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短編小説「アオとミライ」セルフライナーノーツ


「アオとミライ」という短編小説を発売してからもう、一ヶ月が経った。ふと思うことと、忘れたくないことがある。
あれから私の世界がどう変化したのか記しておこうと思う。

実はあの時、作品を書くきっかけをくれたのは1人の女性だった。
彼女の名前は、ハイリちゃん。
元々ハイリちゃんは自分で個展を開くほどの度胸と根性がある、「生きている若者」という印象だった。私はそんな彼女に近づきたくて、SNSという場所から彼女を引っ張り出し、会うことにしたんだ。それが去年の秋。やや緊張するなかでの初対面だった。
そこで私は彼女と数時間を過ごし、文学について熱く語る中で、やっぱり彼女に感じた魅力があった。それはひとつ、初めの印象とズレのないもの。「生きている若者」だというアレ。それともうひとつ。実際に話してみると彼女には、「人の目を気にする」という怯み(ひるみ)が一切無かった。
どこか妙に自分を信じている。疑わない。
その強さが私には驚異に思えたし、なんとも羨ましかった。それは人間として美しくて、「その生き方を、少し分けてくれよ。」とさえ思ったもの。それでその夜、私はなんと無く今のままの自分がダサくて、可哀想で、勿体無くて。居ても立っても居られなくなりペンを走らせたのだった。そうして出来上がったのが「アオとミライ」だった。

作品を描いている時の私は、社会という柵の中からトリップして。無我夢中で息をすることも忘れてしまうほどペンを踊らせ続けた。本当にほんとうに、書くといことが呼吸のように染み付いて嬉しくて、それは誰にも邪魔をされない私だけの色を付けた景色だった。それはちょうど5歳の息子がお気に入りのシールを集めて、ワクワクしながら自分のシール帳にズラズラ貼りまくる時のアレに似ていたと思う。
ただ、ただ、心が踊る時、
「人の目」という恐れを外した自分がいた。

それはきっとハイリちゃんのおかげ。彼女の姿勢に教わって、自分を信じることができたから。作品を自由に描けたのだと思う。



仕方ないことだけど。
この世界には、死んだように生きている人間が大勢いるんだ。それは魂の話。例えば、
「自分」という個性を殺したまま生きている大人がわんさかいる。「自分」という光を誤魔化すことを正しいことだと、教わる子供がたくさんいる。「自分」よりも「普通」を意識して、叩かれないように過ごしている人間がわんさかいる。私もよくそんな大人になりがちだ。ただそれは一見、誰かの為のように見えて、実は誰の為にもなっていないんだよね。


本来の「生きること」っていうのはきっと、誰に馬鹿にされても、罵られても、鼻で笑われても、自分の可能性を信じた結果、やっとの思いで得られる素敵なエネルギーのことを言うのだと、今回わたしが肌で感じた。
あの日に出会ってくれたハイリさん。そして「アオとミライ」を手に取ってくれた皆さまのおかげです。




「アオとミライ」を読んでくださった皆さんは、私に感謝と優しさを返してくれました。
それで私はようやく、「自分を信じること」が、悪いことではないと心の底から感じられたのです。自分の可能性を、勇気を出して世に放つことは、アリなんだと。生きることへの希望を感じられました。

自分の力だけではここまで来れませんでした。作品を作るために、支えてくれた家族、先生、読者の皆様のおかげでようやく私は「自分」を生きることへの一歩を踏み出せたのだと思います。

失敗のないところに、成功も感動もない。
舞台に上がるとはそういうこと。
生きるとはそういうこと。そう胸に聞かせて
私はもう、次のプランを描き始めています。

退屈になんてさせないよ。
これからも、恐れを抱えて進んでいく。


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