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別府でカセットテープに出合い直した話

 今年になって、仕事のスタイルが変化し、家にいる時間も多く持てるようになってきたので、いよいよ定まってきた自分の嗜好や習慣をつとめて意識するようにしている。その結果、最近は同じ時間にご飯を食べて、同じ時間に眠るという、なんだか健康的な生活だ。特に変化したのは食事で、外食しない限りは基本20時までには夕飯を食べ終えている。伴って不思議なことに、大好きだったモーニングも最近は食べなくてよい身体になってきた。それよりも胃腸を休める時間のほうを身体が求めていることに気づいた(気づくの遅いけど)。

 それでもほぼ毎朝、近所のパン屋カフェには行く。オープンまもなく入店し、朝の時点ですでにランチ用のパンと、直ぐに飲む用のコーヒーを注文する。ゆっくり時間をかけてホットコーヒーを飲みながら、こんな風に文章を書いたりしていたら、いつのまにかお昼を過ぎて、そこでようやくパンをかじる。その際に「ああ~、今日は間違ったかもなあ」とか「バッチリじゃん!」とか、朝一番に自分が選んだパンが昼間の僕の嗜好にあっているかどうかを評価して自ら楽しむ。たった数時間後の自分であっても、それを想像するのは難しく、自分のことなんて自分が一番わかんないものだとあらためて思う。最近はいっそのこと、曜日ごとに買うパンの種類を決めてしまえばいいんじゃないか? と思い始めた。いま僕のなかで空前の「決めておくブーム」が起こっている。

 僕は本業の編集においても、ギリギリまで台割づくりを拒否するほど、予定調和が好きじゃない。講演においても事前に資料を共有して欲しいとか言われた時点で、二度とここの依頼は受けないぞと心に誓うくらい、ただ何かをなぞることにストレスを覚えるタイプの人間だ。しかしそれもこれも、決められた型があった上の話であることを理解してくれる人は少ない。上述の台割も、あくまでもページ数や判型という「型」のなかでの創造性の話であって、ただただ縛られたくないと、ごねているわけではないのだ。例えば、大喜利における芸人さんの自由でクリエイティブな回答に胸踊るのは、言わば、松本人志が生み出した「フリップにマジックペン」という「型」のおかげだ。その型があるからこそ、ここまで大衆性をもったエンタメになっている。「型」は尊い。ただ、題と解が台本で決まっていたらつまらないと言っているだけで、「俺はフリップに書きたくない!」とか言ってるわけではない。

 とにかく来年には50歳になる僕にとって、いまもっとも大切なことが、この「型」を定めていくことのように感じている。そんなことを考えているタイミングで、僕は久しぶりに、ときめく「型」に出会った。

 それは、カセットテープ。

 最近、心身をととのえたいと感じたら必ずお邪魔させていただいている、大分県の由布院。とくに『束ノ間』という宿に惚れ込んでしまった僕は、どうにかして『束ノ間』の良さや、由布院という土地の独自性を伝えたいと、現在の湯布院の基礎をつくった『亀の井別荘』の中谷健太郎さん(89歳)の著書を読んだりして目下勉強中なのだけれど、それなど読んでいると、そもそも由布院は、別府という港を中心に開かれた巨大温泉地に対するカウンターカルチャー的な成り立ちがあることがわかってきて面白い。これもまたある種の「型」あってこその話だ。その理解を深めるためには、由布だけでなく別府についても知らなきゃなあと、いつものように湯布院へと直行せず、1日、別府を散策してみたときのこと。

 有名な『バサラハウス』で最高なスパイスカレーをいただいた後、数人の知人からその名を聞いていた『SPICA』という雑貨屋さんに初めて足を運んだ。『束ノ間』にも飾られていたことで知った、大分県竹田市に住む美術ユニット『オレクトロニカ/Olectronica』の作品など、その魅力的な品々に、編集の妙を感じて、なるほど、友人たちがみんなして薦めるわけだと納得。すると今回の旅に同行していた、スタッフのはっちが、すぐ近くに姉妹店がオープンしているとの情報を見つけて、行ってみましょうと言う。こういうときのはっちのアンテナを信用している僕は、迷わずついて行ったのだが、なんとそこは、カセットテープ専門店だった。

 店名は『puno』。さすが『SPICA』の姉妹店、洗練された内装に見合う鋭角なスタイルで、カセットテープをメインに据えた棚づくりから、別府という町のダイバーシティの豊かさを感じる。別府に着いて真っ先に立ち寄った『バサラハウス』で知ったのだが、別府は国際大学の留学生や、旅人から移住者になった人が多い。それが多種多様なカレー屋さんとして花開き、最近はそんな別府のカレーを #湯のまちスパイスカレー とも呼ぶらしい。ここ『puno』も、そんな別府の雑多で多様でオープンな、別府newカルチャーの一端を担っていることは間違いなくて、そんな別府という街の包容力に、惚れ惚れするような思いになる。

 いまは山形に移転された『のら珈琲』というお店が秋田にあった。その店主の森さんが、カセットリリースだけのインディレーベルを立ち上げ40組以上のアーティストの作品をリリースされている。そんな森さんのお話を伺って以来、ずっと気になっていたカセットテープ。まさかこんなタイミングで……と、旅先のふいの出会いに嬉しみが滲む。

 最近は、BluetoothでスピーカーやAirPodsに直接音を飛ばせるカセットデッキなんかもあり、まるでスパイなAIの仕業か、やたらとfacebook広告にカセットデッキの広告が出てきては、物欲をくすぐられまくっていたんだけれど、フランス製のデッキということもあって「やっぱり実物を手にしてみないと買えないよなあ」と思っていたその再生機までが目の前にあるじゃないか。さあいよいよ追い込まれた。追い打ちをかけるように店主の男性が、置いてあるテープのどれでも試聴させてくれるという。

