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人に愛の力を与える 釈迦如来

リーディングマスター・まさみちです。物事を深く洞察するには、よくよく観て行く必要があります。ずっと観て行くから解ることが見つかるものです。仏との対話も、自分をより良く知ることです。自分を知るには、自分を見失い、何も知りようが無いところまで追い詰められてからでなければ、解らないものです。他に助けを求めなくなると、物事の深さや気づきの多さなど、丸ごと「解った!」とならなければ、生は安らかにならないものです。(88/88)

88回連続で記事をアップする行の最後は、「釈迦如来」という生身の如来とし、理仏とした意識の使い方を偶像化したものとは別の如来について解説します。

「釈迦」はかつて実在した仏教の開祖として知られているものです。

開祖は特別な存在であり、同じレベルの人が現れることがない程、高尚な存在である為、それを偶像の対象としてみると効果的だとわかる人が、如来にし、友を偲ぶようにイメージすることで力を借りるものとしたものです。

「あの人なら、こんな時にどうしたものだろうか?」

などと優れた人だと尊敬しているそのものに成り、その姿勢で物事を考えてみると触れ合ってきた分、「きっとこんな風に考えるだろう」と思い到り、そのまま「実行しているに違いない」と動き出してしまっていると解るようになるものです。

仏との対話は、「大いなる“わたし”」との対話でもあります。

それは「見守るだけ」の存在のようなもので、全てを肯定してくれているものです。

どこまでも受容してくれていて自由にさせてくれます。

けれども、その自由さにかまけて「何でもしていい」と思って動くと、思いも寄らないところから、瓦解するような事件が発生してしまい壊れてしまうものです。

人は本来悟っている状態が標準であるものです。

健康な心身であるなら、心は無の状態であり動かないもので、身体はくつろぎと緊張の両方が存在しているものです。

そこから歪みが生じても、恒常性という「元に戻ろうとする性質」があるので、健康状態を維持出来るように治る現象が生じます。

しかし、この治る症状を食い止めてしまうものが「先入観」などの「言い聞かせ理論」です。

一度、「こうに違いない」と断定的に認識してしまうと、それ以外の可能性を考慮出来なくなり頑固に到ってしまう場合があります。

それは、自分の閃きに対して,自分を信じる為に気づきを変えたくないとするものもあれば、親の教えを裏切りたくないなどとして、誰かを庇う為に犠牲になり従っていることもあります。

発想の自由や、解釈への執着の無さがあれば、不必要な意地を張ることもなく、衝突も回避出来るものですが、強い信念は「真心からの心地よさ」よりも、教えに従うことの方が大切だと信じ込まされてしまうのです。

この「釈迦如来」という生身の人を偶像化して、「如来」のイメージとして扱わせて欲しいと仏像にしてしまっていても、「同じ発想など得られるわけがない」と、取り組むのか、「私も釈迦如来にいつでも成れるってことだね」と、取り組むのかでは結論は変わります。

「釈迦如来」という偶像を前に「誰もあなたのように強くはない」と言ったり、「頑張っているのに近づけない」と思ったりして、現実が思わしくない状態を諦めの解釈で判断してしまうことがあります。

全身全霊で取り組んでいても、結果に結びつかない時があります。

この時に見直さなければならないのは、「全身全霊だと思い込んでいるだけで、本当はこれは全身全霊ではないのかも知れない」という発想を抱くことが大切です。

結果に結びつかないのは「全身全霊とした全力の振り」でしかなく、自分を欺(あざむ)いているとしたら? という質問を敢えてぶつけてみることです。

どこかが間違っているから、結果に結びつかないとするなら「全身全霊の全力を出してます!」という本気モードがフェイクかも? と、偽物疑惑を自身に自分でふっかけてみる力があるか、ないかは大きな差が生まれます。

心=世界

この真実は中々信じたくないものです。

信じなければ、身勝手なことが出来ます。

信じる信じないに関係なく、心がそのまま世界であるのです。

観世音菩薩とでも、観音さまでも良いですが、「何を観て、どんな音(声)が脳内にイメージされるのか」を見つめていくだけで答えが得られるようになるので、試みてください。

