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Cahier 2021.03.14

久しぶりの更新になりました。

年明けからしばらく近所の運河・公園、たまの皇居ラン、美術館にしか出かけておらず、特段書くこともなく。日記帳や読書メモ、twitter、instagramと手頃なツールで言葉や写真をまき散らしながら、日々過ごしていました。

ずっと部屋に閉じこもっているとどうしても鬱屈とした気分になりがちですが、それも仕方がないと諦め、どうしたらこの鬱々とした気分と共存していくかを考える方向に向かいつつあります。

わたしの場合、それは小さな部屋の面積の大半を占めている本棚を見直すこと、すなわち20代の棚卸をすることでした。

一度買った本は、読了・未読あるいは面白かった・そうでもなかったにかかわらず、なかなか捨てることが難しい。「これはもう読み返すことないな」と思う本でも、書店や古本屋でその本を手に取った頃の記憶のあれこれが思い出されて、思わず棚に戻してしまう。そしてまたしばらく忘れる。そんなことをずっと繰り返しています。

こんな調子で、物理的な棚卸は遅々して一向に進まないので、ひとつ趣向を変えて、昨日、尹雄大さんのグループセッションに参加してきました。

メンバーは尹さんを入れて5人。初めて会う知らない人ばかりです。1人1時間ずつくらい、自分が話したいことを話し、他のメンバーは質問があれば質問したり、何か思ったこと・感じたことをコメントしたりします。

批判はもちろんご法度ですが、共感や同調も特に必要ではなく、何らかの解決に向かうことを目指すわけでもありません。基本的には一期一会の人たちですし、必ずしも相手の言っていることを理解できなくてもいい。

ただ話す、ただ聴く。シンプルな時間です。

共感や同調、相互理解、”つながること”が過度に求められ、拙速なコミュニケーションが多すぎる日常の中で「ただ話す、聴く」ことに終始する。

そこにはたくさんの余白や抜け落ち、言葉の不完全さがあります。

普段の生活の中だったら、より正確に伝えようと何度も言葉をつぎ足していたと思います。それは相手に理解してもらいたいから、というより、自分自身の中に名指しえない余白があることが怖いから、なんでしょう。

サミュエル・ベケットの作品の中に(作品名は忘れました)過剰に言葉を放出して圧倒的ナンセンスな境地を拓いていく不思議なキャラクターがいるのですが、わたしはときどき自分にその似姿を認めるときがあります。何かを表現したい・伝えたいのではなく、ただ空白を埋めるためだけに言葉を紡ぐというような。

でも、尹さんのセッションの中では不思議と怖くありませんでした。

もちろん、言葉にしえない情感に静かに満たされているような、いわゆる”美しい余白”ではなく、不格好で不完全なものなのですが、不思議とそれを受け入れることができる。その体験は、わたしにはとても貴重なものでした。

セッションの中でメンバーの方の一人が「ネガティブ・ケイパビリティ(答えの出ない事態に耐える力)」というワードを出されていましたが、それに近いものだと思います。”〇〇力”って、何か鍛錬を積まないと得られないもののように感じられますが、どんな人生にも答えなどないので、本来誰もが持っている力なのだと思います。でも、その使い方を知らない。というか、”女子力””鈍感力””等々、便宜上必要な”〇〇力”をインストールし過ぎてホーム画面が大渋滞して、ワケ分からなくなっていた。

尹さんのセッションは、まるで思考の整体のごとく、言葉と思考の関節を外すようにして本来持っているその力の在りかに気づかせてくれるひとときでした。

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