赦しの極意

奇跡のコースの赦しとは、この世界の許しの通念とはまったく意味が違う。

罪を見てそれを許していくのは大きな間違いになる。

コースで扱う赦しとは、罪を犯す事が出来る人は存在しないと言う大前提があり、罪と見られる現象は幻想(夢)なので、幻想を取り消して行くという、あくまでも自分の思考の革命なのだ。
罪の意識の世界からお互いが解放されるような思考革命。

罪人(と見られる人)を心の内で可哀想だと憐れんだり、その言動をただ見過ごす行為をしたり、また、人からの攻撃に、悔しいと思いながらも、耐え忍ぶ事で赦していると思っていることは、実は自分の中ではっきりと相手の罪の存在を認めてしまっている事になる。
なので、正しい赦しではない。

「罪を憎んで人を憎まず」は、聖書の中にも、中国の哲学書の中にも出てくる有名な格言のようで、一見正当な赦しと思われがちだが、罪の存在をはっきりと公言している。
その罪はどこにあるのかと言うと、すべては自分の心の投影なので、自分の心に存在していることになり、自分自身への赦しができていないことになる。
それでは奇跡は起きない。

それらは奇跡のコースを実践していて、一番陥りやすい過ちかもしれない。

罪と見られる物を目の当たりにして、そんな事が本当に可能なのかという思いが起きるのは当然である。

目の前で、大切な人が殺されたり、自分が何者かに屈辱的に襲われている時、相手を赦す事が不可能なのは火を見るよりも明らかである。
おそらく相手を心から憎むと思う。

それでも奇跡のコースは容赦なく、どれひとつ例外なく赦しの対象だと言う。

それを少し丁寧に、わたしなりに解釈して説明していきたいと思う。


コースは肉体を含めた外側の言動にはまったく関与しない。
コースはまったく道徳的ではない。
この世の現象には無関心なのだ。

たとえあなたの手が犯罪に反応して反撃をしようが、もしくは実際に人を殺めたり盗みを働いたり、大きな犯罪をいくら起こそうが、聖霊もイエスも、だれもあなたを責めない。

それは、人は無罪性だからだけではなく、言動には自由な意志はなく、それらはすべて終わっているただの映像なので、それらの現象を変更することは不可能だと知っているからだ。
彼らが観ているのはあなたの(魂)だけである。

いくつかある世界線(パラレルワールド・時間軸の変更)を選択していく事は可能かも知れないが、その件については追求しない。
どうせどれを選んでも幻想の物語であり、それらもすべて終わっている。
それを追求すると、自我の幻想の罠に蟻地獄のように陥り、抜け出せなくなる。
なので、全ての世界線を一括りにして思案していく。
(神による訂正・聖霊の思考を選択すると言う世界線は今は考慮しない。)

人はそれらの現象を目の当たりにして、それをどう解釈するかだけが唯一与えられた自由である。

それらは心の中だけで完結する。

コースのイエスは相手に頬を叩かれた時、無闇に耐えて反対の頬を差し出せとは言わない。
実際に襲われていて、恐怖や怒りに陥ったら、体がそれに対して反応することを赦せばいい。

あなたは自分に肉体があり、ここで生きていると思っている以上、この世界が存在する事が、今のあなたにとって真実であり、覚醒(悟り)しない限り、自分自身に向けられるそれらの攻撃を心から赦すことは出来ない。

無理をして許す必要はまったく無い。
体に自由な意志はなく、決まった台本通りに動くしか設定されていないのだから、それはそれらの現象に任せれば良い。
因みにそれに付随する感情も、台本通りに現れるようになっている。
感情も幻想なのだ。

この世に生きていると思っている以上、あなたの精神はまだその流れに逆らうことはないので、今は流される事が最善である。

赦すとは、実際悟りのような精神状態にならないと実行する事は難しい。
言い換えれば、そのような精神状態になると赦すことしか出来なくなる。

悟り(覚醒)= 赦し なのだ。

コースの学習は、赦せなければ落第などと言う事はない。
赦せる状態を目指そう、それが覚醒された平安な世界だと教えているに過ぎない。
自我の意識を持ったまま、それら全てを赦す事は不可能である。
なので赦せない自分を嘆く事はないし、そんな自分を赦して行く事ができれば上等である。
そんな赦しの練習を、聖霊にたすけてもらいながら諦めることなく少しずつ繰り返していくことが、コースの実践である。
そうしていれば思考の革命はやがて訪れる。



思考の革命とは、あらゆる価値観や常識を逆転させていく必要があると思う。
そのためには、世界をありのままに観ると言う事が、少しは助けになると思う。

世界をありのままに観るとは、ワークの初期のレッスンをそのまま素直に受け入れる事がポイントになる。

私が見ているものは何の意味もなく、それに意味を与えているのは私自身であり、私は真実を何も知らない。

この世界の物質もストーリーも、すべて私たちが作り出した現象であり、それは真理とは何の関係もない。
そんな世界で起こっている出来事に、一々反応する事は馬鹿げている。
この世の罪も幸福も何も意味はないし、重要なものは何もない。

目の前で起こっている出来事は、はるか昔に私たちの一なる心で作り上げ、映像として現れているだけで、敵も味方もただの配役に過ぎず、すべては茶番である。
それも自分の心の投影なので、真理の上では相手に本当の心は伴っていない。
幸せな現象も、残酷な事件も、どれひとつとして真実はない。
すべて例外なく幻想(夢)である。

なので、取り消して行くものである。

それがコースの示す赦しの極意になる。

善良で寛大な心で許しましょうと言う次元の話ではない事を分かっていただけただろうか。


目の前で、大切な人が殺されたり、自分が何者かに屈辱的に襲われている時、今はまだ、あなたは相手を心から憎むと思う。
殺意さえ覚えると思う。

しかし、実際にあなたの心の中で何が起きているかと言うと、憎んでいる対象は相手ではない。
に背き、その世界を作り出している自分自身を憎んでいるのだ。
あなたはこの世界が偽物だと心の奥で分かっている。
なので、憎悪の感情は相手に向けられたものではなく、原罪と言われる罪の意識から逃れられない状況の中で、自分自身を痛めつけているだけに過ぎない。


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