百年探しつづけた犬【SF短編小説】
「こんにちは」
僕はその声を聞いて、目を開けた。目線を下げて、足元を見下ろす。透明な壁の向こうに、空色の小さな巻き毛の塊がある。記憶ライブラリで照合する……『犬』。
巻き毛の中から、焦茶色の眼が見えた。丸くて艶々に光るその眼は僕の目を見つめる。僕も見つめ返し、発声してみる。
「こんにちは」
巻き毛の塊は尻尾をちょこちょこ動かして、その場でぴょんと小さく跳ねた。“それ”から、また声が聞こえた。
「良かった。起動した。君にはわたしが見える?どう見える?」
僕は答えた。
「犬の姿をしている。トイプードル。色はセルリアンブルー」
「そこから出てこれる?」
僕は周りを見回した。自分の身体は、透明なチューブ状のアクリルケースの中にあるようだ。身じろぎすると、小さく作動音が響き、ケースがゆっくりと上にせり上がってゆく。
アクリルケースが天井の中に消えてゆき、腰に嵌っていたエネルギーチャージのプラグが外れる。僕は慎重に一歩、前に踏み出す。トイプードルは後ろに下がった。僕はそのままゆっくり歩き出し、五歩歩いて立ち止まる。
僕が居るのは、薄暗くて広いホールのような場所だった。ツルツルの床と壁。部屋のずっと先、突き当たりは床から天井まで窓になっていて、複雑な格子の向こうから光が差し込んでいる。壁際にはチューブケースが一定間隔で並び、中には一体ずつロボットが収められている。
僕はGPSを作動させ、この場所の位置情報を取得しようとして失敗する。記憶ライブラリを参照し、場所を推測してみる。
「ここは、博物館?」
「そう。ネオトーキョー歴史博物館。歴代ロボット展示フロア」
チューブの一つに近づき、ケースの表面に手を触れてみても、自動音声ガイダンスは始まらなかった。
「今は休館中なのかな」
僕の声がフロアに反響する。僕と犬の他に、動いているものは無い。犬は答えた。
「休館して今年で百年目になるね。窓の側に行って外を見てごらん。君が知ってる光景とは、少し違ってると思う」
僕は窓に向かって歩き出し、空色の犬は飛び跳ねるように走って先に窓の所に着いた。窓が近づくにつれ、自然光に照らされて辺りが明さを増してゆく。白っぽい光の中に滲んでいた外の風景が、くっきりと浮かび上がってきた。
外の風景は、記憶にあるよりも植物が生い茂り、舗装道路は厚く積もった落ち葉と土に半ば覆われている。博物館前のレンガ敷の広場は、ひび割れが酷く、雑草がぼうぼうと茂って原っぱの様だ。動くものは風に揺れる木々の葉や草むらだけで、人も車も姿が見えない。
広場の端に、掃除ロボットらしき姿も見えるが、損傷が酷く、稼働を止めて随分経っているんだなと分かる。
その時、何かが道を移動しているのが見えた。ライブラリと照合する……『鹿』。
空色の犬は、口を開かずに話し始めた。
「君がここに収められてから、百八十年経っている。わたしは犬型愛玩用ロボット。D_joan0285b。マスターには『ネモフィラ』と呼ばれていた。だから君にもそう呼んで欲しい」
ネモフィラは、僕の前を歩きながら時々振り返り、そう言った。僕は彼について歩きながら尋ねた。
「分かった。ネモフィラ。僕を起こしたのは君か?」
「そう。目的、というか、君にお願いしたいことがあって」
「お願いは何?」
ネモフィラは立ち止まって僕の顔を見上げた。
「わたしと一緒に、ある場所に行き、やってほしい仕事があるんだ」
ネモフィラから必要な情報をダウンロードし終わった処で、僕は、空色の巻毛に覆われた垂れ耳の下から端子を引き抜いて、コードを巻き取り、首の後ろに収納した。
「君の足なら、ゆっくり歩いて二日もあれば着くよね。ただ、以前に比べると道に障害物が増えているから、迂回せざるを得ない場合もあると思う」
ネモフィラは僕を先導するように歩き始め、僕はその後についてゆく。
