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桜の木の下【短編小説/前編】

この小説は、kesun4さんの詩
桜の木の下
をイメージしています

 暗い虚空の中に、微かに桃色を帯びた白い光が浮かぶ。
 光る雲のようなそれを、よくよく見れば、満開の桜だ。重そうな花をびっしりつけた桜の木が並び、そこから花びらが溢れ落ちて、季節外れの雪を、際限なく降らせ続けている。
 光の雪が降りしきる下には大勢の人々が、地面に暗い紅色の敷物を敷いて、その上に座り、賑やかに酒を酌み交わしたり、彩り豊かなご馳走に舌鼓を打ちながら、話をしている。辺りには寛いだ雰囲気が満ちて、みんな心の底から楽しそうだ。

 僕はその様子を遠くから眺めていた。
 あの幸せそうな人々の仲間に入りたいのに、なにか、よく分からない違和感のようなものがあって、足が動かない。僕は、歓談している人々を見つめ、奇妙なことに気づいた。
 座って料理を食べているものの中に、明らかに人以外のものが混じっている。それらは、ふさふさした毛並みの何か動物のようで、狸か狐か、または鳥の顔で尖った嘴が生えていたりし、中には見たこともない化け物のようなものもいた。人のように服を着ているものも、着ていないのもいる。そして器用に箸を持ち、人に混じって歓談しているのだ。それを周りの人間も、気に留める様子はない。
 そして、やけに静かだった。あれだけ桜の花びらが散っているなら、梢を渡る風の音がするのではないか。大勢が歓談しているざわめきも聞こえてくるはずだ。なのに、シンと静まり返って、映像を観ているようだった。

 僕は周りを見回した。辺りは深く闇に沈んで、あの桜並木の他には何も見えない。永遠の夜の底のようだった。後ろには、抜けて来た森が見える。こちらも、より集まった木々の向こうは全くの闇だった。自転車置き場の脇の通路を進んだ筈が、どうしてこんな所にいるんだろう。
 しばらく迷っていたが、あそこに行くしか無さそうだ、と覚悟を決めて、桜に向かって踏み出し──途端に肩を掴まれて、ギョッとして振り返った。

 そこに居たのは。丸い頭に紺色のバンダナを巻き、黒い作務衣を来た若い男だった。ひょろりとした体躯に丸眼鏡をかけ、レンズの奥には細い切長の眼が覗く。
「近づかないほうがいいっす。あれは普通の桜じゃないです」そして微笑んだ。
「奇遇っすね。俺のこと覚えてます?」
「えっ……」
 僕は目を細めて彼の顔を見た。たしかに、見覚えがあるような気がする。


***


 通夜の客はいなくなり、指定の時刻を過ぎた。
 喪主である僕と、通夜の受付を頼んだ職場の同僚二人が受付を終え、香典をまとめている時に、妻の親しい友人だという夏木さんが、僕のところに歩いて来るのが見えた。

 夏木さんは通夜の間、妻が手伝っていた“こども食堂 桜の森”の関係者やお客さんの対応をしてくれていた。訪れた人々は、妻がどんな風に頑張っていたか、どんなに優しく、いつも親身になって話を聞いてくれたか、と口々に話し、涙を流した。僕は妻がこんなに大勢の人に慕われていたとは知らず、胸が熱くなったが、正直言って、未だに実感がなかった。

 妻の遺体の右半分は大きく損なわれていた。大型トラックの車輪が外れて、歩道を歩いていた彼女に後ろからぶつかったのだ。タイヤは彼女を押し倒して右半身を轢いた後も、そのまま10メートル進んで、駐車していた車を破壊した。
 警察の話では、あっという間の出来事だったらしい。トラックの運転手は逮捕され、経営者が謝罪に訪れるという話を、僕はどこか別次元の話のように聞いていた。遺体の確認をして以来、棺の中に横たわる妻の死顔を、まともに見れていない。損壊部分は、布と花に隠されている。

