「いじめ」がある

リーディングマスター・まさみちです。見えない心の世界を捉えるには客観的ではなく、主観的に取り組まなければ改善に繋げられません。キネシオロジーテスト(筋肉反射反応)においても、一人で行う場合と、相談者の筋肉を借りてキネシオロジーテスト(筋肉反射反応)をするのでは結果が違うことがあります。

心が病むと、コミュニケーションが正常に機能しなくなり、苛立ちや冷ややかな気持ちになり「嫌だと伝えても辞めてくれない」ことが、ままある。

心を開いている人と、心を閉ざしている人とのコミュニケーションのズレについて知らないことが多いのが問題だ。

いじめ問題においても、調査すると「いじめている事実は認められなかった」という「訴えている人」がいても、「訴えられる人たちに加害の事実が見つからない」などという問題がある。

いじめの事実がありながら、いじめの実態が確認出来ないという摩訶不思議な出来事があるのだ。

今回は「いじめ」について紹介してみる。

①何が正しいのか、何が間違いなのか?

162〜168,「仲良くしたいが孤立している矛盾の苦しみと嘲笑」
友だちがいて、よく遊ぶことは出来ても、心の空虚さや寂しさを埋め合わすことは出来ず、手を変え品を変えてその場限りの快楽を貪り、極めて利己的な行為(自分の人生&自分の小遣いだから何してもいい)に走るものだ。
誰もその抑制を効かせることが出来ず、根源の問題が見つからず、排他的になり、改善出来る親や友を遠ざける(側に居ても心を開いて話さない)。
しかし、これは周りに居る親や友であっても、誰の心の中でもやってしまっている為に「勇気ある一言」を言い出せない環境と、「難問を解き明かすために心を互いに開いていく道に踏み出したくない価値観」を持ち合わせている相互関係がある為、いじめを放置してしまう重度の認知障害がある。

②生きている価値があるのか? 許して良いはずがない。

122〜178,「上下関係を絶対視し、目上を正さないように躾け、常に無知で脆弱で非力である者の方が足を引っ張り、規律を乱すから悪いので懲らしめてよい」
親子、兄弟、師弟、先輩後輩、友人関係のあらゆる社会において、証拠に基づく価値観が根底にある為に「気分を害させた相手が悪い」という基準を元に、「不快になる」「無様を見せてしまう」「非道な扱いを受ける」「邪魔された」などが起きても、上下関係の壁に阻まれ訴えても聞いて貰えず改善することに至らないことがよく起きる。
これは「上に任せておけば良い」という「下に負担をかけさせてはならない」という先入観などの思い込みによる問題が潜んでおり、兄弟間や先輩後輩間において「問題が生じると上の年齢の者が裁かれる」体験を一度でも起きると始まる問題である。
この何かがあると上の立場が悪いのであり、下は何も悪くないというのは会社でも見られるように「下が勝手にしたこと」という言い分は会社組織では通用しないが隠蔽できれば問題を公にせず片付けられる。
目上の立場が裁かれることを恐れて、様々な知恵や工夫を考えるようになるものの、その後始末をさせられる不満が溜まり、それを下の者に当たる構造が出来上がる。
親の会社での上下関係の不始末の苦しみが、家族の親子関係の問題として具現化してしまい、親が上司で部下の責任を取らされて苦しむ思いをすると、家族の子どもが学校で先輩にいじめられて苦しむ関係性にある。
親が隠し事をせずに公にして問題を会社全員や取り引き先や顧客の目にすることにしながら問題解決に至るなら、子どもも学校でのいじめ問題が公となり学校全体や地域やメディアに知られることとなり、問題解決に至るものである。
ここでの問題は、公に出来ないことにある。
1,「恥ずかしいことを見せられないプライドの問題」
2,「惨めったらしい劣等感をどう処理すればいいか解らない問題」
3,「防衛本能(金銭など生存を脅かす)の問題」
4,「責任を取らされずに育った者の価値観がどう育つかの問題」
5,「親が子を守る行為が子が無力に陥ることを親が体感覚で味わえない問題」
6,「教えることが良いことだと思い込んでしまい正解ばかり与えてしまう問題」
7,「『信じているから』という言葉を担保に脅迫行為に及んでいることに気づかぬ問題」
8,「『自由がいい』と束縛を嫌い囲われている環境の意味をわからずに破壊する問題」
9,「『人が嫌い』という問題の根源を正せない環境や人間関係そのものの問題」
10,「『生きている意味がない』という苦しみを解き明かせる人が側にいない問題」
11,「『胸が痛まない』という人並みの感性を失って麻痺している人に共感して助け出せない社会の問題」
12,「『何をしたらいいのかわからない』という挑戦する機会を「迷惑かけないように」「慎重に取り組むように」「困らせないように」「不満を漏らさないように」「我慢するように」「諦めないように」「自分を信じるように」という言葉たちで囲い込み、思考すること思慮深く物事を洞察する力を封じていながら「好きに生きたら良いよ」と背中を押させる絶望的な問題」

