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出雲の国の『八雲』の雲とは

リーディングマスター・まさみちです。深層心理や現象化から問題の真因を読み解く心理カウンセラーをしています。『十識十方』や『陰陽五行』なるものを駆使して、過去世療法から因果のメカニズムを紐解いて現象を改善するお手伝いをしております。

2023/01/17 にInstagramにて「雲」のお話しをしたのをもう一度まとめてみました。

出雲の国へと研究取材でやって来ました。
「見えない氣の世界」を探求してまして、色々と因果関係をリーディングしてみては、自分の解釈を深めています。

八雲って何だろう?

八雲之図

本殿の天井に描かれている「八雲」を思い、「何故八つ?」「何故に雲?」と考えてみようとしても検索で出てくる知識にはめぼしいものはなく、250年前に描かれたこの絵を見たとき「リーディングして紐解こう」と、持っている力を駆使しようと思いついたのです。

八雲とか出雲とかどうして「雲」なんだろうか?

「闇雲に〜」という言葉にも「雲」がある。

「雲」が何故、神話と絡む地名や社の名前になっているのか?
その辺りをリーディングすると見えてくるものがあるのでは? って探ってみました。

このリーディングは自然そのものと同化するようなもので「無」に至る意識の状態にして「無知の知」モードで問いかけることで「全知」を閃き降ろして行く作業です。

深い熟考状態だと思っていただけるとリーディングを通して得られる智慧の深さに関心が持てるかと思います。

始まりの雲

「雲」は始まりを指すもので、物事は普段目に見えなくても存在しているが、それが集まると雲のように見えてきて、本当に必要だとすると「雨」を振らせる元となるもの。

そんなニュアンスが受け取れます。

なるほど、「雨」の前には「雲」が出ていないと大地に雨の恩恵をもたらすこともないから、「始まり」はどこか? と定義するなら「雲ありき」となる訳だ。

「母なる海」と考えがちだが、人が住む大地に水の恩恵をもたらすには雨が降らなければならないが、雨を運んできてくれる「雲」が流れてこなければ何にもならない。

始まりも終わりもない解釈を持ち出すなら海でも雲でも雨でもどこでもいいとなるが、ここでは「雲」というものとしている。

何故、雲と神を繋いでいるのか?

普段何もないところに雲が現れ、雨をもたらして大地を潤す一連の自然現象が、何気ない人の想念があるとき雲のように集まり出し、雨となって具現化することを人の姿となって「様々な恩恵」をもたらす行為になぞるなら何となくわかる。

雲は幾らでも浮かんでいるが、必要な時に必要な雨を降らしてくれる雲は偉大なり。

とした解釈でいうなら、人の願望を集めて具現化するために実践的行動に移して人々を助ける人のことを「神」と扱うとすると、近しいものを「雲」に見ることが出来る。

ただの善行などではなく、人々が待ち焦がれているような特別な力などを見せてくれることを神と呼び、それは雲のようなもので一目見るだけでは必要な雲なのか、そうでない雲なのかが解らないようなものとした扱いだからだと思う。

八雲という表現からして、八つ同時に物事を為し得る存在が「出(い)ずる」時に、神さまが降臨されるようなニュアンスが込められていると感じられた。

だから出雲であり、八雲なのだ。

自然の中に神を見る

タイトル写真の空には朱雀の気が感じられる。
空に浮かぶ「雲」のどれかが「青龍」「朱雀」「麒麟」「白虎」「玄武」などの五聖獣を見ることがある。

区別するには雲と雲に氣の違いが存在していることが解ればいい。

実際にパワー溢れる雲が存在しているからだ。

そうした氣を放つ雲(聖獣)と交信すると、思いがけない閃きや智恵をもたらしてくれることがある。

写真の朱雀に「このnoteで記事にする上で必要な情報を届けたいので、みんなに知らせておく智恵はないかい?」と問いかけてみる。

朱雀の氣について解説する

五聖獣はどれも「氣」の集まりのようなもので人々の相対的な存在として具象化して認識できるもの。
陰陽のバランスで物事が成り立つように、自分が陽の氣で過ごしていると神社で陰の氣を見ることになったりする。その逆もあり、陰の氣でいると、陽の氣を見ることにもなる。

朱雀は「朱に交われば赤くなる」というほど、同じ方向性や指向性を持ちやすく、例から漏れることを嫌う性質がある。
また、「雀(すずめ)」と漢字が当てられているような雀は数多く集まって群れをなして行動するものであるから、大衆の流れを生み出す力が強く働くものでもある。多数派が強いことを指す。
五行では「火」の性質があるので燃え上がる炎のように大きくなると制御出来なくなるもので、様々なものを時に呑み込んでしまうこともある。

