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安楽死について思うこと

先日韓国語能力試験の対策をしていたのだが、作文の一つに「捨て犬の安楽死についての意見を述べよ」というものがあった。ということで、今日は人間の安楽死について個人的見解をつらつらと語ろうと思う。


結論から言うと私は安楽死肯定派だ。そもそも誰かの”死にたい”と言う気持ちを、それまでの過程や背景、その人の感じていた苦しみを知り得ない第三者が口を出すべきでないと考えている。極端な話、安楽死に反対するならその人が安楽死しなければいいと思ってしまう(それでは議論にならないのは承知)。


むしろ安楽死が認められて”辛くなったらいつでも死ねる”と思えることで、もっと日常が生きやすくなるのではないかと考える。
辛い時に逃げ道がない人ほど極限まで追い詰められていってしまう。追い詰められるにつれて視野も狭くなるし、目の前の辛いことから目を逸らしたり逃げたりすることがもっと難しくなって、最終的に自殺を選ぶ人だっているだろう。そういう人たちが、あと少し生きてみてダメだったら安楽死しようと思うだけでどれだけ心が軽くなるか。

私がこんなところで熱弁したところで、結局伝わらないのだと思う。

死にたい人に寄り添えるのは、死にたいと思ったことがある人だけだ。死にたい人が死にたいと思ったことない人に相談しようと、ほしい言葉は何一つ言ってもらえない。しかし相手が悪いのかといったらそうではない。
ただ、私がほしいのは「そんなこと言わないで」でも、「死なないで」でもない。そしてそれを伝えることもできないし、伝えても解釈の齟齬は解消しないまま、きっとわかりあうことはできない。

自殺しようとした人を助けて表彰される、というニュースもたまに聞くけれど、いい気持ちになったことがない。助けた人にとっては”人は最期まで人生を全うすべき”という信念のもと行動したまでに過ぎないのだろうけど、本当に、本当にそれは”死にたかった人”にとっても正義なのか。

今までたくさん辛いことがあって、乗り越えようとなんども頑張ったけれど、もう限界だった。心も体もボロボロで、他に選択肢がなくて、死ぬしかないけれど、やっぱり死は怖い。怖いけれど気持ちを奮い立たせて、やっと、やっと楽になれると思ったのに、助けられてしまって、失敗する。そして、苦しみはこれからも続く。助けられてしまったせいで。

でも、誰も責任をとってくれない。抑えられないほどの苦しみ、悲しさを、誰かが代わりに背負ってくれるわけでもない。良いことなんて一つもないのに、助けた人は、世間から称賛され、死のうとした方が世間から叩かれる。

ただ、死にたい人の気持ちに寄り添える人が増えればいいなと思う。

結局、海外で安楽死が合法化されている国を見ても、お金さえ払えば誰でも簡単に死ねるとかそういうわけではない。

死にたい人が苦しみから救われる方法はまだまだ少ないけれど、死にたいという気持ちを否定するのでなく、耳を傾けられる人が増えれば、もう少し世界は優しくなるんじゃないだろうか。

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