 僕にとってのカセットテープ全盛期は中学生のころ。同世代の人たちなら、自分なりに選曲したミックステープにレタリングシートという思い出が一様に存在するだろう。今思えばあれが僕の一番最初の編集行為だったかもしれないとすら思う。レタリングシートの文字など、フォントというものを意識した初めての経験だったかもしれない。

 かつてのカセットテープ世代にとっては、なんともノスタルジックなタイムカプセルだと思うが、そこにある音質に対する評価の低さは捨てたほうがいい。試聴させてもらったカセット音源は、もはや思い出のそれとは別物だった。ちなみにカセットテープ=伸びる、という劣化イメージについても、あれは当時のカセットテープ文化を支えていたカーステによる偏見だという。夏場のカーステレオという高温放置状態でテープが伸びてしまうものがあっただけで、ふつうに家で聴いている分に劣化することはまずない。とにかく気になるものを試聴させてもらっただけで、その音質の差は歴然で、そこには再生機自体の技術向上もあるらしいけれど、いまのアーティストたちが、カセットテープという記録媒体をハイクオリティな記録メディアとして認識し、そこに新しい音楽を込めることを素直に楽しんでいることが伝わってくる。

 結局、以前からネットで気になっていたテープデッキ本体と数本のカセットテープを購入。サブスクで音楽を聴くことに慣れてしまっている自分へのカウンターとして、そのうち一本は、試聴せずにジャケ買いもした。

別府で購入したデッキとテープ

 由布院の宿に到着して、いつもの部屋に入り、ひとりカセットテープで音を流しながら原稿を書いていたら、その音とともに、僕がどうしてこんなにもカセットテープに惹かれるのかのすべてが紐解かれていくような思いがした。カセットテープという定型の分数、それは例えば、15分だったり、30分だったり、60分だったり、そういった限られた記録メディアのなかで、片面ずつに無駄なく曲を並べていくという制約ゆえの作り手の楽しさが、それぞれのテープに込められていた。また、そのためにテープをいちいちひっくり返さなきゃいけないという聴く側のフィジカルなアクション(両面自動再生機もあるけれど)も最高にいい。手間は愛を深める装置だ。

 そしてジャケット。昨年くらいだろうか、アメリカでのレコードの売り上げが、CDの売り上げを上回ったことが話題になっていたが、それは、まさにアートとしてのレコードジャケットの魅力も大きいように思う。サブスク時代における音楽アルバムは、音源データがまとまったフォルダの域を超えず、それはある意味で聴くという行為の純粋な結晶として便利で魅力的ではあるけれど、あの無駄に大きいLPジャケットとともに音楽が存在したことを人は決して忘れていない。カセットテープのジャケットはCD以上のコンパクトサイズながら、音楽メディアに対するグラフィックの渇望を満たしてくれる。LPは大きすぎて、縦に挿して並べるしかないないけれど、カセットテープなら思いっきり面出しして飾っても場所を取らない。あぁこの絶妙なサイズ感。そしてLP、CDと違って長方形というサイズとタイトルがしっかり入れられる背幅は、まさにミニブックのそれだ。『puno』に入店した瞬間に感じた空気は、面出しされて並ぶカセットテープのジャケットデザインが醸した空気だった。その多様な可愛さや、かっこよさに僕は音よりも何よりも真っ先に興奮した。

 100×64×12㎜という「型」のなかに込められた無限に、僕は久々にワクワクした。そして何より僕は、作り手の1人として、カセットテープ最大の魅力に気づいた。SpotifyやApple Musicはもちろん、CDやアナログレコードですら真似できないそれは、アーティストが意図した曲順通りにしか聴けないという、まさにカセットテープゆえの「型」の魅力だ。

 若い頃、先輩編集者に「お前のつくる雑誌は、雑誌じゃない」と怒られたことを思い出す。「雑誌というのはその名が示す通り、雑然とさまざまな意見が一冊に込められているのが雑誌であって、お前がつくる雑誌は、お前が言いたいことを最初から最後まで言ってるだけだから、そんなものは雑誌とは言わない」。僕はそう言われて、ぐうの音もでなかったけれど、しかし僕にはそれしかできないんだなと自覚もした。僕は、自分がつくるものはどうしても前から順番に読んで欲しかった。パッと開いたところから読んでもらっても良いとか、こういう人はまず最初に5章を読んでから1章に戻ってもらってもいい。みたいな他人の行動を想像する器用さが僕にはまったくない。だからせめて、自分が体験した順序で、できるだけ丁寧に同量の感動を味わってもらう工夫だけを考えて本作りをしてきた。その結果、後輩の編集者たちに「あなたは作家だ」と言い切られたこともある。それこそ返す言葉がなかった。

 そんな僕にとって「カセットテープ」というメディアは強烈に自分にフィットするメディアだと思った。またお笑いで例えるけれど、僕が好きなお笑い芸人さんはみな、話の「運びが巧い」人で、それは言い換えれば話の順番を間違えない人だ。僕は常にそこにセンスを見る。僕はそういう編集者だから、アナログレコードのようにA面ばかりを繰り返したり、針を飛ばして曲を飛ばしてみたり、サブスクのようにヒット曲だけをループしたり、そんなことができないカセットテープへの愛が膨らんでいった。しかしこれは、僕だけじゃなく、多くの作り手にとっての理想じゃないだろうか。

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