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自分には合わなくても、ほかの誰かにはフィットするかもしれないという気持ち。

この気持ちを強く持ったのはたしか #竜とそばかすの姫 を観た後だったと思う。一方的に尊敬している文筆家の人や、装丁家さんが、作品内容にガッカリしたとか、ありえないといったことを書いていて、ひどく胸が痛んだ。だって僕はあの作品に死ぬほど感動したんだもん。

「ガッカリ」という感情は期待の裏返しだから、その気持ち自体はわかるものの、それがシンプルに作品否定につながって、且つそれをSNSで発信しちゃうことに違和感を持った。

最近もまた #鬼滅の刃 のここがありえん! と息まかれているのを拝見してしまって、なんだか辛くなって、その方はそっとTwitterフォロー外した。

僕はここ数年、鼻息荒くエンタメ作品を否定される方たちの態度に「大きなものに立ち向かっている英雄感」みたいなものを感じてしまうことがある。そしてそれが苦手。真に批評的であるものは良いのだけれど、巨大であったり、大衆的であったり、広告的であるだけで、最初から否定的な目でみてかかる人や、アンチな態度を取ろうとする人がSNS では異様に目についてしまう。

そういう意味で最近同質のものだと感じるのが、地域でがんばってらっしゃる人たちの「都会の人がまた地方を下に見ているぞアンテナ」。これも言っていることはわかるけど、吊るし上げることはないよなあと思うときが多々あってつらい。僕も都会に住む割には、地域で泥んこになってる方だと思うので、おっしゃることはとてもよくわかるけれど、そこはやっぱり本人を前にして意見するようにしたいよなって思う。だってそれは真に無意識だから。なので、そんなもの「ありえん!」じゃなくて、「意図してないと思うけど、こんなふうに感じる人がいると思うよ。僕はそう感じたよ。」と伝えたい。

TwitterをはじめとするSNSは自己主張の場だから(それがわるいとは思ってない)、ついつい自らの意見の希少性みたいなものを表現しようとしてしまうもの。それもこれも希少なものに価値がつく資本主義社会のさがなのだろうか。

ジェンダーに関する問題意識が各所で取り沙汰されるようになったいま、他人を傷つけないようにせねばと思いやる人ほど、自分の言動にビクビクされていていて、そういう姿を見るにつけ、「ありえん!」マウントな人たちに、あなたのその態度でまた辛くなる人がいるよ。と言いたくなる。

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僕はよくいろんなところで「写ルンです」というカメラの話をするので、またかと思われるかもしれないけれど、「写ルンです」という商品は、SDGsだ、サステイナブルだ、という時代においてなお、未だに使い捨てカメラと呼ばれる。実際は、現像のために必ず店に持ち込まれることで、循環生産において一番難しいと言われる回収のフェーズをなんなくクリアしていることから、とてもエシカルなプロダクトだとも言えるのだけれど、正直いまでも写ルンですがコンビニに並んでいるほどのヒット商品となったのは「使い捨て」という言葉のインパクトのおかげもあったと想像する。

いまの世の中で「使い捨てカメラ」なんて言われたら「カメラをばかばか捨てるなんて、ありえん!」となるけれど、80年代の日本人にとっては経済成長を肌で感じられる象徴のようなプロダクトで、「使い捨て」という言葉を社会全体でとてもポジティブに受け取ったのだと思う。だから当時の人たちがそこに賛同したことを、現在の価値観で否定するのはお門違いだ。

念の為に言葉にするけれど、だからと言ってジェンダー意識の低さを放置してもいいと言っているのではない。ジェンダー意識のズレにしても、作品への一方的な期待外れ感にしても、とにかく「ありえん!」の一言でぶった斬っちゃうのはあまりに配慮がないように思う。

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冒頭の話に戻るけれど、広く届けることを使命としたエンタメ作品というのはとても難しいものだとつくづく思う。それが広く行き渡るほどに、どこかの誰かに強く否定もされてしまう。僕は物書きの一人として、編集者の一人として、あらゆる作品は、何かしらポジティブな動機や希望をもってつくられていると信じている。それが一個人の思考や嗜好と合わなかったからと言って、高らかに全否定することにどうしても違和感を感じるのだ。

人間は自信を持つほどに言い切りがちな生き物で、且つ、人間は言い切られることに弱く、なびいてしまう。そんなことをいろいろ考えているのだけれど、ここにある問題の根本って歴史教育なんじゃないかと思った。

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