勢いがついた炎のような朱雀は良き流れの時は鳳凰と扱われたりもする。
しかし、欲望などで動く力は「蛇」で象徴されるものでもある。

蛇神さまと奉られている神社などは、朱雀のような立派にはなれなくても蛇の気は「そうするしか道はなかった」というほど選択肢がないところを歩かされ、気づけば蛇そのものになっていたという「気」に至るものでもある。

五聖獣の氣のバランスが崩れると、木気の青龍は「天狗」、火気の朱雀は「蛇」、土気の麒麟は「蟲(むし)」、金気の白虎は「狐」、水気の玄武は「狸」となる。
狐狗狸(こっくり)さんは、気が乱れてネガティヴが漂った働きに訴えるものとなりやすい為、やるべきものでは無いが試してみたりやってしまいたくなるものでもある。

そうしたものも朱雀の崩れた蛇の力の反作用として関心が働くこともある。

故に、祓い清めて禊ぎを行い、正しい気づきを得られるようにしておくことが道となり、特別な場所として神社が用意されている。

大衆が解り易く神の氣と交信できるように場が整えられている為である。

この朱雀の氣の働きは四季のように巡らせていくものの筈だが、時代が変わっても氣の巡りを変えないと朱雀は大蛇化してしまう問題点を抱えている。

蛇神ではなく、大蛇(おろち)になり、それが八方向の全ての意識の逃げ場がなくなると八岐大蛇(やまたのおろち)となり、手に負えなくなる問題がある。

朱雀は蛇(へび)であり、変化が無くなると大蛇(おろち)になり、全ての行き場を失うと八岐大蛇(やまたのおろち)に変わってしまう気質を有しているものである。

端的には「みんなが口を揃えて言っていること」などは朱雀の働きとなりやすく、尻込みしている人に勇気を持たせてやる気に引き上げていく力の象徴となる。

合格祈願や家内安全など、様々なご利益が得られると言われて不安が解消される気の変化が起きる場合は効果的に使われていると言える。

氣と気の違い、朱雀の氣と蛇の気の違いなど、識別するだけでなく、どのようにしたら改善することが出来るのか、他の氣と気の働きの違いや改め方などを知って「お告げ」や「神託」などをもらい受けるものである。

巫女が朱の袴を身につけるのも朱雀の力を借り受けて、お告げを伝えられるようにする為のものである。

季節の変化があるように、朱雀の力ばかり使いすぎると劣化した気が悪さをしてしまい八岐大蛇になると、人の暴走は止まらなくなることを伝えている。

木の気が詰まり過ぎる八岐大蛇は、暴力的に走る。
火の気が詰まり過ぎる八岐大蛇は、慎重論に走る。
土の気が詰まり過ぎる八岐大蛇は、改革を拒み続ける(持続可能な世界を訴える)。
金の気が詰まり過ぎる八岐大蛇は、対立構造をあおり立てて逆効果をもたらす。
水の気が詰まり過ぎる八岐大蛇は、引きこもる。

暴力は警察沙汰に至ることになるが、家庭内で子どもが暴力的になって暴れる場合などでは、大衆の目から逃れたい為に隠し通すことをしてしまい改善しない。
動き出せない人が慎重論に出られるとどうすることも出来ない。
改革を拒み続けているとは表現しているが、見せかけは大改革しようと言っているが現実には至らないもので、「やろうとしているがうまく行かない」という現状維持や、先送りにしてしまう姿で出てくる。
対立構造は反対勢力となり、逆効果しかないがゴシップや議論が白熱するのでやっている気にはなれる。
引きこもりは現代社会の闇でしかない。

朱雀の力が失われた引きこもり姿も、大衆迎合に寄り集まる朱雀の気の性質故の結果である。

良かれと思ってやり続けたことが、悪い結果をもたらしてしまうのが朱雀の氣の扱いの難しいところである。

雲と対話してみる

やってみないと始まらないとして、雲がどんな氣であれ、気持ちを穏やかにして神と向き合う姿勢で対話してみるといい。

雲の神と対話するには、雲の中にある聖獣も自分自身が神格化したら、何と対話するだろうと「レベルの高い自分」と「現実的な自分」との対話をしてみるといい。

相手は神さまであるから、「多分、無茶苦茶能力高い存在」として見るが故に、それでいて「自分自身」という設定で対話するのだ。

神と自分を隔てないことがコツである。

人は他人からの指図は受けたくないものだが、自分の内なる気づきであれば受け入れられたりする。

それには神を自分を別個の存在として切り離さないことである。

それまで、なんとも思わなかった「ただの雲」が、「神さまのお告げを伝えてくれる聖獣」が宿っているかも知れないと価値観が変化すれば、「出雲」の力を有した「出雲族」の一員になれると想像してくれるといい。


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