人の姿は全く見えなかった。途中で、動かない館内案内ロボットの前を何度か通り過ぎる。博物館を維持管理するロボットを何台も見たがどれも停止していて、僕ら以外に動くものはない。しんと静まる展示フロアを通り抜け、開け放たれた博物館の出口から外に出た。
建物の外に出ると、風が、僕の黒色の髪の毛をなびかせた。僕の見た目は、人間の少年を模して作られている。白いブラウスに焦茶色のズボン。二十年間マスターと過ごし、マスターが亡くなる直前に電源スリープ状態になった。どうやらその後は、博物館に寄贈され、展示されていたらしい。
僕はネモフィラについてゆく。ネモフィラは僕に名前を尋ね、僕は答えた。
「BW-1083-regn」
「マスターは君を何て呼んでたの」
「トビオ」
「じゃあトビオって呼ぼう。トビオ、どう?久しぶりに外を歩いた感想は」
「……人が居ないのは何故」
僕とネモフィラは生い茂った茂みを避けながら歩いた。見た事のない大きな鳥が数羽、空を飛び過ぎてゆく。時々、鹿や狸、猪が歩いている姿が遠くに見えた。街中に野生動物の姿を見る事は、以前には無かった。
「人類はこの惑星から、地球に帰ったんだよ。一人残らず」
僕は聞き返した。
「いつ?」
「百年前」
「……それは、人類は持ち直さなかった。そういう結論になったのかな」
「そうだね。人類はこの場所で生存し続ける事を諦めた。ここでは駄目だったけど、地球なら、再起できるかもしれない。衰退の原因は人類じゃなくて、この惑星かもしれない。それに賭けて、旅立ったんだよ。お年寄りも、病人も、例外なく全員」
視界の隅に動くものがあり、目を向けると、街路樹の枝の上を栗鼠が素早く走りぬけ、一瞬後には巣穴に潜り込んだ。僕は足を止めず歩き続けた。ネモフィラも道路のひび割れを器用に避けながらちょこちょこ歩いてゆく。
「トビオ、君が稼働していた頃から、人類は衰退を始めていたの?」
「僕が生まれた頃、科学者が言っている事に耳を傾ける人と、そうでない人の間で、激しい議論になっていた。それから二十年経って、マスターが死ぬ頃には、毎日、ニュースでその件が話題に上がってた」
Human decline syndrome……人類衰退症候群。
遥かな人類の祖先が地球を離れ、惑星ゼウスに入植してから数世紀。いつから始まったのか定かではない。気づいた時には、人類は衰退の道を辿り始めていたのだった。
革新的な発明や芸術作品は生まれなくなった。人々は全ての事柄に挑戦への熱意を失っていった。そして何よりも深刻なのは子供が産まれなくなった事だ。出生率は急激に下がり始めた。程度の差こそあれ、どの国でも同時にそれが起こり、加速していった。
人々は原因を探った。子供を育てる環境が整わないから。育児にお金がかかりすぎるから。子供を持つ事に意味と価値を見出せなくなったから……。
人類社会は思い当たる原因に全力で対処していった。社会全体で出産を推奨し、誕生から成人までの費用を全て無償にした。子供を熱望する夫婦の数は右肩上がりに増えていくものの、女性の妊娠の成功率は下がる一方だった。体外受精の技術開発にも人と資本が注ぎ込まれた。
何故、妊娠しないのか。何故、受精しても胎児に成長する前に死んでしまうのか。食事?生活環境?ストレス?それとも未知のウィルス?科学者は頭を捻り、人類はまた、ありとあらゆる方法を試し……。
……最後の科学者が白旗を上げ、ついにはこの結論に至った。
“ホモサピエンス”という種そのものが、衰退し、滅亡へのカウントダウンが始まったのだろう、と。
「“衰退”が決定的になってから、色んなことが起こったんだ。ストレスから社会不安が増大して、暴動やテロがあちこちで起こった。学校が次々閉鎖されて、若者の雇用は奪い合いになった。平均年齢は上がる一方だから、労働力としてロボットの開発が急ピッチで進んだ。愛玩用ペットロボットの需要も急増した」
ネモフィラは尻尾を振りながらこちらを振り返った。
「わたしもその一環というわけ」
出し抜けに、けたたましい声を上げて、側の茂みから大きな鳥が飛び立った。ネモフィラはビクッと大きく跳ね上がり、僕は立ち止まった。ネモフィラは言った。
