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踏切と恋の向こうがわ【本編】

「ごめん。えーと気持ちは嬉しいっていうか……けど俺、ほかに好きな人がいるから」
 と、言いにくそうに真木まきは言うと、くるりと私に背を向けてその場を離れた。彼の背中が遠ざかり、校舎に入るところで一瞬、こちらを見て、中へと姿を消した。私はそれを無言のまま見送り、ノロノロとその場を離れて、中庭の短い階段のところに腰を下ろした。そして折り曲げた膝の下で強く手を握りしめた。

──他に好きな人かあ。まあ、想定内。
 いやあ、これから本格的に受験シーズンに入るし、忙しくなる前に伝えておこうと思っただけで。そっか、あの優しさって私が特別だからじゃなかったってコトか。あーあ勘違いしちゃったじゃん恥ずかしい。でもこれで、受験に迷いなく打ち込めるし……失恋なんてよくある……みんな乗り越えてんだし大した事ない大丈夫だから……。

 いくら胸の中で言葉を並べても、辛いは辛い。胸がどんどん痛くなる。

 約一年の、初恋からの片想いはあっさり砕け散った。ふられた。失恋した。言葉にすると鋭い痛みがはしった。ヤバ、こんなに辛いんだ。想定内?嘘ばっか。こんなにキツイなんて完全に想定外。もうダメだ。ここから動ける気がしない。頭がジーンとして涙が浮かび、景色が滲んだ。やだやだ泣きたくない、こんな所で。私は手をぎゅーっときつく握りしめて、口元に力を込める。

 予鈴が鳴った。
 私は涙を拭くとどうにか立ち上がり、ゆっくり教室に向かった。心のどこかで、なんだ動けるじゃん私、と自分にツッコミながら。ずっと声に出さずに無理だ無理だ無理だ……と唱えながら。
 胸が痛すぎる。なんかこの後、普通に生きていける気がぜんぜんしない。

 帰りの学活で座っている真木の方をちらっと見た。彼はまったく普通の態度に見える。私は目を逸らし、机に置いた自分の鞄をじっと見つめた。今日の部活はサボろう。連絡しないとあとで叱られるけど、もうどうでもいい。
 私は速足で校門を抜けて、家路を辿りながら、以前に読んだ漫画のストーリーを思い出していた。ヒロインが絶望して死のうとするところ。もう気持ち分かりすぎてそれだけで泣きそうになる。彼女は夜の海が見える場所で、購入したウィスキーをラッパ飲みして、酔って何も感じなくなって海へと入って行った。酔えば怖くなくなって、冷たさも痛さも鈍くなるらしい。

 そうだ酒と海だ、そうしよう。パッとしない私の人生にさっさとオサラバしよう。

 さいわい、ここから四十分も歩けば海に着く。人があまり通らないところも知っている。私は海を囲む防潮堤と、その上に登る階段を思い浮かべた。そこに、なぜか真木の顔が浮かんだ。少しは悲しんでくれるかな。いやちょっぴり気まずくなるだけで、すぐ忘れるだろう、どうせ。でもって大人になった時に、そういや俺にふられて死んだバカ女がいたなあ、とか思うのかもしれないな。
 胸がまたぎゅっと痛くなり、速足が駆け足になった。心臓の鼓動がすごい。ドキドキじゃなくて無理、無理、無理、と聞こえた。

 無理、無理、無理無理無理無理無理無理……

 家に戻った時には、もう死ぬことしか考えられなかった。発見された時に恥ずかしくないように新しい下着に替えて、あとは一番気に入ってる服を着て。死体はなるべく綺麗なうちに見つけて貰えたらいいな。リアルに想像しそうになって、慌てて気持ちを逸らした。ええと、それから何が要るんだったっけ?そうそうお酒。
 冷蔵庫をのぞいて、白ワインの瓶を取り出した。これで大丈夫かな?考えてみれば未成年なんで店じゃ買えないしなー。まあ、お酒ならなんでもいいか。
 冷えた酒瓶を、薄いエコバッグに突っ込んだ。少し考えて、クラッカーもひと箱。サコッシュに財布とスマホを入れてファスナーを閉め、上着を持っていくかどうか迷って、これから死ぬのに身体のことを心配したってしょうがない、と思い直した。
 家を出ると、海を目指して急ぐ。妙な高揚感を自覚して苦笑いする。今はそれでいい。胸の痛みを直視しないように。海に行くことだけを考える。

 三十分ほど歩くと踏切が見えた。あそこを渡ってしばらく真っすぐ進み、右折すれば、防潮堤が見える場所に出るはず。線路に踏み込む直前、踏切が鳴り出した。一瞬迷い、私は小走りでそのまま進んだ。
 線路と線路の真ん中に差し掛かった次の瞬間、体を打ちつける強い衝撃があって、地面にうつ伏せに寝ている自分に気づく。え?転んだ?こんな所で?起きあがろうと焦って手をつき、鋭い痛みにビクリと手を引くと、右の手の平がざっくり切れていて、血がつつっと流れた。エコバッグの中で瓶が割れて、ワインがバッグを通り抜けて地面に拡がり、中の破片がバッグを突き破っていたのだ。容赦なく耳に刺さる踏切の音と、傷口から溢れる血を見て頭が真っ白になった。やばい早く起きないと、死、死ぬ。マジで。ちょ、洒落にならな──

