見出し画像

耳を傾けなくていいこと

日本の学校ではずっと、「先生の話をきちんと聞きなさい」と教えられて育つけど、社会人になった今、「聞かなくていいこと」が社会にはたくさんあるなあ、と思う。

この国には、「他人に迷惑を掛けない子」、「聞き分けが良くて手の掛からない子」、「大人の期待に素直に応えてくれる子」を良い子として評価する風潮がある。
わたしもそうやって教育を受けてきて、幼い頃はもっと持っていたはずの好奇心とか冒険心、発想力のようなものが、いつの間にか萎んでしまったように感じている。

もちろん、その原因が全て「学校のせいだ」とか、「先生の指導のせいだ」と言うつもりはない。それでも、「前にならえ」で規則に従わない生徒を罰し、厳しい服装規定でみんな同じ制服を纏わせる日本の学校の制度は、少なからず子ども達の個性や自主性を奪う原因になったのではないかと、大人になった今では思わずにいられない。

子どもの性格や環境によるところも大きいと思うけれど、わたしの場合は特に、学校での苦い経験やトラウマが、今の人格に大きく影響してしまった気がしている。

とにかく「大人の指示に従う」ことが、波風立てず、自分も相手も傷つかない「正しい」ことだと信じてきたわたしは、良くも悪くも素直で、他人を疑うということができないまま大人になってしまった。

もっと自分の頭で考えて、疑って、情報を取捨選択しながら聞くべき話でも、「そうなんだ、分かりました」とそのまま鵜呑みにして終わってしまう。

たぶん、「いい子」でいなきゃ、迷惑を掛けないようにしなきゃ、と思いすぎているのだ。もうそんなことはいい加減、自分でも分かっているのだけれど、長年染み付いてしまった思考の癖はなかなか抜けてくれない。

「耳を傾けなくていいこと」も世の中にはあるのだと知れたのも、つい最近のことだ。

特に、「他人から聞く誰かの評価や噂」ほど信用できないものはない、とわたしは思っている。「この人はこうだから、こうした方がいいよ」という類の忠告は、話半分で聞いておけばいいのだ。だって、そんなのは「その人が個人的に感じた主観的な印象」に過ぎないんだから。こういう忠告をしてくる人達は、あたかも自分の意見が「客観的に正しい事実」であるかのように話をしてくる。でも実際はそうではない。彼らが受けた印象というものは、「特定の人物が特定の状況で感じた、主観的で限定的な印象」でしかないのだ。

頭では分かっているはずなのだけれど、普段一緒に仕事をしている仲間や上司に言われることは、つい「そうなのか」と鵜呑みにしてしまう。相手を疑う理由も無いし、言葉をそのまま受け入れてしまう方が楽だから。

でも、ようやく最近、それではダメだと危機感を抱けるようになった。
それは「人を信じるな」ということではない。「聞いたことについて自分の頭で考えろ」ということだ。

「聞かなくていいこと」、「聞き流していいこと」、「聞くべきではないこと」が、この世の中にはたくさんある。学生時代や、社会人になりたてだった頃は、正直それらを区別することがほとんどできていなかった。
だから色んな人が好き勝手に言う「耳を傾けなくていいこと」をいちいち真剣に受け止めて、その結果たくさん失敗してきた。

そろそろ、今度は今までの失敗を糧に、自分で考えて「聞くべきこと」と「聞くべきではないこと」の取捨選択ができるようになりたい。ただ素直に受け止めてきたこれまでの習慣を変えるのは難しいけど、「本当にそうかな?」と一旦冷静に物事を客観視するクセを付ける練習をしていこうと思う。

そして、自分が「人生の先輩」として誰かを指導する立場になったときに、自分のやり方や意見を後輩に押し付けるのではなくて、「わたしのやり方は一つの例だから、あなたに合うやり方を一緒に考えていこう」と言える大人でいたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?