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重み

いつからか忘れたが,流れてきた記事に惚れてフォローした人だ.
「言葉の重み」というフレーズに思考がスパークする感覚を覚え,衝動的に筆を執った次第である.



記憶をたどれば,かつて見た『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』にて芥正彦氏の言葉が思い出される.

(前略)文字と机が同じ重さをもって作品作らないと,一向にレシになったりロマンになったりしてしまうんで(後略)

芥正彦

討論の中のいちセリフであり,コンテクストを完全に無視して切り取っているため,芥氏が意図したものとは外れてしまう可能性があるが,そこはご了承いただいたうえで以降の話を聞いていただきたい.


言葉の重みとは何か.
noteというサイトの端でこんな文章を書き続け,何の影響力もないが物書きの端くれとしての私にとって,大事な要素だ.
テキトーに書く雑記ならまだしも,真剣に思考を述べたいときに軽い言葉を使えば,その分伝わる思考も軽くなる.
“正しい”言葉を“正しい”位置に配置すること,それによって重みが生まれると考えている.

でもそれは,偏ってもいけないと思っている.
言葉の方が,思考の方が重くなってしまえば,瞬く間に自壊してしまう.
伝わるものも伝わらず,最悪の場合間違って伝わってしまう.
物書きとして最悪の状況が,認識外で無限増殖してしまうのだ.
自分のことは,物書きの端くれと言うのもおこがましいと考えているが,それでも発信者の端くれである以上無視してはいけない.
それが出来なければ,軽い内容を軽い言葉で軽い調子で書くのにとどめておくべきだ.

芥氏の言う「レシになったりロマンになったり」は,まさしくその通りだと考えている.
むしろレシやロマンになるだけましで,それにすらならず挙句の果てにデマゴコスとなってしまうことの方が最悪だ.



と,ここまで書いてきてふと思った.
この文章の重みはどうだろうかと.
私的には雑記のつもりであり,部屋の壁に貼っておく類の自戒の文章のつもりで書いていたが,これを他者が見たときにどう受け取ってくれるのだろう.
少し恐れを抱きながら,公開しようと思う.
バランスが取れていると信じて.

僕の生活の一部になります。