 後ろから足音が聞こえ、二人の制服男子が視界に入った。片方が私の手を引っ張って立たせ、もう片方は素早くエコバッグを拾い上げて、三人で踏切を渡り、踏切のバーを持ち上げて外に出た。私は左手を引かれるまま地面を見つめて歩いた。安堵よりも恥ずかしさで顔から火が出そうだ。痛い、恥ずかしい、と耳元で強く鼓動が鳴っている。
 痛い、恥ずかしい、痛い、恥ずかしい……


「血が出てる」
 聞き覚えのある声に顔を上げると、私の手を引いているのは真木で、エコバッグを持っているのは藤川だった。顔に上っていた血がざーっと音を立てて引き、勢いよく左手をふり解く。よりによって、いま一番会いたくなかった相手に。真木も気まずそうな顔をして
「気持ち分かるけど、傷を洗っとこうよ。ほら、水道あるから」
 と、数メートル先の公園の入り口を指さした。

 私たちは水道の隣のベンチに鞄を放り投げた。私は蛇口を捻り、水流に右手を突っ込んだ。手の平に溜まった血が洗い流されて、透明な水に赤が混じり合う。藤川はワインでぐしょ濡れになったバッグを両手で広げて、中を覗き込んだ。
「あー瓶割れて中身、全部出ちゃってるわ。箱も濡れてる。これ酒?匂いすげえ」
 藤川は片手を突っ込んで、濡れたクラッカーの箱を取り出した。
「よかったら食べて。ワイン塗れだけど……」
 私はぐったりして、そう言った。藤川は破片入りエコバッグを近くの草むらに下ろして、箱を開封すると私と真木に歩み寄り、差し出す。
 私は右手を水に浸したまま、左手で一枚取った。真木と藤川も齧ると、顔をしかめて
「なにこれ、マズ」
 と言いながらも食べる手を止めない。私もちょっとだけ齧る。ツンと匂いがして、クラッカーの味がよく分からない。

 出血が収まってきた。冷静になって傷を調べると、長さは二センチ程で、深さは数ミリ程度のようだった。左手で抑えると、血が滲む。真木が傷に顔を近づけたので、長い睫毛の影が目の下に落ちているのが見える。微かに彼の匂いがして、私の胸は勝手にドキドキする。
「右手だし、病院行った方がいいかも」真木は言うと、半歩離れてエコバッグをチラリと見た。
「酒と食いもん持って、これから宴会だった?」
 見透かしたような口調に苛立ち、私は真木を睨みつけた。
「ヤケ酒!ふられたからっ、誰かさんにっ……どうせ死ぬつもりだったしほっといてくれれば良かったのに」
 真木は顔を歪めた。「はあ?失恋で自殺?ダッセ、めちゃカッコわる」きつい口調の割に彼の表情は泣きそうに見えて、それが私の胸を切り裂いた。手の傷なんかよりずっと痛くて、じわりと涙が浮かんでくる。おどけた口調で藤川が割って入った。
「きっつうーふった側がその言い方はないわ。えらい上からだけどお前、振られたことあんのかいっつー話」
 真木は藤川を険しい顔で睨んだ。
「あるよ!たった今、失恋するっ!」言い放つと彼は藤川に歩み寄って向かい合い「俺が好きなのはお前」と早口で言った。
 突然の意外すぎる告白に、私も藤川も数秒間、頭の中で言葉の意味を反芻して、じっと真木を見つめた。彼の耳と首すじが真っ赤になっている。藤川は呆然とした様子で「マジ……?」と呟いた。

 私は突如として自分の立場が当事者から第三者になったことに気がつき、気持ちが昂ぶって叫び出しそうになるのをぐっと堪えた。
 これっもしかしてボーイズラブという奴では、えっすごいマジで!?生で見たの初めて。うわああーなんかドラマみたい……。
「何やってんの」
 藤川が、手で自分の顔を覆った私に尋ねたので、私は指の隙間から彼らを見ながら「ワタシハ空気。空気ナノデードウカ、オカマイナク」と言った。
 真木の告白相手が男子だったので、衝撃よりも興味が勝った。是非ともボーイズラブの顛末を見届けたい。空気になりきって見守っていると、藤川は私を指さして、神妙な顔つきで真木に「俺が好きなのは、こいつ」と言った。

 二人の視線が再び私に集まった。
「え」
 男子からの記念すべき初告られなのに、真木がなんともいえぬ表情でこちらを見ているので、私はどういう顔をすべきか分からずに困惑した。えーとこの場合、私の立場って……なんかもう色々あり過ぎて感覚が麻痺してきたな。私は藤川に向かってボソリと
「ごめんなさい」
「いや即答かい」
 藤川のツッコミに、私は思わず笑って「ごめんて」と返した。張りつめた空気がゆるんだ。
 互いの顔に浮かんだ苦笑は次第に大きくなり、ついに私は吹き出した。
「うっそぉー…ふくくく」
 真木と藤川も笑い出した。
「く、ふはははは」
「あっはっははははは」
 私たちはその場でしばらく大笑いした。



……十年後も、会えば必ずこの時の事が話題になった。
 私たちはあの日、三人とも恋を失い、代わりに友情を手に入れた。
 心から気兼ねなくつき合える友人は、恋より得難いものだと、今はわかる。


(完)

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