 僕は夏木さんに、礼を言おうと口を開きかけて、彼女の険悪な表情に気がついた。夏木さんは側まで来ると「他のお客さんの前では控えてましたけど、私、あなたに言いたいことが山ほどあるんで」と僕を睨みつけた。
春香はるかさんはね、あなたのせいで、すごく苦しんでたんです。心療内科で、カウンセリングを受けるつもりだって話してくれた。それなのに……」
 僕は殴られたようなショックを受けた。
「何ですかそれ。心療内科? 春香がそんな」
「自覚が無いんですね。自分の奥さんを虐げている男って、ホントみんなそう。うちの食堂のお客さんにも多いです。旦那さんにモラハラ受けてて、それに気づいてない人」
「モラハラ?」
 その言葉を聞いて、先日会社を辞めた同僚の顔が浮かんだ。誰かが「アイツ、逃げた奥さんからモラハラで訴えられてるらしいよ」と言っていた。頭がぐらぐらしてきた。春香が?僕にモラハラを受けてると言ってたって?

「あのぉ、どうか、そのお話はまた改めて。今日のところは、お帰り下さい」
 葬儀場の人間に諫められ、まだ言い足りない様子の夏木さんは、しぶしぶ帰っていった。受付を務めてくれた同僚が気の毒そうに僕を見た。
「ただでさえショックなのに、追い討ちって感じだな。まあ会社のことは心配しないでしばらく休め」
 もうひとりの同僚も、その言葉に頷くと、僕の肩を軽く叩いた。
「これから保険だの手続きだの、いろいろ大変だろうけど。手伝えることがあったら力になるからさ。声かけてくれよ」
 僕は二人に礼を言い、連絡を約束して別れた。夜伽は弟の理玖りくと二人で、交代で務めることにした。春香の両親は既に他界し、兄弟は居ない。理玖は「兄ちゃん、俺が先に起きてるから、少しでも寝ておけよ。疲れてるだろ」と気遣ってくれた。僕は理玖に尋ねた。
「お前、さっきの話聞いてどう思った?」
「えっ?」
「春香が僕にモラハラ受けてるって。そういう話、春香から聞いたことあるか?」
「いや、無いよ。ないけどさ……」
 理玖は言いづらそうに目を伏せた。「春香さんと兄ちゃんってさ、結婚前から、わりと亭主関白って感じだなーとは思ってた。けど、仲は良さそうに見えたけどね……」
「……うん。そうか」

 その場に漂う沈黙。

 どっと疲れが出てきたので、僕は、休むことにした。


***

「食堂を手伝うことを許可する条件は、こっちの生活に支障を出さないことだったよな?」
 僕は居間で着替えながら、対面式キッチンのカウンターごしに、彼女に言葉をかけた。春香は冷蔵庫からキャベツを取り出しながら
「ごめんなさい。ちょっと相談にのってて」と言った。僕は不機嫌に「相談って、何の」と訊いてみた。
「言えない。でもさ、来る人はみんな、本当に大変なんだよ」
「君が誰かを助けるの? 家事も完璧にできないのに?」
 僕の言葉に春香は沈黙し、そのまま作業を進める。急いでいるせいか、手つきがいつもより荒っぽい。キャベツを千切りにする。冷蔵庫を開けて、鶏肉のパックを取り出す。唐揚げを作るつもりか。今日は揚げ物の気分じゃないんだが。僕は大きく息をついた。
「疲れて帰って来て、夕飯は手抜きの唐揚げかあ」
「唐揚げも作るの大変だよ。雄一ゆういち作ったことある? ないでしょ」
「肉を揚げるだけだろ。子供でもできる。食堂のメニューは何だった? ウチよりは手が込んでるよな、たぶん」
 春香は手を止めて、僕をじっと見た。反抗的な目つきに、僕の苛々は募る。
「なに? 手抜きを指摘されて逆切れかよ。ウチのことがちゃんとできないなら食堂なんか辞めろ。他人の子供のためにタダ働きして、自分の旦那はほったらかしって本末転倒だろ」
 話してるうちに苛々が募り、僕は舌打ちした。春香は辛そうな顔になり、肉をパックから取り出すとまな板の上で切り始めた。

