創造主とは何のことですか?
以前、宇宙が1人1宇宙なのかどうかの疑問に決着をつけました。一時的な結論は、『宇宙が何かという意味は、前提がたくさんあるから前提の数だけ「いろいろあって良い」』でしたね。
『宇宙』と『創造主』はテーマがリンクしていますよね。なので次は『創造主』って何なの?についてです。
創造主とは一体誰のことですか?
創造主とは、
宇宙の全てを一瞬にして創った根源神的な創造主のことなの?
全知全能の神様のことなの?または、無知無能の神様のことなの?
自分の現実は自分で選択できるから、他人任せでなくて自分の人生をクリエイトしていけるという意味での人生創造の主人公という意味なの?
認知できたものだけが現れる仕組みの世界なんだから、認識で存在させているというパワーからイマジネーションで創造している世界の神は自分だという意味なの?
起こった出来事は想念を映し出す鏡だからその現実に対して意味付けをして、付けた意味を何度も変更できるという意味での創造主なの?
どれですか?
〇 1番大切な事『もうすでに存在している』
▽ チャネリング
まず第一に、もうすでに『存在している』という大前提をとらえなければ始まりません。
存在する、存在できている、それが自身を存在させているという一番広い意味での自己創造者の意味になります。自己創造者が創造主だと言うのは、自己を認めるという認識により、自己意識を顕現させているからです。単に認めるから存在しているのです。
言葉で説明するのは無理がありますが、言葉はどうあれ事実として、(不思議なことに)毎瞬自分で自分の存在を認めています。
誰から教わったわけでもないのに。朝目が覚めた時から意識があるんですよね。それのことです。不思議ですよね。
▽ 主客の主
通常、自分がいるという感覚は、主客の『主』の事で、その時の現実創造の主語が私だという事です。現実の主体が私、現実の主人も私です。自分の見えている人生劇場の中に招かれた客として、客体としてただ眺めているだけじゃないという事ですね。実際にはライブ感覚です。体験が自分に向かって起こってきていると捉えられます。
▽ 自分の『主人公』は自分
『創造主』という呼び方は中世的なクラシックな価値観に基づいていると思います。聖書から引用された言葉を受け継いできましたよね。
創造主自らが『我は創造主なり』と名乗った分けじゃなくて時代背景からのコンセプトなので、なじみの薄いコンセプトがよくわからないのも無理はないと思います。東洋人の特に無宗教日本人にはなおさら理解しにくい印象です。創造主というコンセプトを使う必要のある方がわかれば良いと思います。
そうではなく、漫画が浸透し切っている現代人向けに翻訳するならマンガの『主人公』あたりがベストチョイス!なんじゃないでしょうか。一番表現としてしっくりきます。
誰しもが、そこここで行われているその場面その場面ごとの物語の主人公です。
〇 2番目に大切な事『ソフト』
▽ チャネリング
上の文章では、ぼくたち私たちが自分の人生をクリエイトしていく時に確認するという事が重要だからこの場を持てているという内容です。
自分がした選択のいかんを自分の目で確認し、主観でのフィードバックをしてそれを元に次どうしたいのかを決めて生きていますよね。
「現実創造」なんて言い方も言い手側の主観が込められていてピンときませんが、ぼくなら『人生を生きる』とか『日々の暮らし』としますが、少し弱いですかね?なんかすごいことをしてる感は出てきませんよね。
もしかすると創造主というワードチョイスは、あなたは人なんじゃない神なんだよと教えてくれていそうです。実はほんとにすごいことなんだみたいな。
実際のところ、そもそもからして自分自身の存在を顕現しているという事が驚くべきことですけどね。何の努力も無く。そう思うと確かに神ですね。でも自分の意識を在らせているのが、何かすごい他の存在なんじゃないかと疑うのですよね。創造主という神がどこかにいて私を創造したのだと。自分にそんなことをできる力があると思っていないので。
だからこういう風にとらえてみてほしいと思います。もっと身近なことです。
▽ ソフトは自分の価値設定でしょ
出来事や行為にはあらかじめ付けられた意味は無く、フラットな意味しかありませんが、例えば、
ある時の自分の行動を観測して意味付けできたからそれがその通りの意味になっています
という事があります。「これはうれしい!」とか「失敗した!」とかの個人の感想のことです。これまでの人生を通して積み上げてきた性格や思考の癖が反映されます。
もし仮に他の人が観測したあなたの行為はその人の目線、主観、価値観に紐づけて解釈されてしまい、あなたの行為なのにあなたの意図が何も反映されていません。善意が裏目に出ることもありましたよね?
