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発信とは 、共感の波紋の一石。

新型コロナウイルスに対する不安が一向に消えないなか、
逼迫する経済に向き合い、なんとか新たな一歩を踏み出そうとする人たち(僕自身も)にとって、「発信力」は喫緊の大きな課題だ。

どうすればこの商品やサービスを広く伝えることが出来るのか?

多くの人がぶつかるその課題に対して、SNSなどを活用したテクニカルな解決方法を僕が知るわけではないけれど、一人の編集者として、これならば伝えられるかもしれないということを書いておこうと思う。

それはタイトルのとおり
「発信とは共感の波紋を広げる最初の一石」だということ。

まず最初に、あなたが発信せんとするそれを、水面に落とす一石だと考えると良いと僕は思う。

その一石を投じるメディアがテレビや新聞雑誌などのマスメディアである場合は広い海を。地域情報誌や地方紙、はたまた地元ラジオなどの場合は、大きな池や湖を。と、メディアのイメージをとにかく眼前に広がる水面と捉え、そこにあなたの発信という石(意思)を投げると考えたとき、重要なのはその石が水面に触れて広がる波紋だ。

僕たちのような個人は、大きな資本のもと、優秀なクリエイターや有名タレントさんを起用した大きな石を投げ入れることはできないけれど、大きな石は波紋が大きい分、沈むのも早い。しかしそこは海。海底に沈むまではとても長い上、そこにさらに次なる投石を重ねていけるのが、大資本のパワーセールス的発信だ。

一方、僕らが投げる石は掌に隠れるほどに小さい。それを海に投げたとて、誰も気づかぬ小さな波紋にしかならない。

けれど僕たちは、その小ささゆえに、同じような石をいろんな池や川に根気よく投げ続けることができる。そしてこの軽くて小さな石は、水切りの要領でスナップをきかせれば、波紋をいくつも連続させたりもできる。

僕はそうやって小さな石でより大きな波紋を広げていくこと。できればその波紋を連続させていくことが重要だと思っているのだけれど、ではその波紋とは何か? というと、それを僕は「共感」だと考えている。

発信しようとするときに、よく間違ってしまうのは「新しさ」への無闇な信仰だ。見たことない。聴いたことない。は確かに「面白い」けれど、その石が生むのは、広がる波紋ではなく、一瞬高く上がる「しぶき」でしかない。

つまり、その石は「未知」なものよりも「既知」である方がいいのだ。

そう書くと、既に知るものをあらためて発信してどうするんだ? と思われるかもしれないけれど、よく考えてみて欲しい。本当にそうだろうか? #metoo も LGBT も その一石は小さな声だったかもしれないけれど、その世界があることをみんな知ってはいた。だからこそ、その波紋は広がったのだ。それがもし、まったくもって未知のものであれば、こんなにも広く浸透しなかったと僕は思う。

つまり、その存在や、その状況、もっと言えば、苦しみや辛さをどこかで体験、または想像しているけれど、これまで可視化されていなかったものこそが、大きな波紋を広げていくのだと思う。

都会的な大資本のもと、大海に投げる大きな石に憧れ、それを常に見本にしてきたこれまでの僕たちは、ついつい「あたらしい」ビジュアル。「あたらしい」考え。「あたらしい」カタチ。「あたらしい」方法。と、新しいものを求めすぎる。

そうやって貴重な建築や工芸や技術をスクラップしてきたのが現代社会だとしたら、僕たちはいまいちど「既知」の価値に目を向けるべきだ。

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