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〇〇大会があるから、、、のためだけの指導から脱却したい#252

みなさん、おはようございます。(こんにちは。)(こんばんは。) 

本日2本目の記事です。

少し昔話になるのですが、身体を動かすこと、つまり体育の授業やスポーツが好きな自分は大学でも教育学部の体育専攻を選びました。

ずっと体育会の部活をやり、社会人になっても競技スポーツをやってきた自分としては、大会で勝ち負けを競い合うことはすごく身近なことですし、勝利を目指して努力したり、練習したりすることも大好きで楽しいです。

しかし、これは「自らが選んでいるからこそ楽しいこと」だと言えると思っています。

こんな自分が違和感を感じてることがあります。


それは、

学校の体育行事の中に〇〇大会という競技性の高い、しかも強制的な体育行事があることです。

もちろん、その教育的価値や意義を全て否定したいわけではありません。

自分も様々な競技的な行事を体育主任として経験してきました。
(水泳大会、陸上大会、サッカー大会、バスケットボール大会、長縄大会など)

他校との交流、自分自身の力を高める、仲間との協力など、様々な価値は確かにあると思います。 

しかし、やはり大きな弊害も感じています。

そして、弊害の方が生み出してる価値よりも大きくなっている。

それが自分の感じている違和感なのだと思います。

その中で大きく感じる場面が、

「大会のためだけの高圧的な指導」


が生まれてしまうことです。

子どもたちが自ら選んでるわけではないのにです。

やったことがないことを子どもたちに経験させることはすごく大切なことですし、教師がそこに向かえるように支えてあげることも大切です。

ただし、教師の意識が、

「そこに向かって全力を尽くさねばならないのは当然!!そういう姿が見えなかったら厳しく叱ってでもやらせるのが教師の役目である」

というようになってしまってる流れを何度も見てきました。 

(いや、正直に言うと自分も同じようなことをしてきたとも思っています。)

(今はこの時のことをかなり反省してます)

そんな意識で生まれる高圧的な指導が、体育の本来の目的である生涯スポーツの道を閉ざし、体育嫌いを量産してるのではないでしょうか?

それは本末転倒どころか、ただのお節介であり、運営側や指導側の自己満足です。


そんなところが違和感を生み出している正体かもしれません。

学習指導要領で規定されている体育の学習内容ならば、教える義務や取り組ませる責任なども生まれるのかもしれませんが、

競技性の高い強制的な体育行事は、そこには含まれないのではないかと思っています。

それでこそ、その行事を行うのが決まっていることならば、体育における「見る」や「支える」をその行事の場面でも選択できるようにしてもよいのではないでしょうか?

もしくは、

・競技ルールそのままではやらないようにする
・そもそも技能を比べて勝ち負けをつける競技ではない種目に変える

そのように企画・運営してもいいはずです。

あくまで自分の意見ですが、競技性が高くて強制的な体育行事のカタチが変わっていくことで運動嫌いの子を減らせるとも思っています。

まだまだ自分にこれらを根本的に変える力はありませんが、できる主張は然るべき場でもしていきたいと思います。

長文お読みいただき、ありがとうございました。



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