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『ゴジラ-1.0』鑑賞 感想と妄想


令和の純国産ゴジラに人間臭さを、そしてあの映画へのオマージュを観た


怪獣王作品に積もった思い

 特撮やゴジラマニアではない。50手前の男と来ればの怪獣育ちであろうと言ったところである。生まれ年には昭和ゴジラシリーズは終わりを迎えていたが、長期休みになればテレビで昭和ゴジラは時折放映されブラウン管の前で胸躍らせていたものだ。ビデオが我が家に来た頃にはゴジラゴジラと騒ぐことはなくなっていたような。が、それでも84年のゴジラは劇場に赴いた、が、その後の平成ゴジラはほとんど鑑賞していない者であると言っておく。
 
 ハリウッドで続くモンスター・バースの世界観は嫌いではない。一貫して現実世界としての世界線の設定を守る感じ、モナークという組織が齎すあの感じは例えばUFO関連に於ける米国政府がひた隠す黒づくめ組織の存在という現実感への繋ぎとしての役割を上手いことフィクションに齎している(『M.I.B』のあれ)し、東宝怪獣たちへのオマージュも心地よいし、それは金の掛け方にも表れているだろうか。賛否あろうが、個人的には往年の怪獣好きにも案外受けいられているのではないだろうかとも思っている。

 2016年の『シン・ゴジラ』が今作以前に於ける国産ゴジラ最新であったこともあり、多くの面で比較対象になっているであろうが、シンは言わば「庵野作品」というジャンルであって、それはエヴァであれマンであれライダーであれ同様であるのではないかとかなり強引であるが個人的には思うのだ。
 特撮へのオマージュであり、現代社会国家の問題点というこの国の現実に大怪獣という虚構をぶつけることで生まれた大袈裟に言わせてもらうと神話であったと思うのだ。そう、『シン』は神話のキーワード多く対ゴジラ作戦名がヤシオリであったり(エヴァもそうか)あのゴジラもまるでゴジラの姿をした使徒のような、意思の見えない、生物としての感情が見えない存在だった。神の化身のような。目に意思が感じられない造形は初代ゴジラのどこを観ているのか分からないような左右チグハグな魚の目のような、余り具体的に語るのは憚れる身体的な怖さを思わせた。
 全身造形もどちらかと言えば初代を思わせる筋張った感じ。躍動感と肉肉しさを感じない、病んだものを感じさせたし、そう、彼(雄?)は病んでいた。病んだままに上陸し苦しみ続けているように僕には見えたのだ。自らの意思で動いているのではない、病人が蝕まれたまま徘徊しているかのようだった。巨大で神々しさにも満ちていたが。
 個人的にはあの熱戦を吐く姿など悲哀に満ちていて、酒を飲みすぎて路上で吐いて苦しんでいる者のように僕には見えたのだ。もう体内に嫌なエネルギー(アルコール)が満ちて満ちていっぱいで
「ゴメン!もう出る! グッハーー!!!!苦悶」
と見えてしかたなかった。背中さすってやりたい優しさすら芽生えた。齎した結果は我々からしたら地獄絵図だったが。
 虚構(神話)を現実とぶつけ我々に否応なしに見せつけたものは、人間が安易に手を出し失敗した原子力という神の如く力がもたらしたどこかで見たような永遠に冷却が必要な暴走怪物「発電所」のようなその姿であった。東京駅というこの国のこの首都のランドマークその場所にだ。なんて残酷で皮肉な神話であったのだろう。

 そして今作『ゴジラ-1.0』である。公開初日ツイッター現Xには「ゴジ泣き」なるハッシュタグ付き感想が溢れていた。人間ドラマに焦点が当てられており、泣きのツボに満ちていたと。
 あの戦争を描く。文芸であれ映画であれあらゆる表現であの戦争を描くということは表現者としての覚悟が必要ではなかろうかと鑑賞側としての身構えを勝手してしまう。これは僕個人のいつもの思いなのだが、安易にスペクタルに振ることも悲劇としての涙物語に振ることにも憚られる、重さを思ってしまうのだ。初代作は1954年公開であるが、逃げ惑う都民の中から「あの空襲」を思い起こさせる旨のセリフがあるが、今作はさらに焼け野原そのものの終戦直後まで遡るのだ、どこまで描けるのか、あの戦争をと期待と不安は膨らんだ。

調和の妙、お見事なり。 ネタバレ注意!

