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やさしさの旅03 「隙間と移動とグリーン」

 こんなふうに、フィジカルな体験を僕が好むのは、実感や体感の欠如を感じる場面が増えているからだ。そもそも世の中において、デジタルの万能性が多く語られがちなのは、デジタルが発展性や成長性を内包するゆえだろう。現状の不完全さを余白と捉え、未来に期待をするからこそ、デジタルなモノや技術に対して人々は寛容だ。一方、アナログなモノに対しては、それそのものに成長性や発展性を感じづらいからか、現状を批判して終わりになってしまいがち。けれど僕は、まだまだ実用に問題のあるAIは受け入れるのに、目の前で不慣れなレジを打つ店員さんを見限るような態度に出る社会に、ずっと疑問を抱いている。

 僕はあのデジタルサイネージとやらが本当に好きじゃないのだけれど、それはもう世の中の隙間という隙間に侵食していくあのディスプレイに恐ろしさを感じるからだ。そんな未来をディスプレイ上で楽しむうちはよいけれど、そのうちディスプレイそのものがディストピアの象徴となるような気がしてならない。どうか東京以外の電鉄各社は、扉上の広告や路線図表示をディスプレイにしないで欲しい。ああいう隙間を埋める体質を、地方はどうか真似しないでほしいのだ。空き地は駐車場に、耕作放棄地は太陽光パネルにと、隙間とみればすぐそこに生産性を求める世の中で、人間が疲弊しないわけがない。

 そう言えば以前、Yahoo!知恵袋にこんな質問を見つけた。

「ドラえもんやサザエさん観てるとよく空き地で野球してご近所のガラス割ってますけど、昔ならよくあった事なんですか? アニメの中だけですよね?」

 いつから空き地は、アニメのなかだけの世界になってしまったんだろう。広い空き地はすぐにコインパーキングとなり、あらゆる隙間に生産性が問われるようになってしまった世の中で、カツオのホームランボールがガシャンと音を立てて割るのは、きっと、民家の窓ガラスではなく、数十秒ごとに広告が入れ替わるデジタルサイネージに違いない。



 十和田市から八戸にむけて走るアンリの軽自動車に揺られながら、移動という行為について考えていた。非効率だと、みんなして排除したがる移動時間だけれど、それを補って余りある移動の価値に、気づくか気づかないかで、人生の幸福度は大きく変わる。というのも、一年ほど前だろうか、編集者仲間のあいだでこんな本が話題になった。『むかしむかし あるところにウェルビーイングがありました 日本文化から読み解く幸せのカタチ』(KADOKAWA)。

 予防医学研究者の石川善樹さんと、ラジオアナウンサーの吉田尚記さんによるpodcast番組を書籍化した一冊で、最近よく耳にするウェルビーイングという言葉について実にわかりやすく書かれている。そもそもどうしてこの本が仲間内で話題になったのかというと、ウェルビーイングにおいて重要なキーとなるのが、まさに「移動」だと書かれていたからだ。

 取材などを通して、地方から地方へと移動することが多い同業の仲間たちが、我が意を得たり! みたいな気持ちになって喜んだ。では「移動」がウェルビーイングのキーになるとはどういうことなのか? 書籍の内容を掻い摘むと、まずそれは脳の特性の話からはじまる。脳科学の世界において、人間の脳は何が起きるかわからないワクワク感を好むというのが定説。未来にワクワクが期待出来ないと、人はどうにも現状に耐えられなくなる。しかし一方で脳は、あまりにサプライズが大きすぎるのも嫌がる。つまり脳は、サプライズが大好きなのに大嫌いという、矛盾を抱えているのだという。それゆえ、ほどよく予測不可能な状態をつくることが、脳の健やかさにはとても大事で、それを満たす行為が「移動」にあるのでは? ということが書かれていて、仲間たちがみな、首がもげそうなほど頷いた。