というアナウンスをするなら、息子を観て、「早く働いて欲しい」と思いつき、息子を観て、「才能在るに勿体ない」と思いつき、息子を観て、「死なないで欲しい」と思いつき、息子を観て、「結婚して孫を抱かせて欲しい」と思いつき、息子を観て、「笑って生きていてくれたらそれでいい」と思いつき、息子を観て、「母である私のことが大好きなんだな」と思いつき、息子を観て、「立てるようになったから、もう大丈夫、自分の人生を生きて」と思いついてしまうものを、仏像と向き合うことで、見落としている点を見つけて治せば良いのです。

こうして「観る」と「音(声)」が鳴(出)るような関係にあるのがわかると、どんな「観る力」を向けられるかが大切になり、「音が鳴る(反応した声で話す)」ことが解ると、「観ればわかる」という感覚が掴めるようになります。

「釈迦如来」さまに、「観られていた」と扱うと、様々なことが思い浮かび、一つ一つそれを見つめていくことで、大きな気づきをもたらすことが出来るのです。

簡単でないようなものも、「観た」瞬間に「わかる音(声)」が脳内に浮かんだことをキャッチ出来るようになると、自分を知る道が始まります。

「自分が釈迦如来ほど優れた状態まで高まっているとしたら? なんと閃くのだろう?」と、思うようになり、奈良の大仏さまのようにでっかいし、色んな仏像を全部網羅する力も持ち合わせているとしたら? 凄いこと思いつきそうと、凄い人の真似をするのです。

きっとこんな意識だろう。

と、凄く尊い存在として扱うので、閃きも尊い存在のレベルで起きるものとイメージ出来るので、「問い(観る)」に対して「答え(音(声)が出る)」ものだとわかると、仏との対話も問いかけが大切だとわかるのです。

たくさん問いかけてみることです。

「釈迦ならなんと思っていただろう?」

と、如来で観るのではなく、釈迦から観るのです。

すると、相手(釈迦)は生身の人だったとすると、横暴なことは出来なくなります。

尊い存在として観るようになり、「思いつくものはどれも素晴らしいもの」として扱ってみると、世界は立ち所に変わっていくものです。

酷い言葉や、醜い表情などは受け取りたくもないものです。

それを受け取れる存在は、希少となるものです。

唯一の人なのです。

その貴重とも思える唯一の存在が「私」であるとしたら?

全部「釈迦」を真似てしまえている姿に成れたとして問いかけるのです。

自分ではないけれど、自分でイメージした自分の手柄だと解釈が持てるようになると、仏との対話がとても面白さが持てるようになるものです。

「釈迦」のような愛が、元より自分にも同じくらいの愛があるとして振る舞うのです。

真似ることなら出来る。

自分に嘘をついて、出来たフリをすることなら出来る。

騙して良いとするなら、出来る。

演じることで良いなら,出来る。

「きっと、こんな場面、釈迦のあの人なら、どうするだろう?」

「いやいや、考えもせずに行動に移して、救いの道をその場でその時に作っているのが解ると、いつでも豊かさに至れるように導こうとする世界だ」と解るのです。

それが「釈迦如来」の仏性です。

釈迦は、「みんなが望む最高な人は、こんな人では無かろうか?」と思い描き、それをひたすら実践して近づけていくものです。そして何より、最初から「最高な人です」と心で決めた思いがあるから、そのように到るのです。

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ワークを教えます。

「釈迦如来と自分が入れ替わります。入れ替わるイメージの中で、自分の生い立ちの全て、転生の歴史も何もかも入れ替わります。見た目は自分だけれど、中身は釈迦如来なのです。その状態で「絶対に許さない」と入れ替わった釈迦如来の仏像の中にいる自分に放つのです。浮かび上がる思いを観ては、また「絶対に許さない」と繰り返して行くのです。最後までやると穏やかな気持ちに至れます。

不当に扱われたことを、思い出し、「許していた」をやめて「絶対に許さない」に変えなければならないことがあるのです。

人にマイナス感情・ネガティブ発想の振る舞いをさせてはならないのです。

それには「許さない許し」を持つことです。

怒りではないのです。

救いなのです。

わかり合える道を開くことです。

あなたの心と釈迦の心が繋がるのです。

一人ではない二人で歩く人生がはじまると、愛を見失わなくなります。

いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。



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