「食事する」こと「集まる」こと

食の歴史」(ジャック・アタリ著 プレジデント社)を読みながら、「食事する」ことの価値について考えてみた。

本書では、人類が有史以来、食と共に言語や政治、経済、社会システムを進化させてきた歴史が仔細に語られている。三度三度のご飯を当たり前のように食らっている私達だが、あえてその価値を意識することは少ないかもしれない。

ただコロナ禍にあって、「外」で「不特定多数の人」と食事することのハードルは一気に高くなってしまった。

「食事する」ことを通して、人々の間で様々な情報が媒介され、それが元になってイノベーションが起きたりする。人類はそのようにしてこれまでも様々なことを生み出してきたのだろう。食だけではなく、飲み物にも焦点を当てれば、ヨーロッパにおけるコーヒーハウスやパブなどの存在も、情報交換やイノベーションを生み出す装置としての役割を果たしていた。

こうした機能が社会から一時的にせよ減退した時に、やはり私達の社会的な進歩は止まってしまうのだろうか?

この間、「集まることの価値」についての記事を書いたが、人が集まって話をする上で、やはり「食」は重要な潤滑油なのだろう。

政治家が頻繁に会食をしているのも、一見すると税金の無駄遣いのように思えてしまうが、(勿論そういう所も一部あるのかもしれないが)実は極めて重要な情報交換や信頼醸成などがその場で行われているのかもしれない。首相動静の記事を読んで誰と会っているのかを知るくらいで、我々国民にはその内容を詳細に知ることはないのだけれど。

思えば自分の仕事の中でも、昼間の仕事よりむしろ夜の会食の時間の方が有意義な時間となっていることもままある。無論、飲んだだけで終わらず、夜の会食後にどういった行動を取るのかということが重要なのは言うまでもないが。

家族との食事も、意識していないとなおざりになりがちだ。一人で食事をするとなったら、なおさいい加減な食事になりやすい。

Garbage in Garbage out と言われるが、やはり良いものを食べ、良い人と良い時を過ごす。こうしたところから良い発想が生まれてくるのかもしれない。


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