 「旅する編集者」とまで言われることもあるほど、街から街への移動を続ける僕は、日々の生活における「移動」時間はかなりのもの。月の1/3ほどを移動に使いながら生きている僕は、そんな旅暮らしのおかげで、知らなかった文化に出会い、そこにあるスペシャルに感動して帰ってきては、それをアウトプットする。そんな僕の表現の源泉となっている、知らない土地での知らない文化との出会いは、まさに脳が求める「サプライズ」そのものだ。

 しかし先述のとおり、人間の脳は、そのサプライズが過ぎるのも嫌がる。僕は、この矛盾を感じる脳の特性にこそ、個人的な共感を強く感じた。それは僕が長年「海外に行かない」と決めて生きてきたことにある。

 いまの僕を知る人たちはみんな驚くのだけど、僕はずっと旅がきらいだった。一人旅なんてもってのほか、それよりもとにかく家にいたかった。そんな僕が旅の魅力を知ったのは自身が編集長を務める『Re:S』という雑誌を作り始めた30代前半から。それゆえ僕は、若いうちに世界へ飛び出そうといった気持ちを持ったこともなく、また家族もほどよく貧乏だったので、おいそれと家族旅行で海外に、なんてこともなかった。そんななかで日本の地方の魅力に取り憑かれた僕は、海外に行く時間があれば国内の見知らぬ地方を旅するのだと決め、その結果49年間、一度たりとも日本を出たことがなかった。旅を通して感じる日本各地の文化の差に驚きはするものの、今思えば、そのサプライズが決して大き過ぎることはなかった。海外の風習のようにまったくの異文化ではなく、どこかで、同じ日本人という属性に片足をかけていることからくる共感ポイントがそこには必ずあった。

 だからこそ、日本各地でもらう、ほどよいサプライズが、「ウェルビーイング」な状態をもたらしてくれているのだと思う。旅をすることで、僕の脳みそは明らかに活気付く。このウェルビーイングな状態があるからこそ、編集者としてのアイデアがどんどんと湧き上がってくる。まさに僕は移動によって生かされている。

 八戸に到着。

 八戸にやってきたのは、新著に登場する「八戸ブックセンター」と「アンドブックス」に直接納品をするため。しかし、こうやって体験を文章にして、それを本というカタチにして手渡すなんて、まさに非効率極まりない体験。しかしその心地よさと言ったらない。それこそ、書くなんて行為ほど効率のわるいものはない。既にググるなんて言葉が廃れはじめているこの時代、チャットGPT に問いを投げさえすれば、それなりによい回答がもらえる社会で、自らの身体性をもって書くことには、どんな意味が立ち上がってくるだろうか。デジタルカメラの登場が、それまでのフィルムカメラの良さをあらためて浮き彫りにしたように、AIが僕らのフィジカルな体験の強さを立ち上がらせていく。旅はその象徴だ。

 新著を納品後そのまま、八戸ブックセンター書店員の熊澤さんと太田さんと夜ご飯をご一緒することに。ブックセンターからすぐの「味処 七味家」という居酒屋に連れていってもらう。なんだか意外に大箱で、既に10回以上は訪れている八戸のまち、これまで案内されたことがなかったことを不思議に思うくらいに、美味しく且つ、使い勝手の良さそうなお店だった。

 しかし、お通しでいきなりご飯を出されたのは初めての経験。とりあえず、腹一杯にして、ゆっくり酒を飲めということなのか、その意図を想像してみるけれど、どうも正解がわからない。かといって聞くのも野暮だなと、ただ受け入れる。

 地方に行けば、その土地のみなさんに任せるのが一番だし、ましてや信頼できる友人ならなおのこと。勧められるままに注文した海老の変わり揚げが、このビジュアルで驚く。

 それでも中身は海老だし。衣はおそらくごぼうだった。こういうほどよいサプライズが、僕のウェルビーイングを高めてくれている。その象徴のような食べ物だった。

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