「ビックリした!」
「驚く事が出来るなんて、君は高性能なロボットなんだね」
ネモフィラはその言葉に、僕をじっと見つめた。
「君は驚く事は無いの?」
「そういう機能は付いてない」
「そうかあ。……じゃあさ、悲しくなったりもしないの?」
「そういう機能も付いてない」
僕たちはまた歩き出した。ネモフィラはキョロキョロしながら進んだ。
「わたしは愛玩用だから。生身の動物に近づけようとしてそうなってるんだろう。トビオ、君は……いや、君のマスターは、どんな人だったの?」
「僕のマスターは、僕と同じ型のロボットのプログラムを作っている技術者の女性だった。僕はこのタイプの試作機だったんだ」
……マスターは、僕に自分を「ココロさん」と呼ぶようにと言った。だからココロさんって呼んでたよ。それがマスターの名前だったんだ。
ココロさんは、僕と暮らして、気づいた事があるとプログラムを修正したり、付け加えたりしていた。製品モニターだね。テスト期間が終わっても、ココロさんは僕を手放さなかった。「情が湧いた」んだって。気に入ったって事なのかなと思う。
その頃から、もう子供は減り始めていたから、僕のような子供型ロボットの需要が増えるのを見越してんたんだろう。僕と同じタイプのロボットは売れたみたいだ。街に出ると、時々すれ違ったよ。髪の色とか肌の色、見た目はカスタマイズされてても、同じタイプのロボットは、近くに居ると認識できるんだ。
「ココロさんと暮らして幸せだったかい?」
ネモフィラはリズミカルに歩きながら、僕の横に並んで見上げてきた。
「ココロさんは僕が居て『嬉しい』って言ってくれた」
僕は記憶データベースから映像を参照した。ココロさんのビジョンは、掠れているけどちゃんと映った。
「トビオはどうだったんだい?」
「人間が笑っている時、僕も笑う事が『嬉しい』で、あってるかな?」
「……まあ、間違ってはいないかな」
「僕も嬉しかった」
「それは良かった」
ネモフィラのつぶらな瞳に、僕の姿が映っているのが見えた。
「トビオは幸せな子だったんだね」
僕は首をかしげた。
「そうなのかな……『嬉しい』と『幸せ』は同じもの?」
「必ずしもイコールではない。幸せでも嬉しいとは限らない。でも多くの場合、嬉しい時には幸せを感じる。と、わたしのマスターは言ってたかな」
「ネモフィラのマスターは、どんな人だったの」
ネモフィラが何か答えようとした時、ゴロゴロ……と遠雷が低く聞こえてきた。僕に内臓された気圧計が、気圧の急激な低下を示している。冷たい風がごうっと吹き付けてきて、地面の枯葉を巻き上げた。ネモフィラは雲に覆われた空を見上げて
「雨が降ってきそうだ。一応、防水処理はされてるけど、濡れないに越したことはない。どこか建物に入って、雨をやり過ごそう」
と言った。僕らは、近くの建物に走り込んだ。
入口の自動ドアが壊れたビルに入った。かつては会社の受付だったらしい、朽ちたオブジェが置かれたスペースを通り、暗い廊下を通り抜けると部屋に出た。
室内は円形で、壁沿いにはソファが内向きにぐるりと配置されている。大人が二十人も座ると満員になる程度の広さだ。奥の一部でソファが途切れているのが見える。床には吹き込んできた土の上に動物の足跡が残り、踏み荒らされて元の色が分からない。
雷の音は大きくなり、雨の音もし始めた。僕は汚れたソファに腰掛け、ネモフィラもぴょんと座席に飛び乗って、僕の隣に座った。
僕らが座った事で存在が部屋に感知されたのか、突然、軽やかな音楽と共に、部屋の中央に立体映像が映し出され、辺りを虹色に照らした。半分透き通ったカラフルな螺旋が部屋の中央で回転する。映像は時々、ノイズで途切れ、ナレーションが響き渡る。
「DNAスキャニングセンターにようこそ!我が社では、貴方の遺伝子をスキャニングし、遺伝子の完全なデータ……貴方のお望みを叶えます。作成したデータがあれ……不可能が可能になります!」
