきが得られるようになります。
 大切な心得なども届けます。

 リーディング能力を高めたい。
 天照大御神というものの気の働きを体験したい方はお問い合わせください。

 お問い合わせはハピネス企画公式LINEまで。


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