これら12個の問題はどれもいじめ問題に直結している。
道徳が人を殺している因果関係もあると知る必要がある。

③嫌われ者になりたくない。

113〜188,「精一杯我慢するだけ我慢して負担かけないようにする」
「怒られたくない」「嫌われたくない」「信じて欲しい」「任せて欲しい」「自立したい」という思いはあるものの、頑張っても頑張っても踏みにじられたり、思うような結果に至らなかったりして、困惑してしまうことがある。
自分で「自分の問題だから」と人に頼らず、自立出来る創意工夫と努力を重ね、自分も人も楽しんでもらう関係性を構築しているつもりが、ある時崩壊する。
リーダーシップを担えていたつもりが、「もうついて行けない」という事が起きてしまい、立場が反転してしまうことがある。
精一杯の努力が水泡に帰して、孤立してしまう。
それが「お金があるからついてきた」「面倒なことを背負ってくれるから利用していた」「自由意思を尊重してくれたから付き合ってきた」「声をかけてくれるから答えていた」「寂しそうだから付き合ってあげていた」など、利己的に利用し合う関係の場合、それが限界を迎えれば破綻する。
リーダー気取りは世話を焼いているつもりが、下の者も利害が一致するから付き合っているのであり、友だちではないという関係だ。だから下の者はリーダーを信頼しているのではなく「強い」や「金がある」など無いものを持っていて養護してくれるなど利用し甲斐があるから協力しているというものでもある。
下の者たちが一致団結したり、リーダーからの恩恵より辛さが増すなら破綻する関係にある。
ビジネスの世界にもどこにでも多く存在してる問題であり、失意に墜ちると復活が困難なものでもある。

④適当にやっていけばいい。

144〜166,「当たり障りなく、問題化させず、グレーゾーンを渡り歩くもの」
問題があっても、対処や処置するだけで原因や真因の追及はしない。
都合の悪いことでも、真剣に悩んで見せて共感し、頑張る姿勢を示しつつ改善へと踏み出さない。
共通の敵を作ることで、団結心を煽り、あらゆる常識と思われる見せかけの証拠で理論武装を果たし、善意の関わりを悪意に違いないと心の内側に湧き上がる「不愉快さ」を徹底的に相手側の問題としてねつ造し、どれだけ自分たちが被害を受けたかを立証することに明け暮れ、「嫌がる相手を従わせることは悪だ」という理論の元に、自分たちがネガティヴの価値観に閉じ込められていることに気づかずに攻撃し続ける正当性を主張するものである。
「私(たち)は悪くない、何故なら相手が悪いからだ」
という、自分の思いついた起因する心が「悪だ」と認定してしまうと、その振り上げた拳を降ろすなどすると、自らが間違った解釈で攻撃をした「悪」に転じてしまうため、一度動き出すと退けない問題がここにある。
いじめが起きていたとしても「いじめてました」と最初は思いついていないので「ごめんなさい」という言葉も出せなくなり、誰かが裁きを下すまで終わらせられない戦い(諍(いさか)い)がここにある。
無知が生み出す愚かしさとはいえ、問題解決の仕方を「誤魔化し」によって「見た目」や「表面上だけ整えればいい」ということに終始してしまった結果のツケはあまりにも大きい問題がここにある。

