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そここに愛がある 韋駄天

リーディングマスター・まさみちです。お遍路中です。今日も足首下が異常なほど痛むという中で、山のようにある否定される意識を解体して歩いております。初日のような大腰筋が痛むことはなくなりました。ストレスを解体すると、痛みが消えるのです。健全化すると痛みが軽減して、気に障らなくなるという表現の方が適当かも知れません。歩く+痛み=絶対にストレスを取り除く。という図式になるので、身体に起きている不思議な痛みも、全部読み解いて歩いております。(86/88)

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これが大腰筋の図ですが、この筋肉がただの歩行で痛むことがある? と訴えたいところですが、大まかに言って「底力を出させない邪魔な想念で閉ざされる」状態だと、歩きづらくなるほど痛みます。

八十八カ所巡礼・徒歩の旅は、毎日、昼も夜もせわしなく心と身体の抵抗感を取り除くことで一杯一杯であります。お遍路前の日常は、徒歩の激痛がないだけで、やっていることは変わりないですけどね。徒歩の痛みは辛いですね。

さて、仏像についてです。

韋駄天(いだてん)という仏さまを知っているでしょうか?

名前としては有名どころかと思います。調べると、「足が速い」という印象ばかりが目につくもので、「駆けつけることの速さ」と、仏性と一体どういう関係にあるのか? と、悩ましいところです。

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写真から見ると、走るイメージより強く頼もしさを感じるようにも思えるものです。

韋駄天(いだてん)とは、「物事を要約する知力を持つもので、短い言葉の中に全てを含めて伝えること」を示すものです。「余分なものを省く力も持ち合わせ、本質だけを抽出して伝えるもので、誰よりも深き信頼で結ばれるほど伝達する力は増すもの」として、わかり合える人と、意思疎通が難しい人との差異について、不必要な恐れを抱えていないほど、わかり合えるようになることを示す仏性です。

問いに対して、答えが的確で素早い人の意識の繋がり方を示すものです。

それが出来るようになるには、一つ一つ丹念に物事を深く洞察出来るようになり、納得行くまで追及して理解することを重ねている心でないと成立しないものです。

はしょったり、かいつまんで学ぶようなことはしないものです。

人から何かを習うときは、「要約して解り易く教えて欲しい」と思うものですが、「要約して解り易く教えられる存在こそ重宝される人」になるとは思い到りにくいものなのです。

どうでもいいことは、「さわり」だけ学ぶだけで良いのかも知れません。

けれども、自分にとって何が大切で、何が不要かは、人生の中盤や後半になって解ってくるものでいいとするなら、どのジャンルにおいても「本質を追究する姿勢」で取り組むことは大切なものです。

「出来ないことを出来るように教えて貰えると楽しい」

と、感じるものです。

どれだけ、一生懸命に取り組んでも、「出来ないことは、出来ないままだと、楽しくない」ものです。

問題は、解けることが大切であり、暗記するのではなく、事の成り立ちから結果に到るまでの物語を知らされると、心が繋がるので覚えてしまうようになるものです。

仏性の働きとしては、「どういう仕組み?」や「どうなっているの?」といった幼児が大人を困らせる質問攻めにするようなものです。

これがゲームなら、「どういうプログラム組んでいるの?」となるものであり、スポーツでいうなら「オリンピック出るならどんな鍛え方やメンタルだと行けるかな?」などの発想です。

「気が早っ!」

と、ツッコまれそうな発想です。

それがネタでも冗談でもなく、真剣に「ゲームクリエイターになるつもり」であったり、「プロのスポーツ選手になるよ」と、そこに一切の疑いや迷いが無い状態のことをいいます。

成れると信じたから成りました。

といったニュアンスの心の働きとなるのが韋駄天という仏性です。

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役割を全うするといったニュアンスの働きの方が、身近かも知れません。

医療チームとしたら、各専門家が意見を出し合って、患者のケアに当たる場合の、一人ひとりが最善を尽くして患者を「救えるに決まっている」とした姿勢での取り組みは、互いを信頼仕切っていて、患者は医療チームに全てを委ねてくれているのだから、それに応えないわけがない。という迷いのないチーム全体に働きかけられている仏性が韋駄天なのです。