 僕はスーツを、居間の椅子の背に雑に放ると、そのままクローゼットに入って部屋着に着替えた。そしてキッチンに入って冷蔵庫を開け、ビールとチーズを取り出す。テレビの前に向かおうとして、春香に声をかけられる。
「スーツ、椅子にかけっぱなしにしないで。皺になっちゃうから。ハンガーにかけてっていつも」
 僕は両手が塞がっているので、春香の足を軽く蹴った。もちろん跡が残らない程度に手加減をして。「いっ」彼女は顔をしかめる。ウスノロな妻のせいで、気分は最悪。貴重な憩いの時間が台無しだ。

 僕は居間のソファに腰を下ろした。テレビの電源を入れた途端、テーブルに置いたスマホが鳴り、僕はそれを手に取ると同時にテレビを消音した「はい、自宅です……え? いや。いま確認します」
 僕はノートパソコンを起動すると、ビールを飲みながらメールをチェックする。
「……今、見ました……厄介ですねコレ……うーん、時間もらわないと……ああそうなんですか。じゃあしょうがないっすね、了解です」
 スマホを切ると、ソファに放り投げた。くそ、どいつもこいつも。ああ、ストレスで胃潰瘍になりそうだ。

 テレビの映像を目で追いながら、仕事の手順を考えていたが、次第に思考が遊離し始める。無音のテレビドラマ。四人家族がテーブルを囲んで、カレーを食べている。親が子供に何か言い、もう一人の子供がそれに答えて、四人は笑った。笑いながらスプーンを口に運ぶ。
 僕らも結婚当初は、あんな風に食事をしながら話をした気がする。僕はキッチンの中の春香の姿に目をやり、リモコンでテレビの電源を切った。いつからだっけ。家の中で雑談が無くなったのは。


 夕食と風呂の後、仕事部屋に篭って、緊急に発生した案件の対応をしているうちに、二十三時を回っていた。ひと段落して気を抜くと、急に疲れを意識する。僕は椅子に座ったまま伸びをした。今日はここまでにしよう。
 喉が渇いた。寝る前だし、コーヒーよりビール飲んじまうか?
 僕はキッチンに行こうとドアを開け、そこで春香に出くわした。いつもこのくらいの時間にはとっくに寝ているので、僕は驚く。
「なんだ、まだ起きてたの」
「……うん」
 春香は怯えた様子で立ち止まり、僕を先に行かせようとした。その途端、カチャン、と足元で音がした。僕らは同時に床に目を落とした。

 春香の結婚指輪が落ちている。

 彼女が屈むより早く、僕はそれを拾い上げ、しげしげと見つめた。自然に落ちたのか?もしかして指が痩せたから?僕は春香の左指を確認しようと、手を伸ばした。春香はビクリと身をすくめ、俯きがちに僕の顔を伺った。怯えた様子に、彼女を蹴ったことを思い出して、胸にチクリと痛みが走った。
「痩せた? 無理しすぎなんじゃない」
 僕はそっと言うと、彼女に指輪を差し出した。彼女の、受け取る手をじっと見る。たしかに痩せた気がする。気がつかなかった、いつからだろう。
「大丈夫」
 春香は小さな声で答え、指輪を握りしめた。よく見ると目の周りが赤い、泣いてたのか?胸の痛みが急に大きくなる。いや春香が悪いんじゃないか。約束を破るから。彼女が完璧にやるべきことをやれば、痛めつけたりしないし、もっと優しくできるのに。でも……

(蹴ったりして、ごめん)

 暴力は良くない。怯えてるじゃないか、謝っておけ。
 彼女の失敗は、怒るほどのものじゃないって理性では分かってるんだ。
 でも……

(仕事で苛々してた。八つ当たりだった。ごめん)

 違う、僕は悪くない。ちゃんとできない春香が悪い。
「明日も早いんだろ。早く寝ろよ」
 僕はぶっきらぼうに言い捨て、キッチンへ向かった。
 居間で、空の胃にビールを流し込み、寝室に行くと、既に隣のベッドには春香が横になっていた。僕も毛布の下に潜り込む。
──彼女と最後に触れ合ってから、ずいぶん経つ。


