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スクールカーストを思い出す 0516

7時半ごろ起床、9時頃に布団から出る。今日はちゃんと早めに寝て、生活整えよ…(これ毎日言ってる)

昨日の夜に再視聴していた『桐島、部活やめるってよ』の余韻に浸る。やっぱりいい映画だった。自分の高校時代が否応なく思い出される。

私は当時、スクールカーストで言えば上の方にいたと思う。いたかったとか、必死にコードを守っていたわけではなくて、たまたまそこにいた。勉強は普通にできたし、バスケ部に入っていたし、元から割と快活な性格で、そこまで緊張せずに人と話したから。背も割と高い。田舎だし、可愛いかどうかよりもやっぱり勉強とか先生からの評価の方が重要なコードで、大体それが全てだった。それで私の立ち位置は決まった。話す前から大体お互いにお互いの立ち位置をわかっていて、それから会話が始まる。

少し外に出ても同じ話。
母親はいつも近所の私たちの同級生の親と「〜〜ちゃんこの間XXしたらしいよ、すごいわよね〜」「OOさんちの息子さん、ひきこもっちゃってるんだって、大変よね」
家に帰ればそういう言葉ばかり浴びせられる。

塾に行っても勉強ができることがすべてのように扱われる(と思って、私は塾には通っていなかったのだけれど)。偏差値という単純化された自分の数値をもって、その価値観で世の中を覗く。自分の数値より上に人がいればまだまだと思い、下に人がいれば自分の方ができるのだという自尊心を得る。

大学に入ったとき、あのときもっと、自分や教育制度というものを疑っておきたかったという気持ちに何度もなった。いや、一生懸命に私なりに生きてはいたんだけど。世の中の価値観ではなく、自分の価値観でもっと考えることをしていたら、となんども後悔した。スクールカーストは、下位にいる者にとっても地獄かもしれないが、上にたまたまいた者にとっても地獄だ。遅れてやってくる地獄。自分が「そういう場所」へ据え置かれていることへの違和感は感じながらも、でもだからといって、それが「よい」とされる価値観の中でシステムに抗うなんて、考えもしなかった。

あっちに行こうとしても、こっちに行こうとしても、仲間が引き止める。引っ張り合いの、同調圧力のシステム。結果が出てこないとだめだという圧力。それ以外はやっても無駄だというような。塾という外界においてのしかかってくる圧力。

「できるやつはなんでもできるし、できないやつはなんにもできないってだけの話だろ」なんて、単純化した言葉も、あのときの自分は素直に受け入れただろう。

本当はわかっていた。多少評価されたって、虚無感がどうしても消えないこと。

結果が出なくても頑張る姿にいいなあと思う気持ちとか、
内野連携を考えてドラフトを待ちわびながら練習する時間とか、
失恋して気持ちが砕けそうな中で演奏した合奏後に自然と湧いた達成感とか
自主制作映画が文化の文脈につながりそうな高揚感とか、
言語化されないし、成績簿で評価の軸にもならないことも等しく自分にとってリアルであったか。

社会に出てみればわかる。学校でできたことは、日々を生きていく上でそんなに役には立たないことに。いくら偏差値70とったって、洗濯機の回し方も、年金の支払い方もわからない。ゴミの捨て方さえよくわからない。

自分は何が好きで何に時間を使うかを見極めていることのほうが人生にとっていかに重要だったか。。。


もう何年も前のことなのに、やっぱり桐島のもつパワーによって、一瞬でタイムスリップしてしまうね。よい映画時間であった。

そんな一日。

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