医療チームが複数人いるのに対して、自分は一人しかいないと考えると機能しなくなりますが、自分一人の中に医療チームが揃っているとイメージ出来ると韋駄天の仏性が機能するようになります。

韋駄天は、育っている扱いから取り組むものです。

修得が遅いか、早いかの違いは、どれだけそのジャンルにおける関心の高さや、興味深さが強いのかどうかによります。

一点集中の方が、力点が集まるから突き刺さる力と、突き抜けて行く力が強いです。

平面での力押しでは、圧力はかけられるものの、突破する能力は無きに等しいものです。

韋駄天の仏性が機能すると、常識的なものを覆していくようになる為、大切に扱って貰えるといいですが、日本では飛び級制度がないように、秀でた能力がある人は、凡庸な能力の人に合わせた方がいいという文化形態であるので、秀でた人が楽しくなくなり捻くれてしまうところがあります。

韋駄天の仏性で親に関わると、「生意気」だとか「何様のつもりだ」と、ずば抜けた才能ではないものの、面白い着眼点を持っている人や、人とは違った感性で世界を捉えている人の才能を見出すことなく潰すことがあります。

日本は「教えよう」としてしまうところが強い為、「教わらなければならない」という足枷から抜け出せない問題を抱えています。

韋駄天と繋がることが出来ると、「実践の中でしか鍛えられない」という事実がわかるようになります。簡単に言うなら、損害を被るリスクなどや、自分が世界を引っ張っていく心積もりという発想が必要なのです。

「私に投資をして欲しい。いや、援助だけして欲しい」

という、「金だけ払って口も、見返りも求めないでくれ」ということを言える精神性や、言われたときに、それに従って応えたい気持ちが韋駄天なのです。

この世界は「金を払って、利子が得られるから投資の対象になる」という理屈がありますが、韋駄天という仏性は、「金は払う、見返りはいらん。どう育つか楽しみだ」だけです。投資にもなりません。「お金をあげる」だけです。もちろん、援助した相手が育つ過程を見るのが楽しいという喜びは得られます。

お金丸投げです。寄付です。

この援助対象になる性格を示すことが韋駄天であるのです。

何でもパッパッと素直に聞き入れ、改善し、次に繋げて、より高みへと行こうとする心構え。間違いを恐れず、間違えたら全力で泣いて、全力で立ち直り、笑って突き進んでいく姿勢を崩さないものです。

そういう人柄に、人は惚れ込み「援助したい」と申し出てくる存在が集まると、より力が結集され、より大きな事、喜び集まることに取り組めるようになるのです。

いつも、未知なる挑戦の連続になるものです。

一年目の苦労、五年目の心労、十年目の過労など、年々により、問題は様変わりするものですし、状況は刻一刻と変化するので、安定などないものです。その中でいつも機敏に空気を感じ取り、瞬時に意識が変わって「気が変わった、これやろう!」といった思いつきで方向を変えてしまうのも、韋駄天なのです。

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心は相対的に働くものです。

周りの人との繋がり合いで、心は形成されるものです。より大きな意識で動けば、より大きな意識との繋がりが始まり、その抵抗感や問題が発生しては、修正していく道のりとなります。

