見出し画像

山形県最上郡戸沢村にボランティアに行って考えた、「人の手」のはなし。

 7月末の秋田山形豪雨で甚大な被害を受けた山形県最上郡。なかでも被害が大きく、集落全体が浸水した戸沢村のボランティアをしてきた。ネットを介して地元放送局のニュースを見た時の衝撃はかなりのもので、これまで幾度も、その穏やかな流れを見ていた最上川の氾濫に、自身の驕りを投影して、ゾッとした。

 昨年の秋田市や五城目町のような日本海側北部での豪雨被害や、九州北部の大雨被害など、夏の自然災害が常態化していることに加え、オリンピック開催もあって、ほとんど報道されることがないけれど、3m近くもあったという浸水における復旧作業は当たり前に大変で、すでに2週間が経ったいまも、まだまだ泥掃除やゴミ出しの需要がたくさんある。

 こういった報道されるべき大事な情報が、オリンピックなどのスポーツ中継で流されてしまうことを、スポーツウォッシングと呼ぶのだという。それが意図的であろうとなかろうと、オリンピックを見たいという人々の興味や需要に対する供給側の都合と、これを報道せねばというメディアの使命のようなものとのバランスが、スポーツ側に偏っていることは間違いない。

 大衆の興味に応えるのも正義だし、それよりも伝えねばならぬことがあるのだとその需要を端に寄せるのもまた正義のはず。しかしながら、これだけ多チャンネルな時代でなお、すべての局が同じものを報道してばかりなのは、どうかと思う。

 けれど所詮、広告収入でまわるメディアとはそういうもので、だから僕は広告が好きじゃない。モノであれサービスであれ、それが売れることがゴールだと設定されている世界のなかで、ものごとの本質を語ることなんてもはやできないのではと思いながら、20年間編集をしてきたけれど、このスタンスはおかしいのだろうか? 長く続けてきてなお、そういう仲間はほとんどいない。

 山形県最上郡最上町にある赤倉温泉という鄙びた温泉街に住む友人の家に泊めてもらい、秋田や宮城からかけつけてくれたRe:Schoolのメンバーと一緒に、戸沢村まで車を走らせた。約1時間の道すがら、何度も土砂崩れの現場を目の当たりにしたけれど、その周辺は丁寧に植林されており、決して放置されたような山ではないように見えた。ひょっとすると、人の手が入っているからこそ、弱る土壌というのもあるのかもしれない。

 2020年に製作された『キス・ザ・グラウンド』という秀逸なドキュメンタリー作品がちょうどいまNetflixで観られるので、未見のかたはぜひ観てもらいたい。人間が大規模農業で多くの土地を耕してきたことが、本来、土中に貯留されるべき炭素を放出させてしまい、それが温暖化の大きな原因になっていることがわかる。土壌微生物たちにとって重要な炭素が土中に貯留される不耕起栽培が、農を通して地球を再生する大きな鍵であることがわかる。

 大学生の頃読んだ本のなかで、農業が人類最初の自然破壊と書かれていて、衝撃を受けたが、この作品にも多くのキラーワードが出てくる。

一握りの土の中には、今までの全人類より多くの生命体がいる。
クリスティン・N博士(ロデール研究所 主任)

キス・ザ・グラウンド: 大地が救う地球の未来

人類は1%人間で、99%が微生物だ。
マーク・ハイマン所長(機能性医学センター)

キス・ザ・グラウンド: 大地が救う地球の未来


 僕たちが食べ物を咀嚼するのは、僕たちが消化しやすいためではなく、僕たちのなかにいる微生物たちがその栄養を取り入れやすくするためだ。発酵食品と呼ばれるもののなかにだけ微生物がいるのではない。僕たちが微生物や土壌そのものに眼を向けることの大切さを思う。

 戸沢村保険センターの前に設置されたボランティアセンターで受付を済ませ、周辺地域の社協(社会福祉協議会)のスタッフさんが、ボランティア希望のお家と、ボランティアの人たちをマッチングしてくれる。「りスクール」としてグループ申請していた僕たちは、5名のメンバーがバラバラになることなく、ボランティアを進めることができた。もちろん単独で来られている方もいらっしゃるが、大抵はグループ参加が多い。1日目はボラセンから徒歩圏内の古口という集落のお家を、2日目はマイクロバスに乗って蔵岡という最も被害の大きかった集落のお家を担当させてもらった。