***

川井かわいさん、ですよね。先月、うちの寺で納骨されたでしょ。俺、住職の見習いやってるもんです。あ、名刺、忘れたな……逝上晃いきがみあきらっていいます」
 丸眼鏡の男にそう言われて、思い出した。お経をあげている住職のそばで、法衣を着た若い僧が、こまごまと働いていたっけ。僕は気が抜けた声を出した。
「ああその節は、どうも」
「こちらこそ。どうすか、その後。ちょっとは元気になりました?」
「……元気に、見えますか?」
「全然。だから、こんなとこ来ちゃったんですかね」
 僕は、桜の方を眺めた。
「普通の桜じゃないなら、あれはなんです?」
 逝上は腰に片手をあて、もう片方の手を目の上にかざして、桜の方角を見つめた。
「桜の……残滓、みたいなもんです。表の世界では、死んだ桜ですよ。枯れたのか、伐られたのか」
「死んだ桜……じゃあ、あの下にいる人々は……」
「死んだ桜の下で花見してるんだから、死者でしょう。どさくさに紛れて、他にも色々より集まってますけど」
「死者……」
 僕は宴の人々をじっと見つめた。

 その中に。白いニットをまとった横顔が見えて、はっとした。
 人間の女は、顔の左側をこちらに向けて、隣に座る着物を着た獣と話をしている。
 間違いない。死んだ時の服装。白いニットで袖口に緑色の花模様。
──春香。

「はるか」
 僕は駆け出した。後ろで逝上の慌てた声がした。
「あっ! ちょっ、待って、ヤバイですって。川井さん、ストップ、ストーーップ!!」
 足元は闇のままで、見えないながらも走った感触は、草の生えた土手のようだった。起伏があり、何度も躓いた。その度に、焦って起き上がると、再び走った。急がないと、あそこに辿り着けない気がしたからだ。後ろから逝上が追ってきているのが音で分かった。
 少しずつ、不思議な桜並木と、その下に集う不思議なものたちの姿が近づいて来た。にも関わらず静かなままで、まるで水の中のように、途切れ途切れの鈍い響きしか聞こえない。

 ようやく、宴席の端に辿り着いたところで、逝上に腕を掴まれ、僕は喚いた。
「離せっ」
「ダメですってば! あっちとは関わらない方がいいんです! 下手すると戻れなくなる、いやもっと悪いことが起こるかも」
「僕は彼女に会わなきゃいけないんだっ!」
 そして逝上の手を振り払い、その場に跪くと、頭を地面に擦り付けて土下座した。
「頼む! 僕は、彼女に会って謝らなくちゃいけない。そうしないとっ、そうしないと……自分が許せない。いや、許されたいなんてムシが良すぎる、わかってる、でもここに彼女がいるんですっ。確かに見た、探させてくれお願いだ、頼みます!!」
 逝上はしゃがみ込み、土下座したままの僕を無言で見つめた。そして深いため息をついた。
「こういう“場”はね……移動する可能性があるっす。水草みたいなもんで、気まぐれに漂って、顕れたり、消えたりするんです。あなたが通って来た森、あれは、モノノケ道といって、他の次元に繋がる通路で、出入り口がいろんな場所に出現するんですよ」
 僕は、土に塗れた顔を上げた。逝上は僕の目を覗き込んだ。
「いいですか。奥さんが見つからなくても、俺が『戻る』と言ったら、絶対に従って下さいよ。あとは俺から離れないように。何が起こるか分かりませんからね」
 逝上の顔は怖いほどに真剣だ。僕は深く頷いた。
 彼は懐に手を入れた。そして、赤い糸を取り出すと、僕の右手首に結んだ。