 何度か途中集中を断ち切るような場面はあるのだ。それを言ったら・・なんてことなのだが、エキストラから主要人物の健康的な肌艶の良さだとか肉付きと焼け野原が重ならないだとか、小綺麗な身形だったり、朝ドラみたいだとか。(個人の感想です。すみません。)
 危惧した戦争への踏み込みはそれぞれのあの戦争をそれぞれが終わらせる。が今作の主題であるのだが、戦後を生き抜いてしまった(しまったという罪悪感の強さに終戦から未だ浅い時の経過を思わせる)ドラマの要素を全面に出し過ぎでは、お涙頂戴要素が山盛りで、そこまで感動演出に振り切ることもなかろうにとも。
 だが、それにしてもそれら穿った印象を頭に埋め戻す力のあるほどの演出の調和、素晴らしさであったと思う。
 
 今作のゴジラにはハリウッド版のような肉感、躍動感がある。熱戦を吐く際の背びれの演出にはまるで『シン』のような生物とは思えない異形の怪物と言えよう不気味さも感じ入った。それぞれのゴジラの持つ特徴を取り入れつつ、やはり一番大切なのは身長が50メートルに戻ったことだろう。
 昭和ゴジラは50メートルだった。東京タワーも霞が関ビルもないあの頃は50メートルは巨大だったのだ。見上げる高さは低かったのだ日本人は。我々の焼け野原からの戦後経済復興の自覚とは建造物が縦に伸び見上げ続けたことで記憶に刻まれていったこともあるだろう。結果悲しいことに国家の発展はとっくに終わったにも関わらず我々は高いビルを未だ作り続けてしまう。虚しくも。
 ゴジラも伸びた。平成以降伸びに伸び、都市のビル群にも演出上負けないようにということもあっただろうが、それだけではなく巨大な他の怪獣と戦う設定のために100メートルをも超えた。
 今作の山崎監督がゴジラの目線を意識したという50メートル戻しの演出は見事で、復興が進んだ銀座を蹂躙する際のビルの屋上からちょうどゴジラの顔が覗く画に震えた。大きすぎると怖くないのだ。
 
 そう、震えたのだ。何度か震えた。怖かった。ゴジラ。自分が大人になったのに。
 死をぼかさずに描いていたと思う。あの足で口で一瞬で殺される残虐を。大怪獣襲来に震えるという怪獣映画の楽しみ方をこんなに味わえるとは思っていなかった。
 そして、お涙頂戴感動ドラマ詰め合わせなんて観たくないなんていう捻れた人格を笑うかのように、我慢のやはり震えながら気づけば目頭を熱くしっぱなしの自分がいたw  自分は大人、いや、ただの涙もろいオッサンになっていたのだった。
 これでもかの人間臭いドラマの応酬と怪獣王の復活は全体見事としか言いようがなかった。

過去作含め嬉しい演出、そしてあの映画へのオマージュも?

 ここからは余談だが、気づいた点や嬉しかった点について。
 
 ゴジラに銀座を襲わせてくれたことは本当に嬉しかった。初代作オマージュであろうVFXで表現された四丁目交差点通過、ラジオ実況放送、服部時計店、有楽町日劇、交差点すぐ脇のあの国電高架にて列車襲撃。やっと全身動画で電車を咥えまさかの客車内まで。

 終始荘厳で悲壮感漂うシンフォニーが美しく重さを演出するが、何よりも伊福部昭ゴジラテーマ、マーチである。
 やはり人間の対ゴジラ作戦出撃にあのマーチBGMは震えるもの。

 
 ここから一点、僕個人の妄想に過ぎないのだが、山崎監督が映画監督、特殊効果演出家を志したきっかけとなった作品の中に『未知との遭遇』があげられている。言わずもがなスティーブン・スピルバーグによる脚本、監督作品である。
 『ゴジラ-1.0』予告編を観た時に気づいたのだが、本編を鑑賞し妄想ではあるが、確信したことがある。

 佐々木蔵之介演じる海軍上がりの荒々しい海の男、新生丸艇長 秋津=クイント
 吉岡秀隆演じるチリチリ頭銀縁丸メガネの学者 野田=フーパー
 主人公 敷島にブロディはあまり感じないが、抱えたトラウマ、宿命と戦うために木造のボロ船に乗る覚悟をする。

 なんのことだろう。僕は予告編で新生丸が後方から迫るゴジラから必死に逃げる艦上からゴジラの水面からの顔を捉えたシーンを見た瞬間に
「あっ!『ジョーズ』!」
と思った。スピルバーグ監督のあのジョーズである。山崎監督のスピルバーグ・オマージュありえると思うのだ。
 他にも口内からの攻撃が効果的であり、爆発物である機雷を口内で起爆させるという作戦も『ジョーズ』における最後の戦いにおいて同様の理由でスキューバ・ダイビング用の酸素ボンベをホホジロザメに咥えさせライフルによる銃撃で口内で爆破、勝利するということにもだ。
 『ジョーズ』に於けるオンボロ木造鮫狩漁船オルカ号船長ロバート・ショウ演じるクイントは作中で自身が第二次世界大戦中海軍に所属し、日本へ投下された原爆を米国本土からB-29出撃地テニアンまで運んだインディアナ・ポリス号に乗艦していたことを伝えるシーンがある。核実験が特別変異を齎し人類の脅威となる怪獣を目覚めさせたということと、このクイントのエピソードに監督が何か思い入れがあったかどうかなんて妄想に過ぎないが、それぞれが、なんとなく細い一本繋がったオマージュを感じさせると思うのだが。

 令和の世に最新技術で蘇った恐怖の怪獣王、そして迎えた宿命と戦う者たちの物語。
 劇場で観ることを薦めたい。

 2時間あっという間。
 


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