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【黄泉の世界より舞い戻った男⑤】

〜〜これまでのまとめ〜〜〜〜
・ロスでUCLA付属の専門学校で広告とマーケティングを学んで、現地のTV局へ出勤途中に交通事故にあう
・50日間意識不明から生還・ただ意識が回復しても、記憶もくっきりちゃんと戻っているわけではない
・Ronald Regean UCLA Medical Centerという大学病院を経て、New Vista Post-Acute Care Centerにてリハビリへ移る
・同室のおじさんのテレビ音がうるさくて、訴え続けたら病室を変えてくれた
・Chewing Testのとき食べた大豆がすごく美味しくて、感動した!!食べられる幸せを噛みしめる!
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今回は《アメリカの病院での食事編ver.2》ではないです。
ver.1と2の間に実はちょっと大きなことがあったので、それを書いていきますね。


事件の予兆はありました。
その時は身体が重たいと感じた3月下旬頃。
でも、早く退院したいという一心で、別にリハビリには支障はないだろうと、自己判断の元、リハビリを行いました。
リハビリを担当してくれた医師に「一刻も早く帰国して働くためにリハビリしないといけない」と思いを伝えていたので、リハビリを無理して行っていました。
彼は「体調が悪そうだからくれぐれも無理をしないで、すぐに辞めてね。決して無理しないでね」と言ってくれました。

その時は車椅子から実際の普通の椅子に移るっていうリハビリでした。

映る際に腕で身体を支えるのですが、踏ん張った際に気持ち悪くなってしまい、意識が遠のきました。

どうも身体の免疫力が極端に下がってしまったため、院内感染にかかってしまったようです。

主治医から、リハビリすることへの禁止の命令が出てたらしいです。
「らしい」とは本当にリハビリできないほど、昏睡状態で「ヤバかった」ので聴いてません。

ですけど、
禁止令といっても、その時、私はリハビリできないくらい身体が一瞬にして弱ってました。意識をギリギリつないでいる感覚で、医師の話を聞いていました。
ですが、医師の話を聞いた後、意識が飛んでしました。

そこから2週間くらい意識がなかった。。。
院内感染の影響により、4月日本へ帰国する予定がゴールデンウィーク明けに。。。
更に遠のく内定した日系企業への就職。。。
絶望しかなかったです

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ただ覚えているのは、その絶望感と不安感と3月30日は自分の誕生日だったんですが、ベッドの周りでバーバラ他看護師さんたちがhappy birthdayを歌っていたのを薄い意識の中記憶にある程度


いつ就職できるのか、そもそも日本へ帰国はいつか、というか、
なんで死ねなかったのか
だって
交通事故と院内感染と2回も死ぬチャンスがあったにも関わらず


ずっとその陰な感じでしたけど、
どういうキッカケかは忘れたけど、逆転的な発想ができるようになりました。

2回も死にかけた→俺強い、誰も経験したことない事やっちゃった。2回も中々死にかけられない
障害持った→比較するのは違うけど、乙武さんみたいに手足が無いわけじゃない
先が見えない→アメリカで入院する人なんてレアな体験してる。帰国後は日本の病院で入院する事になるだろうから2ヶ国で入院って凄い
中々就職できない→それでも待ってくれている企業に就職した俺はスゲー

こんな感じで発想の転換をしていきました。

今こう考えるとその発想の転換できたのスゲ〜ですよね

《ここから学んだこと》
・事故と院内感染より、2回も死にかけた人は中々いない
・自分は生きている
・現状は変えられない
・発想の転換の重要性

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