東洋思想回帰を望む(空海の夢の先にあるものとは?)

近現代史にアングロサクソン(七つの海を支配した大英帝国、その実態は豊かだったインドから最後の血の一滴まで吸い取り、清国にはアヘンの毒ビジネスで共に崩壊させたグローバリスト国とその後継、好戦主義が何時までもやまない米国帝国を指す)に、この地球社会をコントロールさせ続けてきたことは人類の間違いだったと誰もが気が付いている。最近の米国大統領選をめぐる米国内混乱(政敵つぶしに州裁判所など国家の司法機関を権力が勝手に使い放題)を見れば、この国が民主主義の旗頭の日があったこと忘れてしまう。
これまで何度も「西洋の没落」(西洋思想のみならず軍事面での米国、NATO、EU連合による手前勝手なダブルスタンダードにより世界を混乱に貶めたことへの反省)が言われてきたが、代替的パワーになりうるNEW BRICS+(グローバルサウス)興隆のほうも、方向は見えてきたが実現には時間がかかりそうだ。中核である中国は習近平「共同富裕」路線の名の下に行われた政策ミスの数々を見れば世界が望む経済運営は無理だろう。中国GDP3割を占める不動産セクターの不良資産化(GDP100%超といわれる、日本80年代のバブルのケースはGDP 2割レベル)の本格処理は外せない。習主席の自分だけよければ方針からくる中国経済社会疲弊、若い世代の犠牲、大陸内に置き去りの数億の民の犠牲が続く、ただ「中共独裁体制ファースト」だけが生き残る最悪のパターンしか見えてこない。昔からのインドとの確執もBRICS+リーダシップをめぐる基本問題の一つ。これでは米国帝国に代わるカウンターパワー出現には時間がかかる。
それでも、「西洋の没落」に代わる東洋思想とアジア台頭には期待したい。

炎暑下の緑陰読書とはいかずも、熱中症避けながら、上記世界情勢改善に光明を見出すべく「空海という生き方」を焦点に、東洋思想回帰の一端を考えてみる夏になった。
国民的人気作家の司馬遼太郎が、「空海の風景」を書きあげ1200年前を説き起こしたが、空海思想の哲学的内容まで切り込まず、遠景を彼独特の調査結果、情報量の多さで空海像を撫でたレベルに留まり「リアル空海」が浮かんでこない。平安仏教の時代風景、インド中国日本と3国をまたいだ先進文化である仏教哲学と、当時の地政学中心地域である東アジアにおける異文化交流のダイナミズムに触れずばリアルが見えまい。
無神論の司馬遼太郎だから、宗教詳細には踏み込まないということかな?
宗教は「支配の道具(民を飼いならす)」が彼の言葉にあった事が気になっている。

代わって思想哲学者の梅原猛はいう、日本列島上に長い時間かけて形成された縄文以来の「原日本思想」があって、空海が現れるまでは民族的な癖(プリミティブなレベル)に留まっていた。奈良の神聖なる山、三輪山に神を感じるなどその典型。
インドと中国の哲人たちが作り上げた東洋思想としての「釈迦仏教」(紀元前5世紀)や「大乗仏教」(紀元1―2世紀以降)の初期仏典類;例えば般若経・法華経・華厳経・浄土経あたりから当時の支配的な東アジアの哲学の骨格が浮かび上がってくる。
その大波を受けて、大陸から離れた村社会的大和国では、マザーネイチュアの自然神を有難く頂いてきた習性もあり人々は頭をくらくらさせて驚いたに違いない。上代の聖徳太子や奈良以降支配層が必要とした「護国仏教」と受け取られ、司馬氏のいう「支配の道具」であったのは確か。おろおろと学び取るだけの知能とは異質な創造的な才能が求められた時代が続き、それが8―9世紀の「空海出現」の意味となって現れたものと解釈できる。
個人的には仏教といえば、葬式仏教的にしか理解のないレベルだが、幼いころ祖父が曹洞宗系だと説明したことを思い出すのみ。見回せば仏教寺院や信者数で多数派は、親鸞の浄土真宗、続く道元の曹洞宗(禅)あたりになる鎌倉以降の仏教が日本の宗教風景。日本で信徒数いちばんは親鸞の宗派だが、真宗開祖の親鸞はインド仏教開祖の竜樹の名は知っていたようだが中国仏教・仏典やインドからのサンスクリット語の刺激に遭遇したのだろうか、日本に来たインド僧達と宗教論争したであろうか。

東洋思想という観点で、改めて「空海の生き方(西暦774-835年)」を眺めてみることで東洋思想の一端にアプローチしてみたいが猛暑の中の思い。関連書物を眺めてみて高野山の奥深く息づいている空海思想への関心は、以下3項目に収れんした。今後時間を見つけては自分なりに更に探求してみる所存。

①     先ず空海が和語・漢語・サンスクリット語を駆使しながら真言密教という新しい宗派を建てたその言語能力(外国語能力)レベルの高さに驚く。
外国語専攻した身としては、空海の長安留学2年という短期間において、漢語や梵語を自在に操り、外国人たちとのコミュニケーション力を身に付け、新宗派を建てるまでに上達するのだろうかが素朴な疑問。幼き日の家族、佐伯氏の教育環境から、当時の高級官僚エリートコースが約束されていた空海の若き日。師匠の阿刀大足氏の教育から漢語、梵語を含めかなりの知識レベルにあったろうことは想像が付く。そういう中、大学修習のなか密教経典「大日経」に巡り合い、秀才空海(当時は佐伯真魚か)の勉強熱に火が付き、山岳修行を経ていつか長安留学実現への思いが募る。
31歳で遣唐使として当時最大の国際都市長安に赴き、世界の数多の民族とそれらが信奉する多くの宗教に接して空海の知的好奇心は最高潮にあったのは想像に難くない。
その空海が長安から先、仏教誕生の地インド迄足を延ばさなかったのは、やはり衆生救済と祖国護国が先で、自身の「悟りの究明」は次善命題であったのか?

②     奈良仏教(南都六宗)からライバル最澄の天台宗までの顕教(当時の主流)を超えるものとしての真言(言葉による宗教)派を作った意味はどの辺にあるのか?
幼き日から奈良仏教のシンボル毘盧遮那仏(大仏)を眺めては、いつかこれを超える仏教をと思っていたのは確かだろう、当時は奈良仏教は民から乖離した(空海としては許せないまでに)衆生救済とは無縁なものだった。悟りの境地と衆生救済を実践してみせる空海密教への道が始まる。
(その2へ続く)

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