その場合、自分は自分の行為の創造主だけど、他の人はその人がその人の創造主なのでその人が見たいようなアレンジが加わります。
つまり、自分が観測して在らせているのは中身(ソフト)のことだと思えばいいのですね。意味付けとかそこから出てきた選択肢とか態度とかのことですね。性格とか癖もそうです。他の誰かがやってくれているわけではありません。
存在を在らせる、存在させると聞くとどうしても物質次元の考えが抜けないので、ハード(物)、物体をそこにぽんっと置くことが存在させていることだ、と定義しがちですが、今ここで述べているのは態度とか発想とかの中身(ソフト)のことなのだと言いたいです。これまで培ってきたあらゆる意味での技術(社交性等)なども。あなたの体というハードにインストールされているソフトのことがここで言いたいことです。あなた由来の総合ジャンルの無形資産のこと達です。
普段何気なく暮らしていて気が付かない自分にできうるレベルの創造もやはり創造に違いは無くて、それもよくよく確かめてみると本当にすごいことなんですよね。自分の性格やら価値観やらの主観を存続させていますよ。どのようにしてですか?自動的なのでやり方はわかりません。すごいことなんです。
経験とか価値観をブラッシュアップさせて高めてきませんでしたか?自分らしさを磨き切って生きてきませんでしたか?つまり言い換えれば今この時もあなたらしい主観を持てているという事になります。なぜでしょうか?
それはあなたがあなたという創造の起点だからです。ソフトが経験/解釈の起点です。自分らしさと言う価値観の窓から眺めた人生をクリエイト出来ています。他の人はその人と成りの個々の自分の人生をクリエイトしているように、あなたも周りから見ればかなり独自の路線を生きていますよね。かなりユニークです。
〇 3番目に大切な事『目覚まし時計』
ぼくの観点では、『創造の主』と言うキーワードは、物理世界に目を向けてきた方々の目的意識が芽生えるチャンス(※) だと感じます。地上での奉仕をせっかく用意して生まれてきた方々向けの目覚ましアナウンスの役割があります。
※人生でしたいことチェックリストを生きたいから生まれてきた地上の神々 = 地上クリエイトは(天上の神ではなく)地上の神しか触れないのだからその人が神だよといううながし
そうなのです。『創造主』という呼び方にはそういう含みがあってスピ界隈で使っています。祈り(いのり)とか願い(ねがい)みたいです。
「あなたが創造主だよ。何を創造したか見てごらん。創造してきたもの達を見渡して、本当に創造したかったものができているのかな?誰もあなたに代わってあなたが創造したものを創造していませんよ」と言う事です。
創った物とか機会もそうですし、性格とか態度とかもそうですね。普段目や耳にする自分の体験全般についてです。それが人生だからです。
それが人生だからです!it's my life!