 途端に大音響が耳に入ってきて、僕は驚愕した。周波数が合ったみたいに、周りのざわめきが言葉になって、一斉に耳に入って来た。うるさすぎて耳を塞ぎそうになる。
「……と、こうオレは言ってやったのよ……」「朝から晩までトンネル工事で、うるさくて寝られやせん……」「……そんでよ、入ってきた間抜けをかどわかして、食っちまった……」「遠くの水も近くの水もよ、慣れれば……」「男とおんなの尻子玉の違いってのはさあ……」

 僕と逝上は、二人で連れ立って、桜の下で料理をつつきながら話し興じている者達の間を歩き、彼女の姿を探した。
 そのうちに、青い皮膚に顔が半分溶けかかったような面相の化け物が、黄色い眼をギョロリと動かして、逝上を見下ろすと
「見た顔とおもえば、本懐寺の坊主のせがれじゃねえか」と唸るように言い、僕らの周囲のものたちは、ざわめいた。
「ありゃ、本懐寺はロクデナシが後を継いだんじゃなかったか」「こいつは、そのせがれよ。父親より見込みがある」「おい、せがれ。お前の爺さんは、大層な法力の持ち主だったぞよ。しかも、俺たちと親交があった。まあ呑んでいけ」
 逝上は顔に引き攣った笑いを浮かべて「そうっすかぁ、先祖代々お世話になってまーす……」と、にこやかに通り抜けようとしたが、着物を着込んだモノノケ達に囲まれて、強引に宴席へと連れて行かれてしまった。

 僕は慌ててその後を追おうとしたが、突然、強い力で手首を掴まれて、その場に尻餅をついた。引っ張ったのは、六十歳くらいの、時代劇で見るような衣装を着たおばさんで、白髪混じりのぼうぼう伸びた髪の毛に囲まれた顔は、昔話の山姥を連想させて、僕は震えあがった。おばさんは至近距離から僕の顔をまじまじと見つめた。
「アンタさ、生きてるひとでしょ? あたしも死人やってソコソコ長いからさ、わかんのよ。どっから紛れ込んだか知らないけど、ここは化け物の巣窟だから。見りゃわかるよね。喰われないうちに早く逃げな」
 おばさんは、顔は怖いけど、きっと良い人なんだろう。僕は藁にも縋る思いで、おばさんの冷たい手を握った。
「あのっ、妻を、探していて。先月亡くなって、いまここにいるんです。どうしても彼女に会わなきゃならない。お願いです、探すのを手伝ってくれませんか」
「そう、気の毒にね。けどさ、死人には関わらない方がいいよ。彼岸は、近くに見えても本当は遠い。奥さんのことはさ、諦めたほうが……」
「お願いします! きっとこんな奇跡は二度と無い。僕にできることなら何でもしますから。このままじゃ戻れません。どうか、どうかお願いします!!」
 僕はここに来て二度目の土下座をした。人生で初めての土下座だったけど、なんなら百回でもやるつもりだった。何でもする、何でもくれてやる。身体だろうと全財産だろうと。

 僕の必死さが伝わったらしい。おばさんは呆れた様子で「……強情なお人だ。よほど惚れきった恋女房に死なれたらしい。わかったよ、心当たりに聞くだけ聞いてみようか」と言ってくれた。
 そして「ついてきな」と立ち上がると、僕を伴い、床に座った人々の間を縫うようにして歩いてゆく。しばらくそうやって移動して行き、五人の人間が座って酒を飲んでいるところまで来た。
 五人は、服装も年齢もバラバラな人々だ。百歳を超えていそうなお爺さんと若い女、壮年の男、小学生くらいの少女、若い青年。おばさんは僕を振り返ると小声で囁いた。
「こいつらはアタシと同じくらい、ここにいる死者のなかでも古い奴らだ。中でもこいつは」と、女の子を指した。「一番の古株で、新入りの情報に聡い」そして、セーターとスカート姿の少女に呼びかけた。
「トメ、客人が、探し人だと。お前、詳しいだろ。教えてやんな」
 トメと呼びかけられた少女は、僕を怪訝な顔でジロジロ見た。革ジャンとジーンズ姿の壮年の男がにやりと笑った。
「場で生きた人間に会うのは久方ぶりだ。モノノケ道から迷い入ったか」
 赤いワンピースを纏った若い女は、眉間に皺を寄せて嫌そうな顔をした。
「ニンゲンってどこにでも、うじゃうじゃ湧いてきて、まるでウジ虫ね」
 僧侶だろうか、剃髪に着物姿の美しい青年が女をたしなめた。
「其方も生前はひとであったろう。あまり見下した言い方はどうか」
 黒い着物を着た、小さなお爺さんは、僕を見て微笑んだ。
「探し人とな。一肌脱ぐのにやぶさかではないが。折角じゃ、近づきの印に、まずは一献」
 お爺さんは、ガラスのコップに徳利から酒らしき液体を注ぎ入れて、僕に差し出した。僕は手元の酒を見下ろしてためらった。この場所の食べ物や飲み物を口にしても大丈夫なんだろうか。その場にいる者たちはじっと僕とお爺さんを見ている。僕をここに連れてきたおばさんも、止める素振りはない。
 僕は覚悟を決めて、目をつぶるとコップの中身をグイッと飲み干した。