これら4つの「いじめ問題」は、範囲が広い場合が多く、改善するにも対処療法しかなく、根本療法するには問題解決に取り組む人が「悟っている」とするくらい関係者たちの「心の闇」そのものに共感出来る慈悲と慈愛の心が必要だからだ。

「いじめ問題」の基本的な構造は4つある。

1,「許し」がどこにもない。
2,「答えそのもの」を与えない(1〜100まで全部教えきってしまえる人がいない)。
3,「絶望している無意識の哀しみを共感」する友(師)がいない。
4,「変化」することを望まれない閉鎖社会である。

1,「許し」がどこにもない。

「許し」は「絶対許すものか!→許します」とすることで到達する気づきのことである。「許している人」が「許してあげなよ」と誘導して「許し」がもたらせられないのは、「絶対許すものか!」という深い哀しみに共感する人がいないからである。

2,「答えそのもの」を与えない(1〜100まで全部教えきってしまえる人がいない)。

「いじめ」そのものが「何か」が解らないことがある。
「隠し通せるもの」が一時的にしろあるなら、「いじめ」は無くせない。いじめられている人の安全が確保されなければ「ヘルプサイン」も出すことが出来ないと親や親類に至るまで学ぶ必要がある。
「弱み」を握られている場合も、その「弱み」をばらされたりしても、安全だと感じられなければ「弱み」を握られた存在の征服下に入ることとなる。

3,「絶望している無意識の哀しみを共感」する友(師)がいない。

深い絶望や、哀しみを無意識に隠し持っている場合、知らず知らずにいじめの的になることがある。本人でなくても、親や親類、兄弟であっても縁者がいじめられることはある。
家族の苦しみを理解したいと願うからである。
家族の痛みは共有するものだが、共有するとその重さに潰されることがある。
心的ダメージがリアルいじめで具現化するのは耐え難い苦痛となる。
故に「学校に行かなくてもいい」、「会社は自殺を考えてしまうほど追い詰められるまで我慢して行くところではない」などと身の安全を優先させるように促すしか手立てが無い。
意識が十方向から封じられている場合、環境を大きく変えるなどしなければ改善することも困難なことがある。

4,「変化」することを望まれない閉鎖社会である。

この「変化」は「挑戦」のことであり、「上下関係の逆転」でもある。
不愉快さを受け入れられなければ、「変化」を受容したことにならない。
閉鎖社会は序列など構造そのものに「疑問を投げかける」ことさえタブー視されていて、従来通りに今後も継続することが望まれている。
変化点を迎えると、前例が無いために最も良く用いられる解決方が「変化点の抹消」である。
これが新人や、意識の変革を迎えた人が「いじめの的」になる理由だ。
優れている側面が1つでもあると、その芽が芽吹く前に摘んでおこうという意識が働き、「生意気だから」「目障りだから」「癪に障るから」「居ない方が都合が良いから」という大変身勝手な理由でいじめられるのだ。
いじめる側もいじめられる側も「変化」を望まれていないところが共通しており、鬱積が向けられる対象は誰でもよい場合もあり、「従順に変化しないことを受け入れている人」に攻撃が向けられることがあるのは「変化しないことに適応しているんじゃない」と、否定することで環境の改善を図ろうとしているからである(効果は全くないが)。
そして上を立てて口答えしない「利口さ」が、下に鬱積を晴らす為の攻撃の的になるものだ。
目上を立てる年功序列とした価値観がある限り、「いじめ」は無くならないものである。

調べれば調べるほど途方もない話が見えてくる。
誰もが「自分から変える」と決めて、これらの4つのポイントを実践していく事が出来れば改善は見られるだろう。

「いじめ」の中でも「生まれて来なければよかった」などの無意識があると、それだけでも「いじめの的」になる可能性がある為、自虐思考はNGと心得、心の奥底から「愛されている」と感じることが抜け出していく道となる。

一人で抱え込まずに相談することである。





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