それで、地上の他の人々と手を取り合い協調して、天上の人たちとも協力しあい『共同創造』するのに至るのですね。現実の共同創造というテーマもあります。
▽ メッセージ
押し付けられた立場という『創造の主』だと確かに重荷でつぶされますね。ですが、自分で着実に進歩前進してきて、「ああなるほど、これこれこういう理由で私が私の創造主なんだな」と腑に落ちれば強いわけですね。実際にその通りですしね。ここが宗教とか教義とは違うポイントなんですね。
適切な時に目覚ましによって内側からうながされて花開きます。
〇 キーワード解説
▽ 『創造主』
3次元から5次元へのアセンションに絡ませて、これまでとはルールが全然変わるんだよ。もう閉鎖的じゃなくて開放的なんだよ。ということで、じゃあそこで何を開放的にしていくのか?というのを主役であるあなたに決めて行って欲しいという事だと感じます。主権が各それぞれにあるという事ですね。これまでのようなカースト制度の言いなりじゃなくて。カースト制度ではトップが決めた方針を末端までが準拠する仕様でしたね。
自分が自分の人生において決めることのできる範囲の創造主で在れるというのはすごいパワーを実感させます。そういう一語です。
▽ 『私』は一般語
『私』は他にも、自分、ぼく、俺様、おいどん、わい、あたし、〇〇ちゃん、とかとかいろいろありますね。本などどこで紹介してもわかるようにそれらを標準語で書くと「私」と書くのが一般的だから、その一言にまとめていると解釈して良いと思います。あと、英語では「I AM」になりますが、それも一般語(標準語)で広く誰でもわかりやすい一語にまとめられていると思って良いです。
〇 4番目に大切な事『ホームとクリエイター』
ここからは自己の適切な範囲設定についてです。
物理的な現実のレイヤーと非物理的なレイヤーがあり、非物理レイヤーの中にさらに根本レイヤーがありますが、『創造主』とはそのどれを指して言っているのかを明白にする章です。
すごく簡単にした例えとして、スマートフォンを上げます。
ハードのスマホが物理レイヤー
ソフトのアプリが非物理レイヤー
OSが根本レイヤー
だと捉えてください。
▽ 全部ひっくるめて創造主
どれもお互いに相互に依存しあっていますのでどれかだけを切り取って『創造主』だとするのはふさわしくないです。なので、全部ひっくるめて創造主だと捉えてみてください。単体だと経験の最大化がされにくくなるからです。
▽ 個別レイヤー自体も創造主
また、各レイヤー自体も独特なので、そのユニークさから創造主と呼んでいます。ユニークさを生む決定的な理由がそれがそれの創造主だからになっています。
例えば、A社とB社とC社がそれぞれ作ったスマホのハードは別のデザインですが、お互いに比べあい尊敬することもできます。
D社がカメラアプリを制作し、E社がSNSアプリを開発し、F社が動画編集アプリを制作すれば相互に循環します。みたいな。
人は外見も多様で中身(性格)も多様で何から何まで多様でユニーク
ここまではスマホでのたとえ話でした。ここからは具体的な自分のことについて書きます。
スマホを使う時に普段気にしていませんが背後でOSが働いています。なので、根本的な創造主も今もこの瞬間に作用しているから自分が存在できています。創造の起点はゼロポイントから始まって、それは今この時もこの瞬間に起き続けていることがあります。
ここから先は人のレベルでの話に移ります。
根源レベルでの創造主もあり、物理次元で適用される創造主もあります。
レイヤーに分かれているのでレイヤーごとに創造主の意味合いが変わるという事ですね。
ここからは、人のレベルでの創造主の意味と役割について今わかる範囲で書いていきます。
創造主たるものは認めればそれが存在できてしまうという、普通の発想じゃなかなか持てない発想ですが、創造主(クリエイションの起点)はそのような仕組みになっています。
各人それぞれが自分独自のユニークな主観を持っていることから、自分が自分の人生の主人公で良いんだ、自分の創造主は自分なんだというのは納得できました。
が、まだ疑問があります。
宇宙を創ったのが本当の意味での創造主なんじゃないの?
この宇宙の全部を最果てから自分がいるこの小さなパーソナルスペースまで自分が作ったの?本当に?周りにいる人々とかも全部?森とか生き物の生態系とか全部?
親から生まれて来てるけど自分が自分を創っているというのはどういう意味なんだろう?
という疑問です。スケールが大きすぎませんか?
