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『夜が明ける』西加奈子(新潮社) 読書感想文

ありふれているのかもしれないが、溢れ目にすることはなくその闇は個々人に抱かれている 

 境遇を思わされる。強烈で暗く、苛烈残酷で、それらを容赦無く伝えようとする作者の強い覚悟を真正面で受け止めているような。社会に伝えなければ、その社会を形作っている世間にその世間を感じ生きる誰しもが抱えている個人の闇を、そしてその暗闇の根源となる育ちの環境を。そういう覚悟が容赦無く。
 
 好きな小説家がいる。この物語を描いた西ももちろん好きなのだが、長年その作家の言葉を追ってきた気がする。彼は80年代に芥川賞を受賞後、その若さと勢いで持って強力な武器のような言葉を綴り発表し続けてきた。常にエッセイと小説が対であるかの如く、どちらにも綴られる、自分がこの国を言葉の力で変えてやるとでも言いたげなほどの。政治、社会、経済、サブカルチャー、スポーツ、性愛あらゆるに喧嘩腰のようなその表現が変化を見せ始めたのは90年代の後半に入ってからだった。だんだんとそのエッセイに「諦め」のような弱さが見えてくるようになった。この国の衰退が目に見えて実感となって誰しもに感じられ始めたその頃からだ。政治、経済への言及が減り、嘆きを伴った言葉が増え、最後に「でも、どうしたら良いのかは分からない。」という締めの言葉が増えていった。
 それでも彼のエッセイには、こんな希望の無さが続けば、きっとこんな奴らが現れ奇跡や悲劇が起きるかもしれないし、そんな彼らのような存在がこれからの生きるだとか、希望ということへのヒントになるかもしれないとでも言いたげな、その後発表される長編小説の世界への切っ掛けのような言葉は綴られていた。そして2010年代初めに彼はエッセイを発表することを止めてしまった。
 闇が深くなるばかりの希望のないこの国、社会に自らの言葉投げかけ続けることに思うところあっただろうか。

 この国が元気だったと言われているそのかつて、この小説に登場するような人物は存在していなかったのか。そんなはずはないだろう、生まれの境遇の不平等さ、貧困、最近ではネットで目にする機会も増えた毒親の元に生まれること、反出生主義、先天的な障害、生まれ環境からの愛着障害、それを要因とするパーソナリティ障害、いじめ、差別、DV、あらゆる世間に蔓延るハラスメント。それら全ては常に存在し、苦悩し続けてきた個人の歴史はあったのだ。つまりは、この強烈苛烈で鳩尾を拳で突き上げられている感覚をもたらす特別な物語にあるこの闇は人類の存在と常に共に、個々人中に深淵となりあり続けている、つまりはありふれた現実なのだろう。
 では今何が変わったのだろうか。意識の変化はあろうがニンゲンの仕組みが大きくは変わっていないとして。
 社会が世界がこの世が変化したのだろう。その世界を変えたのはやはり変わらない個々人の奥底に常に漂うその暗い闇の感覚ではないだろうか。あの大戦後、それら苦悩と共にあろうとも我慢という戦いを続けていればきっと良くなるという、繁栄という幻想に乗った気になり信じ込んできた我々はその希望を失ったことで、自分の中にある闇の苦悩と真正面に対峙する時代を迎えた。その結果がこの物語においても立て続け登場人物たちを襲う現実だろう。
 弱い者はさらに弱いものを叩く(ブルーハーツの歌詞にあったね)自らの中での抗いに負けそうな者は身近な弱い立場の者を叩くことでしか生きられないのだ。前述したハラスメントやいじめ、加害者は自らの問題を他者に依存することでしか。
 主人公や、彼を救う者たち、勿論アキもだ、彼らはその自らの境遇がもたらした自分の中の闇との戦いに於いてそうした弱い者を叩くことはしなかった。いや、出来なかった側のニンゲンだ。そして世間に於いてそういった彼らは叩かれる側の存在となるのだが、本当の強さとはそれでも外を、外の何かを誰かをそれらのせいにして叩かないということだ。彼らは弱くない。本当の弱さがここには加害という形で表現されている。繰り返すが、彼らは強かったのだ。森や遠峯に至ってはその強さを抗いという形で弱さに溢れたこの世の理不尽と対峙する強さまで抱いている。
 そして、この物語の中で彼ら登場人物それぞれの境遇の中にさらりと触れられている逃げた者たちを僕は思う。自死と思われる主人公の父。家族を捨て逃げた彼らの親たち、テレビ制作現場から「飛んだ」者たち、闇との戦いをこれ以上は無理であると逃げた者それぞれを。
 ずるいと言い切れない多様な思いを抱え、逃げた勇気を僕は思う。きっと彼らひとりひとりにクローズアップすればこの物語のような個人史が浮かび上がることもあるだろう。
 逃げは手段だ。壊れてしまう前にそれが出来た者もそれは強さだ。そしてこの物語が伝えてくれた助けを外に求めることも強さだ。その強さを恥の感覚で持って閉じ込めたこの国のかつてと今を思う。全てのこの国に生きる誰しもが閉じ込めたそのかつてに抗う時を今迎えているのではないだろうか。

 救いを求めたこの物語の主人公に夜明けの気配が訪れる。それは著者から読者に届けられた贈り物のようにも。そうだこれは物語、小説、フィクションなのだ。だが、物語はまた力だ。この国に投じた著者からの抗いなのだ。
 そんな奇跡、フィクションの世界だと思うことは自由だろう。だが、本当は強い弱いとされている者者が声を上げ救いを求めることで何かが変わる「かもしれない」それは力であり、当たり前でなければならない正当だ。
 アキもそうだ。無知であり、変えることのできないその生まれの境遇が齎し失わせた救いを求めるという行為。だが彼がFAKEに救いを求めたあの夜、彼に訪れた残酷な奇跡のような現実、主人公から与えられた唯一の自らが自らに許した存在理由、誇りと言っていいだろう北欧の俳優に自らを重ねるという支えが身を結ぶという奇跡。彼にとっての最も明るい夜明けを迎えることとなるその物語の力に救われる。

 希望を失ったこの国に夜明けは訪れないだろう。僕はそう思う。弱い者が弱いと思い込んでいる優しき強い者を叩くこの世界は続くだろう。
 だが、近年ネットの普及であったり、その闇の存在を共有という形で認めるうねりが起きていることも一つの希望ではないだろうか。声を上げ、助けを求める声が重なった時例えそれがネット上であってでも、現実の世を動かすこととなる薄明かりが近年ここにはあるように感じるのだが、どうだろう。この小説の力もその一つであると僕は信じている。

 本当は強い優しい者たちに、夜明けが訪れることを強く祈る。
 文学の力を信じられる物語だ。

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