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兄として-1

私には精神障害者の妹がいる。

そんな妹と兄である私をテーマにしてエッセイを書きたい。自分の属性を押し出して何かを語ることを研究以外であんまりしないんだけど、今日は少し踏ん張って文章にしたいと思う。

今までこういった文章を書きたいと思ったことは何度かあって、割と繊細かつヘビーな内容だから、私と家族についてあまり知らない人の目にも留まるnoteで書くのは躊躇ってたんだけど、ある記事を読んで自分の考えや経験を言語化してみようと思った。

時は流れて、僕ら夫婦に1人の息子が生まれました。3か月ほど経った頃、息子の目が見えないことがわかりました。『終わった』と思った。見えない子って、どうやって育てたらいいんだろう。恋愛ってするのかな。幸せなんだろうか。その日から、仕事が手につかなくなりました。

Buzz Feed『生まれた息子が全盲だと知った日、「終わった」と思った。絶望から立ち直るまでに考えたこと』2021年3月23日


兄として-1


 6歳の頃、妹ができた。
 初めて見る赤ちゃんは小さくて、可愛くて、ほっとけなくて、6つも離れている私に兄としての自覚を芽生えさせるには十分だった。

 どちらかというと兄よりも親に近かったと思う。親としての役割を果たしてたと言いたいわけじゃなくて、6歳ながらにして一丁前にこの子の保護者でありたかったんじゃないかな、今考えると生意気な小学生だった。

 ただ、やっぱり普通の兄妹より一緒にいる時間は長かったように思う。妹が保育園に通い始めてから、両親が再び共働きに戻った。どちらも仕事が長引くことが多く、そのときお世話になっていたマンションの管理人のおじさんと一緒に妹の保育園の送り迎えに行ったりとか、夜ご飯を食べさせたりとか、おかあさんといっしょを見せたりとかしていた。

 保育園に迎えに行くと、他の家のお母さんたちに必ず「○○くんは本当に偉いねえ、良いお兄ちゃんだわあ」と褒められた。「ウチの〇〇にも見習って欲しいわ」とか、悪い気はしなかった。

 妹が普通の子とは少し違うのかもしれないと親が気づいたのは、4歳になっても妹がなんの言葉も話せなかったからだった。活発な性格だし、パパとかママとか、単語くらいならいつ話せるようになってもおかしくない。この子は知恵遅れかもしれない。

 診断の結果、妹の精神年齢は2歳だと診断された。
  な〜〜んだ、ちょっと遅いだけじゃん。それまで精神障害にあまり馴染みがなく、また、幼くて知識も無かった小学4年生の私は、妹が他の人より2歳分遅れて成長するものだと思っていた。今考えるとすげぇアホなんだけど、割と本気でそう思っていた。


 私が強烈に『自分は保護者でなくちゃいけない』と思い始めたのはその翌年、妹が5歳、私が小学5年生のときだった。

 小学校からの帰り道、救急車がマンションの前に止まっていた。赤い警告灯はウンウンと回転していた。マンションの入り口に1番近い駐車スペースにこれでもかと乱雑に停められていて、急を要していることがなんとなくわかった。

 何事と思いながらエレベーターに乗り、いつもの6階で降りたとき、その救急車の警告灯が自分の家族のために点灯していたものだと知った。家の中に入ると、いつも家族が団欒する部屋におよそ似つかわしくない格好をした救急隊の人たちが何人もいて、その横で心配そうにしている母親がいて、真ん中に横たわった妹がいた。

 妹は癲癇(てんかん)持ちだった。可愛い妹が普段からは想像もできない姿をしていて、全身に悪寒が走った。

 癲癇という病気の名前すらその時は知らなかったし、そもそも妹の身に何が起きたのか理解ができていない私は、本能的に、妹が死んでしまうと思った。しばらくして救急車で妹が運ばれ、母親がそれに同乗した。私はその救急車を見送り、後から来た父親と一緒に妹が運ばれた病院へ向かった。

 病院の待合室の空気の重たさは、今でも鮮明に覚えている。そのとき初めて『てんかん』という病気について説明してもらった。
 また、普段私がお風呂から上がった後、妹に飲ませているデパケンという甘ったるいシロップの薬が、てんかんの発作を抑えるための薬だと知った。

 今考えれば私が悪いとかではないんだけど、そのときは心の中で自分を責めていた。もしかしたら昨日、妹にあげたデパケンの量が足りてなかったんじゃないか、という考えが頭の中でずっとぐるぐるしていた。薬を飲ませるのは私の役割だった。これで妹が死んだら自分のせいだと思った。両親は、私が見たことないくらい落ち込んでいるのにひどく驚いていた。

 私にとってはそれほど衝撃的な出来事だったものの、発作としては全然大したものではなかったらしく、翌日妹はいつもの元気な姿で家に帰ってきた。


 その日以来、自分の些細な言動で人が生きたり死んだりすることがある、という考えが付き纏うようになった。私は保護者でなくちゃいけない。この子の兄は私だけだ。

  このあたりから、周りの大人から言われる「良いお兄ちゃんだね」という言葉を素直に受け入れられなくなった。「世話が大変な障害者の」という意味で放たれる「良いお兄ちゃん」にも気付ける年齢になっていた。

 本当になんの含みもなく褒めてくれる人ももちろんいたと思うけど、そんなことを経験してから、「良いお兄ちゃん」であることは重圧にしかならなくなった。

 また、その年はお世話になっていたマンションの管理人のおじさんが亡くなった年でもあった。大人になることを急激に求められていた気がする。


 時は流れ、妹は小学生に、私は中学生になった。


追記 : 兄として-2



2021年3月25日

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