その回答がこちらです。
前回の宇宙についての話 ともリンクしますが、宇宙は入れご構造になっているので親子の依存関係があります。場であるホームが親意識でその子の意識であるぼくたちは自分の見えてる世界のみ担当だという事があります。親と子は意識の焦点が分かれていて、親フィールドの中に子供たちのパーソナル宇宙(スペース)があります。で、親をホームとするならば、その場を借りて子であるクリエイター達がお互いに奉仕し合っています。という相関図ですね。
▽ テレパス会話
「自分が世界を創造している」の意味がいまいちまだよくわからない時にテレパスで会話して以下のように教えてもらいました。
全体の場の創造源と、個別のリアリティーの創造主は話が別物。で、個別の現実つまり、今の自分の日常の暮らしの中で決定するあれやこれやすべては手が届く範囲にあるので、自分がその現実の創造の主人(主人公)だということ。
だから、海には海の意識があってそれは海に任せておけばいいという事ですね。だけど、今度は逆に「私には私の決定権があり、私に割り当てられた責任範囲があり、それは私の務めです、だから私がちゃんと責任をもって私の生を生きますよ」という事だと思います。
自分自身を生きれるのは私だけだから。あるがまんまの自分自身をさらけ出して全開で行き切ればいいのだろうと感じます。誰と比較することでもないですが、自分に正直に生きればそれだけで十分お役目を果たせていそうです。
他の人が自分の意思を100%汲んでくれて、自分の代わりに自分の人生を生きてくれているわけではないからです。自分がそう出来る、したいから、望むからこのスピリチュアルな人生を選んで生きて行けるのでした。ハードじゃなくてソフトのことですよ。場とか環境の話じゃなくてそこでの態度のことです。気持ちの持ち方、在り様です。
〇 責任の適切な設定範囲
自分が変更できる場面とどうこうできない場面があります。これがわかると次に疑問なのが、責任についてです。
▽ メッセージ
個人的な私が全宇宙規模の責任者である論は覆されました。自分の手の届く範囲が自分という世界を形作っていますので、その範囲だけを論点とすればいいみたいです。私という『場』が私の領域で、その主人格が今の私です。簡単ですよね。
具体的には自分の日々の影響圏のことです。手が届く範囲、思考できる範囲、両目で見える範囲、耳で聞こえる範囲、声が届く範囲、通勤通学の範囲のことについてです。
でも逆に言えば、他の方の世界はその人が主人公で、(自分を含めて)周りの人は変更権がなさそうだという事ですね。確かにそうです。その人が自らのこととして受け入れて心持を変えるしかなさそうではありますね。
だけどここでもう一つ注目する点があります。自分のスケールを決めているのは自分だけだという話です。つまり、自己を拡大して次元上昇をしたなら、ここに居ながらにして本当の意味での行きつく先の『創造主』にさえなってもいいんじゃないかという事です。それがおこがましいと感じ入るならまだブロックがありますが、それは自分だと一致できるのであれば、責任の範囲がそこまで広がるのか?
それは無いという事で一安心。まあそうですよね。笑
物理的な思想の制限はどこかに必ずあると思いますので。
出来もしないことに対して所有の概念で所有したら肩の荷がますます重くなるだけですよね。それはナチュラルではないです。
▽ メッセージ
責任の話に戻します。
この責任の所在が自分にあるというのは、『自分の選択肢の範囲において』だという所を何度も強調したいです。ご自身の選択肢にない物は選べないので責任も何もありません。
ダメだったことは認めて即謝ればいいという事ですね。それで、謝っても許していただけないのであれば、それは相手の都合なのですぐに手放して良いと思います。非を認めて謝るところで自分の領域で出来る最善を尽くし終えたことになります。あとは持つ必要がある相手側でそこからリスタートする別のカリキュラムが作動するのでしょう。その人がその人のために自分のブロックを感じたかったかもしれないという話です。
▽ メッセージ
選択の範囲を間違えた時だけ『無責任』がありそうだとなります。選択の範囲設定が自分の手の届くところまでであるならば、何をしようとしまいとその人のタイミングに準じています。他の方がとやかく言うことはできないのと、とやかく言う人はその自分の責任の範囲設定がぶれています。
〇 他の言い回し『The One(在りて在るもの)とI AM(創造主)』