大きな目的の為には、その障害となるものは自然と引き寄せられてしまうのです。

韋駄天の仏性に従える人は、その窮地を楽しむようになります。

危機が当たり前なのです。

一寸先は闇が当然なのです。

明るい未来とは思っていないのです。

未来は、未来に辿り着いた時に解るものだとするのです。未来にはただ「信愛する思い」が投げかけられているだけです。

どの自分も、どの状態の自分も、未来も過去も現在も、全ての自分を受け入れている時、韋駄天の力は大きく引き出されていくものです。

韋駄天の力が弱々しい時は、「問題が解けない時」です。

問いかけ方が間違っていたり、意識の持ち方が間違っているなどしていると、韋駄天に繋がらず、ヘソを曲げるような発想に終始してしまい、グズグズになります。

心のチームが一つにまとまっていれば、習うことは習うしかなく、実践してワークするならワークから覚えていくしかないものです。

未来が不確定であるなら、「迷い」は無くせるものです。

知った道を行くか、知らぬ道を行くかによります。

韋駄天という仏性を伸ばしたいと感じるなら、「知らぬ道」しかなく、選択はありません。

人生を面白く、楽しくするには、少しでも解けないものを解いていくことが喜びに繋がるものです。

危険を予測して回避するのは、一見正しい物の見方だと感じられてしまうものです。それは不安を中心に物事を見ているものなのです。

歓喜という面白さを中心に物事を見ていると、「回避すべき危険など無意識に避けてしまえている」という発想なのです。

自我は、心が制御できると信じています。故に制御ミスが発生し、事故に遭います。

真我は、心は制御出来ないと信じています。故に仏に委ねることで制御してもらい、事故に遭わないようにしていただいております。

仏の力、韋駄天の力で、無意識下でも心が暴走しないように制御してもらう発想なのです。自我で物事を成し遂げようとすると大変ですが、仏性で物事を成し遂げるのは、委ねていくしかないので自動です。

この記事の文章も、委ねているので自動書記みたいなものです。

覚えて書いているのではなく、閃き降ろされて書いているものです。

韋駄天は、目的に応じて回答を幾らでも変革出来る力も持ち合わせています。

男性向けに表現する場合や、女性向けに表現する場合に、文言を変えて行く力や、両者に向ける場合などでも変えられます。

小学一年生に向けての表現が、二年生に向けて、三年生に向けては、内容が変革されつつも、伝えようとすることは同じ意味合いになっており、連携された美しさが秘められているものとして認識する力がある仏性です。

例えば、先生が生徒に向けて言う言葉があります。

一年生「友だちと仲良くしましょう」

二年生「みんなと仲良くしましょう」

三年生「一人の遊び方、みんなとの遊び方を大事にして、仲良くしましょう」

四年生「嫌な気分を良い気分に変える方法をみんなで話し合おう」

五年生「解る子が、解らない子に解るように伝えてみんなで楽しもう」

六年生「楽しくないことを、楽しいことに変える方法をみんなで考えよう」

このような方法を閃く力のことです。

一年生〜六年生までが、連続的に重なり合うものです。六年生は一年生〜五年生の教えが重複されているものです。

簡単な教えでも、内容中身はとても奥深さを秘めており、経験を重ねることでその奥深さに触れることが出来、その連携された言葉の仕組みがあることを見抜くことが出来る仏性を韋駄天と称しているのです。

これは緻密な雑念となるエゴの解体と、純粋な思いが穢されてエゴになっているものを紐解いて、愛に戻してきた経験がものを言います。

取り組んでみると、とても奥が深く楽しい道のりがあります。

ワークを教えます。

韋駄天と自分を重ねてイメージします。「今の自分に降りかかっているストレスを教えて」と韋駄天+自分に問いかけると、何を思い浮かべるのかやってみてください。

これは一例です。

何かがあり、不快に陥ったとき、「誰?」と意識を向けた瞬間、「あの人かも?」と思いつくことを支えてくれる仏性が韋駄天でもあります。こちらの方が解り易い力かと思います。

思いついて、それからどうするかが大切です。

ただ、イライラしていたり、モヤモヤするだけでは、対象が誰だか解ったところで、意味がありません。解かなければ気は楽になりません。楽になるには、事実を直視出来なければ成りません。

何より全ては自分が切っ掛けに物事は起きている事実を受け入れることです。

これはどこまでも自己成長を促す発想です。

その自己成長を地で実践して突き抜けて学び高めていく気持ちが定まり、脇目もふらない状態のことを「韋駄天走り」というのです。

「好きこそものの上手なれ」としたニュアンスとも近しいものです。

自分を好きで居てください。

自分の人生を楽しんでいてください。

それぞれの人生の主人公は自分なのですから、どの場面でも、最高に格好良い自分でいいのですから、やってみてください。

そここに愛があると信じたものは強くなれます。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。


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