 泥だらけの家具をトラックに積み込んで廃棄運搬したり、泥だらけになった建具や調度品を再び使えるように洗浄したりなど、作業はさまざまだが、その向こう側に、この地を離れることを決めた人と、ここまでの被害があってなお、この土地に住み続けることを決めた人、それぞれの決断の苦渋と重みを感じる。

 河川の氾濫から守るために、特定の区域を囲むようにつくられた堤防、輪中堤わじゅうてい。これまで幾度となく大規模な浸水被害に見舞われてきた戸沢村の蔵岡地区は、2018年8月、約80戸が被害を受けた大きな氾濫を受け、去年14億円の費用をかけた輪中堤を完成させていた。しかしながら、輪中堤は集落を守ってはくれなかった。

 2018年の氾濫は目の前に広がる最上川ではなく、その堤防の内側にある支流、角間沢川による「内水氾濫」だった。しかし今回は、堤防の外側にある最上川、つまり「外水」の水が地区に流れ込んだことによる「外水氾濫」。輪中堤は内水氾濫を防ぐための堤防ゆえ、最上川の氾濫による外水には無力だった。

 東日本大震災以降、さらに高さが引き上げられた太平洋側の堤防を見ても思うけれど、僕はどうしてもそれが津波や氾濫から身を守る最善策だとは思えない。逃げるための時間確保にはなっても、本質的な解決ではないことは確かだ。

「もうここは住むところじゃない」

 地元テレビ局のインタビューに応える男性の言葉を思い出しながら、一方ここで余生を過ごすことを決めた一人暮らしのおじさんの家の襖を綺麗に洗う。それぞれの判断にはグラデーションがあり、懸命に綺麗にしてもなお、やはりここを出る判断となる可能性もあるだろう。しかし、少なくともいまこの人はここで暮らすことを決め、そのためにこれらの建具が必要なのだと必死になって洗浄した。それが輪中堤のように不毛な労働だったとしても、今現在、その行為は必要に違いないのだ。

 昼食休憩時、まさに砂漠化してしまったかのように、ヒビ割れした泥の層が続く川べりを歩きながら、この土壌から消えた炭素と死滅した微生物たちの再生を思った。リジェネラティブ(再生)。この言葉が広く使われるようになったのも、先述の『キス・ザ・グラウンド』が大きなきっかけだろう。

 復旧や復興ではなく、再生。その再生とは、人間生活の再生ではなく、人類を支える微生物視点を持った再生であるべきだ。何事もなかったかのように、おおらかに流れる最上川は、すっかり再生しているかのように見えた。

初日のボランティア活動が午前だけで終わったので、Re:Schoolのメンバーとともに、地元経済に貢献するべく、豪雨からたった5日間で営業を再開したという、最上川舟下りを初体験した。

 前日に降った雨の影響もあって水は茶色く濁っているものの、豪雨時の様子が想像できないほど穏やかな流れ。しかし、今回の豪雨によって、係留していた舟16隻のうち11隻が流されてしまったのだという。残った5舟でいち早く営業を再開されたことの向こうに、多くの従業員を守らねばと募る危機感や苦悩を感じて胸が痛む。

 豪雨の影響もあり、本来ならば日本海に向かって舟下りをした後、ゴール地点からバスに乗り換えて、再びスタート地点まで戻るというルートを、道路通行止めの影響でコース変更。最上川を下らず、上流に向かってから、スタート地点の船着場まで下っていくという、普段ならありえない、舟下りならぬ、舟上りなルートで、それはそれで良い。

 対岸の山の土砂崩れの跡を間近に見ながら、自然の恐ろしさと、人間の無力さを思うのだが、船頭さんの名調子で終始笑いが絶えず、地元の人たちの生きるチカラを感じる束の間の観光だった。

「氾濫したとかなんとか言って大騒ぎしてるのは人間だけで、鳥なんかはな〜にも変わらず、気持ちよさそう〜に空飛んでる」

 長閑な午後、船の先端に座って、そう話す船頭さんの言葉のまま、鳥が青空に直線を描いていた。


ここから先は

617字 / 13画像
この記事のみ ¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?