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兄として-2


前回の続きです。

読んでくれた人、感想言ってくれた人、ありがとう、すごく嬉しいです。前回は割と重くなってしまったけど、今回はいつもの日記に近いような話です。


兄として-2

 世話になっていた管理人のおじさんが亡くなったことをきっかけに、両親は引っ越すことに決めた。大切な人が欠けた景色の中で生き続けるのはしんどかっただろう。そんなわけで、小学5年の2月というとても中途半端な時期に私は転校した。

 少し時が流れ、私は中学生、妹は小学生になった。妹は少しだけ言葉が話せるようになっていて、逆に私は人生の中で1番口数が少ない時期だった笑
 正直言うと中学時代の記憶はほとんどない。かろうじて残っている記憶は妹と見たはなかっぱと、塾帰りに友達と食べたカラシが効きまくったコンビニおでんくらいだった。

 父親は会社員、母親は自営業の飲食店と、相変わらずせっせと働いていて、私は学校から帰って、夕方勤務の母親とバトンタッチして、妹と会社帰りの父親を待つ、そんな日々を送っていた。

 ブカブカな学ランから着替えて、テレビで録画したEテレを再生して、妹が視界に入るソファで本を読む。よく読んでいたのはハリーポッターとアズカバンの囚人、ブックオフの値札が剥がれかけている。スマホを持つまでの1年くらいは毎日同じ本を読んでいた。読み終わったら妹がちょうどお腹を空かせる時間帯で、母親の作ってくれたご飯をシリコンスプーンで口まで運んで食べさせる。全然食べようとしないときも良くある、兄の腕の見せどころである。

 体力的にキツいことはほとんど無かったけど、ひとたび妹の質問のループに入ると結構面倒くさかった。精神障害者の特性ではあるんだけど、同じ質問やセリフを短いスパンで何十、何百回と繰り返す。妹の場合「これ何色の枕?」という質問に5秒に1度は答えないといけない。ノイローゼになる、見りゃわかるやろがい、っていうツッコミをグッと堪えている。

 休日も基本的に両親は働いていた(年中無休の飲食店を経営していて、休日は父親も手伝っていた)ので、2人で家にいることが多かった。
 学校での記憶はあるようなないような。勉強した記憶はほんとにない。英語の発音が良くていじられたことがあって、わざとカタカナっぽい発音の練習をしたことくらい。
 部活は所属してたけどほぼ行かなかった。シンプルにあんまハマらなかったのと、まぁ基本放課後すぐ帰らなきゃいけないのに参加できるわけない。友達も次第に誘ってくれなくなり、典型的な陰キャ生活をしていた。

 ひとつ転機だったのは、中1の終わりくらいから塾に通えることになったことだ。母親がギリギリまで家にいてくれたり、父親が頑張って早く仕事から帰ってくれて、週2くらいではあったけど塾に通い始めた。今思えば相当な無理をしてくれてた。自分の過去を振り返る度に良い親の元に産まれたなと思う。運が良かった。

 ただ、そこまで偉い息子ではなかった私は、勉強を結局そんなにはやらず、最終的には家の近さで学校を選び、わりと妥協した受験をして、高校生になった。妹はまだ小学生。

 母親がそれを機に仕事を引退したため、私は放課後に部活動に参加したり友達と遊んだりできるサイコーな高校生になった。
 別に今まで不自由だと感じてたわけではないけど、自由ってマジで良いなと思った。
 学校帰りの量だけバカ多いラーメンとか、放課後の教室での効率悪いテスト勉強とか、恋人とのぎこちないデートとか、流行ってるというだけで観に行った映画とか、しょうもない部活とか。

 1人で過ごす暇な時間すら楽しかった。今しかできない、高校生っぽいことをやろうと思うようになった。まぁ私は結局その時間のほとんどをカラオケに費やした笑
 ただ、なんとなくだけど、中学時代に引き続き、高校に入ってからも妹が障害者だと誰かに打ち明けられなかった。家に友人を招き入れようと思ったこともなかった。

 多くの人にとっては「だから何」みたいな話だし、それで何か議論がしたいわけでもなかったから、わざわざ言うことでもないけど、ただ漠然と何かが怖かった。

 高校生になっても相変わらずコツコツ勉強するのは苦手で、付属なのに受験することにして、大学生になった。妹は中学生に。妹の入学式には行けなかったけど、妹がセーラー服を着ている写真を見て涙が止まらなかった。


 大学生になって勉強して、色々と視点が増えたと思う。障害者と非障害者だとか、人間と非人間とか、そこに由来する格差や権利だとか、アイデンティティだとか、幸せだとかを考えるようになった。

 今思えば高校時代は、「兄」としての役割を休んでいたような気がする。自分が負うべき責任っていうのがきっとあるんだろうけど、高校時代の3年間はそれを放棄していた。

 障害者の家族に好きでなったわけじゃない。軽く書いてはいるんだけど、精神障害者のお世話って半端じゃなくめんどくさい。兄ですらこんなにストレスを受けてるんだから、両親の苦悩は比べ物にならなかったと思うし、学校の先生やデイサービスセンターや介護職の方々には本当に頭が上がらない。

 言葉が通じてるようで通じないイライラ。2秒でも目を離したら何が起こるかわからないストレス。何がトリガーでいつ起こるかわからない癲癇の発作。でも振り返れば家族を愛している自分がいて、目の前には真っ直ぐに健気に生きている妹がいて。


 私が年相応にいろんなことをサボったり遊んだり、親に反抗したりするとそもそも成り立たない私の家族という形があって。「良いお兄ちゃん」でいることは半分義務だった。

 このnoteでは「障害者の兄」という側面を押し出してみたけど、きっと誰だって自分の「属性」について悩んだ経験があると思う。

 国籍、性別、大学生、色々あるけど、自分の周囲がその属性に対して持つイメージとか期待とは異なる自分の姿に摩耗した経験はあると思う。「男のくせに」とか「日本人なら」とか。そのイメージとは食い違う自分に悩むことがあると思う。
 大学生になって「兄」としての役割を再び引き受けようとしている。障害者の家族だから考えられることがあって、立てる視点がって、できることがある、のかもしれない。

 学問チックな話はまたいつか。

 バカ正直にこういうことを考え続けることって本当に面倒臭いし救われない。でも考え続ける人ではありたいと思う、属性なんかに縛られないで、どんな人でも幸せでいれるような何かを。兄として。


読んでくれてありがとう。


2021年5月23日


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