人はまた有るようにしか居られない。
奇跡のコースの世界観、というかイエスが語るこの世の真実を取り入れることによって、今まで信じてきたわたしの精神世界の概念を少なからず修正していく必要がありまして、それは不思議と抵抗感はなく、あのイエスが言っているのだから間違いはないだろうと信頼するに足りる人物だったからだとは思います。なにしろあのイエスですからね。泣く子も黙ると言う・・・
畏れ多くもどこか聖書の概要に矛盾を持っていて、それがコースの出現で一掃された感じがあり、コースのテキストが聖書なら喜んでキリスト教徒になっていただろうと思うのですが、ただそれも今の年齢、今までの経験があっての事だからきっと突き刺さることで、人はまた有るようにしか居られないものだから、タラレバなんてないのでしょう。きっと。
有るようにしか居られないとは、結局この現実世界で目の前で起こっているように見えることも、すべて幻想であってリアルなことは何もなく、それもすでに終わっていることを人々の心の中で反芻しながら外側の世界に投影しているからだと言われます。
引き寄せの法則とよく言われますが、コース的にはどれだけ無闇に頑張ったとしても、起こり得ないことは起こらない。
ただ、起こるべきことは何をしていても起こります。
体が心とは違う行動を勝手にとってしまうことってないですか? わかっていてもやめられないことってありますよね。こんなはずでは・・と不思議に思ったりします。それがその時の自分にとって良いことでも、嫌なことでも。
どうしても嫌な予感がするからその予定はやめておくと思うこともありませんか? それはそちらに行くと災難に遭っていたのではなく、もともとそれはあなたに用意されていない事象だからです。
だから未来のことを不安に思うことは不毛です。それはもう起こり終えてしまっており、悩んでも変わらない。悩むのは自我の大好物な餌なので、もっともっと自我が張り切ってしまいます。自我が張り切ると人は苦しくなる。
何をしても事象は変わらないけど、それを受け取る心だけは今生きています。リアルであり自由なのは心だけなのです。
事象も自分の行動(肉体も幻想)も変えられないけど、受け取る心は選択できます。
自我による思考で考えるか、聖霊による思考で考えるか。
それをレッスンしていくのが奇跡のコースです。もちろん聖霊の思考に変更していくレッスンです。(宣伝かっ)
以上のこと、それまでのわたしの概念を変更した一つです。
結果が残念なことだとしても開き直ってしまえるのって結構乗り越えるのに必要だと感じます。その残念は自我にとっての残念なのか・・・って一つの考察に値します。
関連語録
*この世のドラマは変更不可能。
*分裂した心の中の決断の主体の部分が物理的な宇宙における私たちの人生という脚本の著者。
*「既に終わった」脚本を「心理的に反芻する」
*あなたは必ずいるべき時に、いるべき所にいる。(ワーク、レッスン42より)
*あなたの過去はその美しさを除いてすべて過ぎ去っており、祝福の他には何一つ残っていない。(テキスト、第五章、Ⅳより)