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人は結構不思議な体験をしている 前編

孤独と違和感

わたしはわたしという意識しか体験していないので、他の人がどうなのかは分からないけど、幼い時の記憶って恐ろしいほど孤独だったとしか表現できなくて、それが人間として生まれて当然のように感じるものだとあの頃は疑う事もなかった。

それは両親に構ってもらえないとか、友達がいないとか、そういう話ではない。当時は母親は専業主婦でわたしは長子で、父親が撮った写真を見ると慈しんで育ててもらっている様子が伺える。決して裕福ではなかったが、わたしのために狭い庭に砂場を作ってくれていた。両親の名誉のためにそれはきちんと押さえておきたい。

それでもいつも一人でその空間にいるという感覚を持っていた。そしてわたしを通して宇宙の在り方を常に探っていた。

わたしは見えたり聞こえたりするような霊感はなく、感覚が敏感ではないと自覚しており、前世の記憶だとか母親の体内の思い出など全く持っていない。もちろん妖精さんと遊んでいたとか、そんな特異な幼少期は過ごしていない。目に見える現実の風景がこの世の全てだと思っていた。

けれど今にして思えばその幼い頃の記憶はそれら霊感と言われる物を通り越した、肉体の違和感、分離の感覚に憂れいていたような気がする。とにかく頭の中だけは恐ろしく充実していた。

宇宙はどこまでも真っ暗で恐ろしいところとしか思えなかったし、だからほんの数年しか生きていなかったにもかかわらず、生きている意味の虚しさや厳しさを感じていた。

死んでしまったらあの真っ暗な宇宙にこの意識は放り出されるのだろうな・・・

そして塵のように漂うのだろうな・・・

もはや肉体が死んでも意識がなくなるとは考えていなかった。生きていても死んでいてもわたしの意識にとっては大した変化はない。

社会を知らない幼い心はこの先この世界でどんな人生が待っていると想像する事もなく、魂という概念も知らず、ただ自分の存在が唯一の関心事で、それでも無邪気に大人に質問攻めをするわけでもなく、大きな疑問だけを抱えて過ごしていた。大人がその疑問に答えてくれるとも思っていなかった。煙たがられるのが容易に想像出来ていたのだと思う。自分はただ考えすぎる子供だと、そんなふうに処理していた。母親の三面鏡を覗き込み、無数に映る自分の身体を見ながらよくこう思っていた。

わたしはなぜこの身体にいるのか。

なぜわたしはどこまで行ってもわたしでしかあり得ないのか。

そこに神を見出す発想はなかった。

だからどこまでも孤独だった。

幼稚園に行くか行かないか頃の物心がついた直後の記憶である。





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