この章では、ちょっとなじみのないキーワードを使います。(このキーワードの方が分かりやすいこともあるので)
入ってこないなら適宜スルーしてください。
これまでの話で何を発見したのかと言いますと、
The One (在りて在るもの、一つなるもの)=ホーム
The I AM (創造主、個別化した意識のこと)=クリエイター
という別々の層でとらえる必要があったということです。(もちろん用語として知っていましたけど、それぞれが何を指しているかに違いを見ていませんでした。)
空と識は表裏一体で、同じ場所にあります。
空を一旦置いておいて識だけにフォーカスする場合、それがここでいう The ONE(在りて在るもの/一者/一つの無限)で、
さらに分割してフォーカスすると個別世界を創造しているのがあなたがた1存在1存在だ、ということです。
別の書き方をすると
[The One]の中で[The I AM]が入れごになっています。さらに[The I AM]の中に[The I AM]が入れごになっています。
レイヤーごとに説明の手順を変えないと聞く方の誤解も解けなかったですね。
ぼくのうっかり勘違い
創造主というテーマについて、ぼくの勘違いを書いておこうと思います。
▽ 人生を自分で作っているという実感が無かった
人生とは知らない間に流れて行ってしまうものだとらえていて、自分が自分の一生の創造主だという自覚を持てていなかったな~というお話です。
これと言って物欲もないし、ちやほやされたいとかもなかったし、むしろ静かに引きこもって真理の探究に邁進していたかった性格でした。むしろ人生とは、そういう強い希求にそったものを経験から学べるようにコーディネートしてくれているものだという漠然とした理解がありましたので、物質世界をこうしたいという想いよりも、これこれを知りたいと思って、それを自分の経験から導き出せるように人生が取り計らってくれていると感じていました。
だから自分が創造主だよと言われても共感できずにいました。「決めると成る」と理解していましたので選択して決定する感覚の方が強かったからです。
でも細かく分けて説明を受けることができ、何を言っているのか全体的なパターンを得ることができました。ぼくはぼくの人生の主権を持っているという事なんですね。自分は絶対に自分の経験の主体だからで、他の人は絶対にぼくの経験の客体だからですよね。なので、ちゃんと自分自身が創造主であるという当たり前の場所に着地して生きれば良いと思います。
でもそうとはいえ、創造主という用語にはまだ慣れません。創っている認識ができないからですね。まだそこに何かがありそうでそれがなんなのかわかりません。教えてほしいです。
総論
自分のことを私(I AM)という。
盲点である「私」という自分に向いているベクトルのことですが、普段自分のことを当たり前に自分としていますが、一度立ち止まって見てみると結構不思議なことではないですか?
そして、自分に対して向けられたベクトルが「あなた」で、あなたという一語で私を指しています。そんな当たり前のこと、基本中の基本のことですが、立ち止まって見るとなんか不思議です。
と、いうのも、ワンネスだけの視座からだと全部が自分にしか映らないからで、あれも自分これも自分だから私という発想がこの個というベクトルに向かないと思うんですよね。だから不思議です。
後、ノンデュアリティの視座だと自分というものがどれなのか一向にわからないと思うんですよね。どれが自分?全部自分とは無関係に流れる現象にしかとらえられんません。だから自分を発見して確固たる自分だと認識し続けられていることに不思議さがあるわけです。
ワンネスとノンデュアリティのあいの子である二元性の意識(つまりデュアリティー)の視座から眺めなければ、自分のことを確固たる自分だととらえられないと思います。また、あなた、と自分のことを名指しで呼ばれても振り向けないと思います。なので、自分がいて他の人からはあなたと映っているという主客の見え方(視座)は複雑で面白いパターンなのです。
仕組み自体は盲点の組み合わせでとてもシンプルなのですが。実際にその視座を得る、持てているというこの切り口で世界を創造して生きて行けるというこのチャンスはそうあるものではないのかもしれません。
今の自分を自分と在らしめている独自の視点だと感じました。
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