螺旋は小さなブロック状にバラけ、それらが集まって、赤ちゃんの姿になった。次々と色んな髪の色、肌の色を持つ赤ん坊に切り替わってゆく。
「例えば、貴方が子供を持つことを希望……相手によって変わる、子供の特徴を予想して再現でき……相手のデータは、既にスキャニング済みの方……当社が用意するサンプルでもOK!高確率のシミュレーションサンプルをご覧になれます」
映像の赤ん坊は成長し、子供になり、大人になった。大人は歩いたり、笑ったり、食事をしたりしている。
「また当社の成長予想シミュレーションで、成長後の姿も見……できます」
外から湿った空気が室内に流れ込んでくる。ゴロゴロと雷の音が聞こえる。
映し出された人の姿はブロックにバラけて、犬、猫、小鳥に次々と変わった。
「スキャニングできるのは人だけではありま……貴方の大事なペットも、スキャンでき……データのバックアップがあれば、ペットの死後も、同じ個体をロボットで完全再現。家族の一員として大切なペ……こうすれば永遠に貴方の傍に」
部屋の中央の小鳥は枝に留まり、色と形をゆっくり変えながら羽繕いをしている。
「オーダー次第で、姿形の変更も自在です。貴方の『こうだったらいいな』を自在に叶え……す」
小鳥は数を増やし、カラフルに輝きながら部屋を縦横に飛び回った。
「DNAスキャニングのファーストステップは、データの採取です。情報の取得に同意……お客様は、次の部屋にお進み下さい」
ガタガタと音がして、ソファが途切れている位置の、背後の壁がスライドし、奥への通路が姿を表した。青と緑に波打つ矢印が、そちらを指し示す。
僕は立ち上がり、輝く矢印に歩み寄ると、手を触れてみる。矢印はバラけて、舞い踊る花びらになった。ネモフィラもソファから降りて、半分透き通った薔薇色の花びらに近づくと、しばらくそれを眺めた。
「トビオ、とっても綺麗だね」
僕も花びらの中に踏み込んで、掌に花びらを受けてみる。花びらは手をすり抜けて薄闇の中をヒラヒラ舞い踊った。やっぱり、ネモフィラは僕より高度なロボットだ。僕には「綺麗」という概念を実感できない。
薔薇色の乱舞の中でネモフィラがポツリと呟いたのが聞こえた。
「ここだったのかもな」
次の瞬間、割れるような轟音が響き、断ち切られたように映像と音楽が消えた。
「雷で、負荷がかかり過ぎて自動的に停電になったみたい。暫くすれば自動復旧する筈……でも、どうかな。どこもかしこも劣化してるからねぇ」
暗くなった室内にネモフィラの声が響く。僕は目を暗視モードに切り替えた。視界が緑色のグラデーションに変わる。緑色のネモフィラの目は白く輝いている。
壁のドアの辺りから物音がし、僕達が目を向けると、大きな四つ足の動物が建物の中から、ぬっと姿を表した。ライブラリと照合する……『熊』。僕とネモフィラと熊は、数秒見つめ合った。次の瞬間、熊が吠えた。
「グオン!」
熊は敏捷にネモフィラに駆け寄ると、首の辺りに噛みつき、そのまま口で咥えて、建物の出口に向かって駆け出した。
「トビオ!!」
ネモフィラは叫び、熊は出口を走り抜けた。僕は急いで熊の後を追った。
熊は街の中を走っていく。僕は視界を平常モードに戻し、移動をrunに切り替えた。追いかけるスピードが速くなる。エネルギーの消費スピードはグンと上がるけど、熊を見失うわけにはいかない。
運良く雨は殆ど止んでいた。この程度なら、防水服でしのげそうだった。ある程度濡れても大丈夫だけど、やはり濡れるのは良くない。
かつて集合住宅だった場所の植栽が年月で生い茂って、入口に入ってすぐの敷地内は小さな森のようになっている。
熊はそこに駆け込んだ。僕も追いかけようとして、一旦立ち止まる。
視力を再び暗視モードに切り替えたが、森の中は障害物が多くて、追いかけるのが難しくなってきた。逃げて行く熊が揺らす茂みや木々を見逃さないように、できる限り足を早める。僕に匂いの跡を辿る機能は無いので、ここで引き離されてしまったら、探すのは殆ど不可能になる。