 今まで飲んだことのあるどんな酒とも似ていない。火そのものを飲み込んだように、喉と腹の中がかあっと熱くなり、すごい勢いで顔に血が昇るのがわかった。周囲の景色がぼやけて、舞い散る桜と、人とモノノケの境目が微妙に混ざり合う。
 僕の中にわだかまっていた重苦しい気分が、溶けて緩んでいく。自分の顔がほころび「めちゃくちゃうまい。こんなうまい酒は初めてだ」と言うのを、どこか人ごとのように聞く。そして、次に壮年の男が差し出すコップを受け取ると、再び飲み干した。
 僕はすっかり楽しくなって、春香の特徴を説明した後、そのまま彼女との馴れ初めを話し始めた。心の中のもう一人の僕が「時間がない、早く彼女を探さないと」とせっつくが、僕はそれを無視した。無性に話したい、僕と彼女のことを。


「……で、今だ!と思って、彼女が落としたキーホルダーを拾って渡したんです。彼女は僕の顔を覚えていませんでした。小学生の時に何度か公園で遊んだ、知り合いの知り合い、なんて、そんなもんですよね。いや、もちろん言いませんよ、実は三ヶ月間ただ遠くから見てた、なんてカッコ悪いことは。僕が高二で彼女は中一だったかな。久しぶりに間近で見た春香はほんと可愛くて……テンパってるのを悟られないように必死でした。
 彼女の朝練は週に二回で、本当は毎朝でも会って話をしたかったけど、他の曜日は我慢しました。春香は割と、大人しいというか、人付き合いには慎重な方だったので、親しくなるまで時間がかかって……」
 壮年の男が、僕の話をさえぎった。
「いいよなあ。わしの頃は学生の男女交際なんてあり得なかったからな。恋愛結婚なんてのも、まあ、まずない時代で」
 おばさんが更にそれをさえぎった。
「お前さんは、見合いで嫁を娶って、一週間後には、戦艦に乗ってソビエトと戦争してたんだろ。もう聞き飽きたよ。今どきは男女交際どころか男同士、女同士の色恋だって珍しくない世の中だ。わたしゃそっちの方が驚きだね」
 黒い着物のお爺さんがニヤニヤ笑った。
「男同士で子作りってのは、どうやるんかの?」
 ワンピースの女が呆れたように
「できるわけないじゃなーい。子作りのためじゃなくて、お互いが一緒にいたいから、くっつくんでしょうよ。身分も性別も関係ないとか、ほーんと羨ましいわあ。なのに、未だに色恋の揉め事が絶えないんだからねえ」そして僕の方をチラリと見た。僕はその言葉に虚をつかれた。そう、一緒にいたいから……僕らは……

(春香さんはね、あなたのせいで、すごく苦しんでたんです)

「……離婚届を見つけたんです」
 僕は思わず口にした。


→後編に続く


※kesun4さんの詩はこちらです↓

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