夏の美容室
夏になると思い出す風景がある。
今から数年前、行きつけの美容室。
当時、就職活動を終えたばかりの僕は、暇な私文大学生のご多分に漏れず平日の昼間からここに散髪に来ていた。
5.8帖北向き3点ユニットバスの自宅から徒歩で通える、歴史こそあるがリノベーションしたのであろう、シーリングファンのある小綺麗なこの空間が僕は好きだった。
いつも僕の髪を切ってくれるのは、3,4つ上の青年。
高身長で、美容師なのに、喋りが下手。
話題の出し方が唐突で面食らうし、かと思えば急に会話が切れてしまう。
だけど、僕はこの人が好きだった。
僕を退屈させないよう笑顔で接してくれる不器用ながらも真摯な姿勢、大袈裟かもしれないが、美容師たる矜持みたいなものも垣間見えると思えば、醸し出す雰囲気は柔らかく接しやすく、地方から上京した僕にとっては兄のような存在でもあった。(読み返すと矜持という表現はやはり大袈裟だった)
その日も、僕は兄に髪を切ってもらっていた。「いつもくらいで」とオーダーした後は、急に話が始まっては終わる。格好に無頓着な僕のボサボサ頭をセットする心地良いハサミの音が、僕以外誰も客のいない平日の美容室に響いた。
「何か音楽かけます?」
兄が僕に声をかけた。そういえば、この人に自分の趣味嗜好を話したことがなかった。いや、無理に干渉してこないところも好きなんだけど。
「ついにウチの美容室にAlexaがやって来たんで使いたいんですよ」
この人らしいや。
じゃあ、と僕は曲をリクエストした。
当時、僕には好きな人がいた。
所属していたサークルの、2学年下の後輩。
まっすぐに活動に参加してくれる彼女の姿勢が、雲の上の先輩である僕に懐いてくれる笑顔が、すべてが愛おしかった。
大学という狭い世界でしか生きられず、そしてその中の人間関係に疲弊したちっぽけな僕にとって、彼女の存在が救いだった。
これは大袈裟ではないと思う。
一目惚れのようなものだった。
自分が面倒を見る部署に入ってもらえた。一緒に活動した。十数人で夢の国に行った。みなショーの光景をスマホで撮影している中、今この時を自身の目に焼き付けようとする姿が好きだった。二人でクリスマスツリーを見に行った。二人で浅草に行った。永遠のような一瞬だった。
だが、それからしばらく、就職活動で多忙を極めた僕は、彼女と会わなくなった。
場所は美容室に戻る。
僕がリクエストしたのは、当時の自分がずっと気に掛かっていたこの曲だった。
自身が置かれた状況にどことなくリンクしていたのだろうか。無意識だった。
「彼女いないんですか?」
見透かされたのだろうか。いや、この人に限って。
この人になら言ってもいいか。好きな人なら。
「叶うといいですね」
そして再び、僕の髪をセットするハサミの音だけが響いた。
あの時好きだった人に彼氏ができたのは、その夏が終わってからすぐのことだった。
あの時僕の髪を切ってくれた人が実家の美容室を継ぐために地元に帰ったのは、それから二度目の夏に差し掛かる前だった。
あの曲を歌ったアイドルがその名を変えてしまったのは、それから二度の夏を超えてからのことだった。
夏になると思い出す。
あの夏を追憶の端に残した僕は、何か変われたのだろうか。
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