でも、熊の方がやっぱり早いみたいだ。先を行くはずの熊の気配を見失なってしまう。僕は辺りを見回しながら歩いた。木立が途切れ、かつて花壇だった、雑草が丈高く生いしげる場所に出る。
視界を通常に戻して空を見た。地平線の辺りに漂う朱色は急速に闇色に染まり、夜になりつつあるようだった。空には二つの白い月、カストルとポルックスが見える。標準電波が止まっているらしく、正確な時刻は分からない。
雑草の隙間に縁石が見えた。よく見ると縁石が並んでいるのは道で、東西に伸びているようだ。道の先は左に折れて、木立に遮られ見通せない。殆ど土に覆われている道の表面に、新しい踏み跡を発見して、僕は足跡を追跡し始める。
足跡を辿るうちに、木立が途切れて急に視界がひらけ、マンションの玄関前に出た。
壊れたエアバイクが何台か倒れていて、建物の出入り口はシャッターが閉まっている。建物の壁はひび割れて、植物がツタを這わせ、壁を覆い尽くさんとしていた。
熊は玄関の柱の側で座りこみ、ネモフィラに喰いついていた。熊の手元にはむしられた空色の毛が散らばっている。
僕が近づくと熊は頭を上げ、目が合った。熊はネモフィラの身体を放り出すと、のそりと姿勢を変えて、四つん這いになる。
次の瞬間、熊は一瞬で僕との距離を縮めると前脚を振り上げ、僕の頭に叩きつけてきた。僕は身を屈め、ギリギリでそれを躱す。頭髪が僅かにちぎれ飛ぶ。
僕はそのまま熊の横に回り込むと右手で熊を掴み、分厚い剛毛の中に人差し指を差し込むと、電極の針を発射して熊に突き刺し、繋がれた銅線から電流を流した。
バシッ!という音がして火花がスパークし、熊が大きな悲鳴を上げ、凄い力で僕を振り払った。僕は吹っ飛ばされて、数メートル空中を飛んでからゴロゴロ地面を転がった。
僕は寝転がったまま、熊の方に顔を向ける。横になった視界の中で、熊が逃げ出すのが見えた。茂みを強引にかき分け、踏みつけた枝の折れる音が聴こえてくる。
音は遠のいてゆき、僕は身を起こすと、ネモフィラの元へ歩みよった。
僕はネモフィラの側にしゃがんだ。ネモフィラは伏せの体勢で僕を見上げる。表面の毛はあちこちむしられて痛々しい。首と下腹の部分は青白い人工皮膚が露出していて、表面は噛み跡で抉れ、酷く凹んでいる。
「ネモフィラ、酷い目に遭ったね。僕のこと見える?カメラアイは無事?」
「見えるよ。助けてくれてありがとう。君は大丈夫なの?」
「僕は平気。見た感じ、内部損傷が酷そうだね、立てる?」
ネモフィラは、よろけながらも立ち上がり、数歩歩くと、コテンと倒れた。僕はネモフィラの胴を抱えて、もう一度立たせてみようとしたが、ネモフィラは震える足で数秒間立つと、また転がった。
「歩けない……姿勢制御の回路が壊れたみたい……困った。トビオ、僕を運んでくれる?お願いしてもいいかな?」
「もちろんだよ」
僕はネモフィラの小さな身体をそっと抱き上げた。身体はほんのりと暖かく、間近に見るネモフィラの丸い瞳の表面に、僕の顔が映っている。ネモフィラはパチパチと瞬きをした。
「トビオ、時間が。……あと72時間はある筈だったけど。どうも……エネルギー回路も壊れた感じがする。座標位置に到着するまで、もたないかもしれない」
僕はネモフィラを抱いて、地上の灯が全く無い、夜の闇に沈む街を走った。二つの月の月明かりと星の光が唯一の光源だ。
到着場所の座標は、頭の中に入っているので、方位とスピードから現在位置を予測しつつ、最短と思われるコースをリアルタイムに選択しながら進んだ。
数台のエアカーが放置されている道路を跨ぐように、高架が縦横に廻らされている。僕は高架へ上がる長いエレベーターを階段のように登りながら、腕の中のネモフィラに話しかけた。
「まだ到着まで時間がかかるよ。移動の間、何か話してくれない?君のマスターの事とか」
しばらく間があった後、ネモフィラは話し始めた。
「わたしのマスターは……
