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GFXを使ってから変わったこと

こんにちは。

今回は、GFXを2022/3月頃に導入してから半年ちょい使ってきて、私の写真に与えた影響を振り返りたいと思います。

写真の質は明らかに変わった

GFXを使いはじめの頃、撮った写真です。

GF80mm

最初はGFXの物理的にもシャッター的にも重さに戸惑いましたが、わりとすぐ操作には慣れました。そんな時に撮った写真です。この写真が撮れた時に、あ、これはすごいカメラだぞと思いました。

これ画角的には中望遠の画角なのですが、被写体へのピントが合った時、手前と奥が一気に舞台装置のようになるんです。そうすると、ピント面が舞台で、鑑賞者の目は吸い寄せられる。
そんな感覚を受けました。

それに気付いてから、写真の撮り方が変わりました。
なんかよくわかんないけどいいなーーを溜めてたXシリーズの撮り方に対して、GFXを使ってから、舞台のような収まりの良さとか、迫り来るような魅力を!と思うようになりました。

これは中望遠の魅力ではありません。
標準レンズを使っても同じことを思いました。
解像力とその表現力、ダイナミックレンジで、被写体が「主役」になるんです。

Gf63mm
Gf63mm

写真の難しさを痛感した

ダニング・クルーガー曲線というのをご存知でしょうか。

始めてから間もないのに謎の自信が湧いてきちゃうというあれです。
インスタとかTwitterでたまに見る、「写真の撮り方教えたんで!!」的なやつは、大体これだと思います。
(もちろん、内省を含めて語っている人は該当しないと思いますよ。)
言語化することは大事ですよ、大事ですけど、自信満々に教えてやるよ!感でてる人、いますねぇ

GFXを使い始めて、写真ってむずかしい!!!が加速しました。会心の一撃がくりだせる時もあるんですが、結構失敗写真も多く…。機動性が低いからこそ、チャンスを取り逃すこともありますし、ピントを外すこともあり…。自分が技術的にも審美眼的にも鍛える必要があることを自覚しました。

たしかに、不便なんですが、それでも本当の力を発揮できた時の威力が強いので、GFXの長所を把握しつつ、それを引き出す力が必要だったんです。

このとき、自分がいかに便利なものに慣れすぎていたかを悟りました。
カメラが便利すぎることは、写真について考える機会を奪ってしまうことに気づきました。カメラが便利になり、撮影者と簡単に一体化することは、撮影はサクサクできるんですが、撮影者の力量以上のものが撮れないんです。例えが悪くて恐縮ですが、小刀はたしかに便利なんですけど、それに慣れすぎると、ちょっと良いものが量産される感じ?です。大剣を使って鍛えてものすごい攻撃力を出せるようになった後で、もつ小刀はすごく扱いやすくなってそうじゃないですか?

便利なものに慣れることは写真を撮る上では重要でも、写真を良くする/上手くなる/向き合う上では足枷になるかも、と思ったんです。

だからこそ、写真の難しさを実感したし、GFXを使うことでひとつレベルの高いところにいけるかも、と思えました。

あーー大剣使ってるなーって思う写真↓

GF80mm
Gf80mm

好きなカメラがはっきりわかった

先に結論を言います。
僕の好きなカメラは「撮れない写真があるカメラ」です。

人にはコンプレックスがあります。人はコンプレックスを打開しようとして成長を続けてきました。カメラも同じです。フィルムの持つコンプレックスを打開しようとした先にデジタルカメラはできたし、今までの進化は過去の克服から来ています。

それでも、できないこと、は生まれてしまうんです。
私はそれがとても愛おしく思えるわけです。
コンプレックスを抱きかかえて生きている人の方が魅力的に写るのと同じ理由かもしれません。

GFXに適さない写真は結構多いと思います。激しく動く動態、躍動感のある写真などなど。それを撮影者のスキルで克服することはできても、そんなものはsonyの最新機種のようななんでも取れる万能カメラの前には無力です。

それでも、GFXは不得意なものがあるからこそ、得意なものが輝いてくるんだと思います。

GFXは持つ者に対して、「まぁまぁとにかく落ち着きなさいよ」と語るように指示します。歩きながらサッと撮るのではなく、「あ、この光景いいな」と思った時に、ふと立ち止まらせ、ゆっくりとピントを合わせながら構図を整理させる強制力を持ちます。
それは写真を撮る上で僕には必要なことだったんだと思いました。

だからこそ、GFXで撮る時って、同じ場所で何回もシャッター切らないんですよね、「今切った1枚で十分だ」と思えるから。

GF80mm
Gf80mm
Gf80mm
Gf80mm
Gf80mm

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