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無辜(ムコ)の人々

コースの実践はすべての現象に罪を見ないことから始める。
神の延長であるわたしたちの心はもともと罪を犯せない。
だから罪は存在しない。

罪と見えるのはただの間違いであり、間違いを取り消して行く事が赦しの実践であり、救済であり、奇跡であり、贖罪である。

コースはそこに気づいた時からその赦しを習慣としてコツコツと、この世界の時間が終わるまで続ける気の長い実践である。

ただただ、赦していれば良い。
それ以外のことは何も求められていない。
そうすればそのうち本当の目覚めが訪れる。

コースの内容に感銘し、それに倣ってこの世界で平穏に暮らす事を選択したとしても、そこにひとかけらの罪を見ていてはただの徒労に終わる。

人の無辜性(無罪性)を完全に受け入れなければ、この実践を途中で投げ出すのは火を見るより明らかなのだ。

だから、真実にこの世界には罪が存在し得ないと知ることが実践の助けになる。

それでも悲しいかな長い習慣でついつい罪として反応してしまう。
反応したなと気づきた時にすぐさま思考の変換をはかる。
(反応とは、怒り、悲しみ、痛み、苦しみ、哀れみなど、負と言われる感情。それらはすべて人の罪悪感から来ている。)

思考の変換に有効なのは、罪が存在しないと、この世界を設定してしまうことだ。

どうせ混沌とした実在しない幻想であり、確実なものなどひとつもない世界なのだから、どう考えようが自由だ。

そのために、ひとつの想定を積極的に取り入れる。
この世界の土台もストーリーも、神の子の全一な心が作り出した世界であり、
その一人の神の子が分裂して個々の人格を持ち、配役として配置されている。

「どうやら大変な事が起こっているようだ」と、謎な手法でにより一瞬のうちに消されたこのビックバンの宇宙の歴史を、わたしたちは目覚める事を拒否し、時間という枠を使って再上映している。(罪悪感で、神から逃げている。)

分裂した個々の人格は、配置された実在しない映像の体を借りて物を見たり、音を聞いたり、触れたりする。
(そしていつの間にかその体と同化してしまっている。)

この世界で起こり得るすべての物語りは、はるか昔にみんな(本当は一人の神の子)で書いた台本なので、内容はすべての人が潜在的に了承済みである。

大恋愛のストーリーも、怨念の殺し合いも、悲痛で屈辱的な犯罪も、一つとして例外はない。
すべては虚構であり、茶番である。
リアルタイムに感情的に作り出した現象は一つもない。
感情もストーリーに沿って煽られ湧き上がってきたもので、まるで自分がコントロールして起こしたように感じてはいるが、自分だと思っている体も脳も、はるか昔に作った台本通りに動く、ただの操り人形にすぎない。

ありのままに見ていくとはそう言う事だと思う。
そこに、誰か一人の罪は存在しない。
誰か一人の責任ではないし、
誰か一人の手柄でもない。
正当に責められる人間は誰もいない。

あえていうなら、神の子を代表してこれらを投影して見ている自分の心だけが責任を持ってそれらを取り消せるのだ。

こんな偽物の世界には、本物の愛どころか、罪さえ存在しない。


この話、イエスが語っている内容が元なので、あながち嘘とは言えない想定だったりする。


イエスが語る「赦す」とは

すべての現象は自分の心にあるものの投影であるため、赦す心はただ一つ自分自身である。
寛容さを装って「罪を憎んで人を憎まず」と言ったとしても、事実はそこに罪を認めている事になり、投影された出所の自分自身を裁いていることになる。
憐憫も屈辱に対する忍耐も、赦すとは程遠い行為である。

無辜とは本来、ただの延長であるわたしたちの本質を言う。


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