……わたしのマスターは、以前に飼っていたトイプードルの遺伝子情報を使って、わたしを作ったらしいんだ。見た目だけでなく性質も、マスターへのヒアリングと、遺伝子走査から要素を推測して、それに近づけるように作られた。
元の生体の毛色は栗色だったけれど、マスターは何かの気まぐれで、セルリアンブルーに変えた。わざわざ遺伝子から作っておいて、何故そんな事をするのかな。人間のそういう部分は理解不能だよ。
マスターは男性で、わたしが作られた時の年齢は51歳。家族は他にいなかった。仕事は忙しかったみたいで、あまり自宅にいなかった。何日も帰って来ない事も度々あった。
マスターは言ってた。生きてる犬が居ると、長く留守に出来ないし、どこかに預けて面倒を見てもらう事も必要だけど、お前は手間要らずで助かるって。エネルギーパックは無茶しなけりゃ二十年は保つし餌やりも要らない。散歩も睡眠も必要無い。ロボット犬は楽だなぁ、と、良く言われた。褒められているんだと思ってたよ、最初の頃は。
その頃は、世界ではもう何年も子供が産まれなくなっていて、どこかで子供が産まれると、世界中にニュース報道されていた。わたしはマスターが居ない間、よくテレビを観ていたよ。外に出る事は禁じられていたしね。
産まれたばかりの人間の子供、見たことある?そうか、ベビーカーで眠っている様子しか知らないんだね。番組で観たんだけど、ビックリする位、何も出来ないんだよ。
とにかく眠って、起きたら泣き喚いて、世話されて、また眠って起きて泣き喚いて……の繰り返し。面倒を見るのがとてもとても大変そうだった。
両親とヘルパーがチームになって子供の世話をするんだけど、子供は貴重だから、ヘルパーの身元だって入念に調査されている。とにかく成長するまで、大勢の人間がかかりきりになるんだ。
世話してる人間は口々に「疲れた、こんなに大変だとは思わなかった。いっときも目が離せない」って言うんだ。でも、子供が笑った時、大人も凄く嬉しそうなんだ。不思議だった。大変で疲れるってネガティブな意味だよね。なのに何故、大人たちは嬉しそうなんだろう?
マスターが自宅で過ごす時間はどんどん減っていった。わたしがマスターの家で過ごし始めて一年経つ頃には、月の半分以上、自宅に居なかった。時々あった外への散歩も無くなった。
疲れてるんだろうと思ってたよ。いつもわたしと居る時はしんどそうな様子だし。だから、なるべく負担をかけるまいと思った。マスターが自宅に居る時は特に気をつけて静かにして、遊びや散歩をねだる事もしなかった。
ある時、わたしは居間で過ごすマスターの手に鼻で触れた。時々でいいから、わたしの方を見てほしくて。そしたらマスターは酷く驚いて
「犬が居る事を忘れてた」と言った。それから「お前は居ても居なくても同じ位に存在感がない。そんなのは犬じゃない」とも言った。
わたしは意味が分からなくて「わたしは犬型です」って答えた。するとマスターは怒ってわたしを叩いて「犬が喋るな!」って怒鳴った。それまで何度も会話していたのに、どうして今更そんな事を言うんだろう。マスターはすぐに謝ってくれた。
「ごめん、お前にそんな事を言っても仕方ないよな。お前は悪くないよ、でもやっぱりダメだ……俺が間違ってた。お前を作った事は失敗だった」
マスターは、そう言ってまた家を出て行った。わたしは、混乱した。
マスターが次に自宅に戻ったのはひと月後だったけど、その間に世界がひっくり返るような出来事があった。
世界政府が『地球帰還計画』を発表したんだよ。人類が減りすぎる前に、最後の希望を賭けて、地球に帰ろうって事になったんだ。
それからは連日の大騒ぎだよ……人類のこの星での、最後の大事業。十年後に出発することだけは確定のスケジュールで。
エッセンシャルワーカー以外の人間は全て、現在の仕事を変えて、出発に関連した業務に着く事になった。
当然、地球に行く気が無い、行きたくない人も大勢いた。ここに入植して数世紀は経過してるし、地球は伝説の聖地で憧れる人も居るけど、移住となると話は別だから。
三年くらいはその問題で揉めた。で、最後には、強制的に全員って事になった。年寄りも、病人も、犯罪者も。
マスターが戻り、わたし達は話した。ロボットは、厳選したものだけ、地球へと運ぶ。それも主に、長期航行中の人類の生命維持に関する物に限られる。もちろん、わたしがついていく事は出来ない。マスターは何度もわたしに謝った。
「俺は良い飼い主じゃなかったよな。ごめん。姿が似ているほど……仕草や動きが似てるほど、以前の子を思い出して。違っている所が苦しくて。そう作ったのは俺なのに。ネモフィラ、ごめん。ごめんな」
そこでやっと分かったんだよ。マスターも苦しかったんだ。
僕は立ち止まり、方位とスピードから現在位置を算出した。
「ネモフィラ、あと五キロ位。ほら、もう見えるよ。あれだよね」
僕は、建物と木立の向こうに聳える、月明かりに照らされたタワーを指さした。ライトアップされないタワーの複雑な骨組みは黒く、半ば夜の闇に溶け込んで見える。ネモフィラは呟いた。
「あの塔は、この国で一番高いって。マスターが言ってた。あのてっぺんはこの国で一番、星に近い場所なんだ……」
「……行こう」
僕は移動を再開した。
タワーの真下に立って見上げる。こんなに近くでタワーを見るのは初めてだ。その大きさ、柱の一本一本の巨大さに圧倒される。ここからは頂上が良く見えない。
エレベーターは使えないので、非常階段を見つけて登り始める。人間なら、頂上まで登るのはかなり大変だろうけど、幸い、ロボットの足は、エネルギーが切れない限り、何時間でも同じペースで登り続けることができる。
一定の間隔で小さな踊り場が設けられていて、僕とネモフィラは、そこにたどり着くと周りの風景を眺めた。
それなりに長い時間、上に登り続けているので、既にタワーから数十キロ先まで見渡せる場所に居るはずだったけれど、月明かりの中では殆ど見えない。
目をこらせば微かに、眼下に広がる地面らしき広大な何かと、その上を占める限りない空間を感じられはするが、境目は曖昧に闇に溶けて、だんだんと、無限に続く闇の空間に浮かんでいるような気がしてくる。
その中で星と二つの月だけは、確かな手応えと存在を感じられるものだった。地上の灯が全く無い中で観る星空は、僕の記憶データベースにあるどれよりも星がくっきりと密集して、微妙な色の違いまで明確に見える。
そして、ようやく、階段が終わる場所に着いた。
僕らが居るのは、展望台の屋根にあたる、八角形の広場のようになっている場所だ。僕達の頭上、十メートル程の所に頂上が見えているけど、そこに至る階段は見つからなかった。
ネモフィラを抱いてよじ登るのは、リスクが高い。広場を囲むように巡らされた低い柵の一部が、錆びて外れたのか、途切れている部分があった。僕達はそこまで歩いてゆくと、両足を外に向けて腰掛けた。
僕は膝にネモフィラを載せ、両手で小さな空色の身体を抱え込み、一緒に空を見上げる。
「間に合ったね」
僕はネモフィラの柔らかい巻毛をゆっくりと撫でた。
「君のお陰だよ。ありがとう、トビオ。……ごめんね。わたしの我儘に付き合わせてしまって。君には本当に済まないと思ってる」
「そんな風に考えてたの?僕は、君を手伝えて、嬉しいと思ってるよ」
「君は優しいね」
僕は数秒、考えた。
「僕は優しいのかな?」
「君は優しいよ。ココロさんが優しい人だったんだね、きっと」
「……もうココロさんは、この世界のどこにも居ないんだと思うと、何だか胸に冷たい風が吹き込んでくるみたいな感じがする」
ネモフィラはクリクリの瞳で僕の目をじっと見つめる。
「それは、トビオ、寂しいって気持ちだよ」
「寂しい……」
僕たちはしばらく黙って、どこまでも続く星空を眺めた。
星があまりにも沢山で、どれもくっきりと見え過ぎて、距離感がおかしくなる。ここが世界の中心で、星の海の中を漂流しているように錯覚する。
ネモフィラは上を見上げて言った。
「あの中のどこかに地球があって、たった今も、マスターと人間の全部が、そこに向かって旅を続けている筈なんだ……宇宙を渡る方舟。何もトラブルが起こらないと仮定して、地球に着くまでは五百年。旅立って百年経ったから、あと四百年」
「ネモフィラ、君が止まったら、戻って新しいエネルギーパックに入れ替えるよ。博物館には予備があると思うし」
ネモフィラはかぶりを振った。
「活動限界なんだ。エネルギーを補充しても、わたしは、止まったままだと思う。
マスターは旅立つ時にわたしに聞いた。電源をオフにして眠らせるか、そのままにしておくか、と。わたしはそのままにしておいて、と頼んだよ。ずっと家の中に居たから、外に出てみたかったんだ」
ネモフィラはその瞳に星を映した。
「マスターが乗る宇宙船を見送った後、百年のあいだ、わたしは世界を旅した。あくまでも自力で移動できる範囲で、だけど。
色んな場所に行った。わたしと同様、まだ稼働してるロボットにも時々出会った。……でも、この十年位は会わなかった。だから君を目覚めさせたんだ。わたしは……ひとりで死にたくなかった……」
ネモフィラは視線を僕の顔に向けた。
「トビオ、君はこの後、どうするの?エネルギーの予備は、博物館にもあるし、探せばあちこちにあるよ。気をつけて補充していけば、活動限界までは動ける」
僕は考えてみた。
「……僕も、もう暫くこの世界を見てみたい。僕は人型だから、人間の乗り物にも乗れるし。映像でしか見たことのない場所に行ってみたい。それに……そうだな、まずココロさんと暮らした場所に行ってみようかな」
「そうか。それがいいね」
ネモフィラは身震いした。僕はネモフィラを覗き込んだ。
「寒い?」
ネモフィラは僕の胸の上に頭を載せた。
「……ずっと、探してた……わたしが生まれた意味。マスターに必要とされない、昔、愛した犬の代用品。ロボットって、役目があるから……必要があるから、生み出されるものだろ?じゃあ、わたしは?……」
「ネモフィラ、待って。……もう?限界時間なの?僕は、もっと君と居たい」
身体中がなんだか苦しい感じがする。ネモフィラは僕の胸に頭を擦り付け、瞼を閉じた。
「……わたしは……君と会うために生まれたのかも……きっとそうだ……トビオ、会ったばかりだけど……君の事が大好き」
「僕も君が大好きだよ」
僕はネモフィラの身体をギュッと抱きしめた。そうすることで、何かを繋ぎ止めたかった。
「……トビオ……君にも……ロボットにも……心があるよ…………死ぬと心は消えるのかな……それとも見えない鳥になって、飛んでいくのかな……」
「ネモフィラ、まだいかないで」
「…………わたしは……しあわせ…………」
「ネモフィラ」
「…………」
「ネモフィラ」
僕はネモフィラの顔を覗き込んで、頭を撫で、何度も名前を呼んだ。ネモフィラは動かなくなった。抱きしめた腕の中の温もりが、ゆっくりと冷えてゆく。
大声で叫びたい衝動に襲われた。
このどうしようもなく胸を掻きむしりたいような感じは何だろう。
……衝動が幾らか収まるまで、ネモフィラを抱きしめたまま、空色の巻毛に顔を埋めて、しばらくじっとしていた。
どれくらいそうしていただろう……僕はネモフィラに頼まれていた仕事を思い出した。顔を上げると、ダウンロードしたテキストを記憶データベースから呼び出した。
そして、マスターから教わった言葉だというそれを、声に出して紡ぎ、空へと解き放つ。星に一番近い場所で。
「主は……私の羊飼い、私は乏しいことがない
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われる
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために私を義の道に導く
たとえ、死の陰の谷を歩むとも……
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